風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

東京と地方

2017-02-28 23:29:53 | 日々の生活
 前回に引き続き・・・先週、中鉢良治さんのコラムも印象に残った。タイトルは、「東京時間と地方時間―東京スタンダードとの離反」というものだ。
 中鉢さんが東京に出てきたばかりの頃、山手線の駅で乗り換えるとき、周囲の人が皆、駆け足で移動しているのに驚いたのだそうだ。故郷のように電車が一時間に一本しかないような所なら、それに乗り遅れまいと急ぐのはわかるが、東京のように数分間隔で電車は来るのに、なぜ人々は急ぐのかが不思議でならなかったという。また、最近はインターネットの普及により地方にいても仕事が出来る環境が整い、サテライト・オフィスを運営するIT企業に赴任した人によると、地方の人は残業しない、といった話を引用される。そしてそれは地方には企業社会以外にまだ地元のコミュニティが存在し、そのために時間を使いたいと思うせいだろうと解説される。高度経済成長の過程で、東京は地方から若い労働力を惹きつけ、モノ(商品)から、コンビニや郊外型スーパーのような生活様式の変化を伴うビジネス・モデルまで開発し、東京スタンダードとして発信して地方を席巻し、地方密着型産業など地方らしさを駆逐し覆い尽くしてしまったが、東京と地方とでは違う時間が流れているわけだ。それでも日本の企業が地方に工場やソフトウェア開発拠点を設置していた頃までは良かったが、プラザ合意以後、円高が急激に進む中、企業は生き残りを賭けて、地方の工場を閉鎖し生産を海外に移転するようになると、地方から産業が失われ急速に衰退して行き、地方の人は益々「東京時間」や「東京スタンダード」に合わせる生き方を疑問視し始めている。幸い、IoTやAIの進化で、東京と地方の事業環境の差は益々縮まり、コスト面だけでなく住環境やコミュニティの強さなどで地方が優位性を持つことも増えてくるかも知れず、企業や国の研究機関は、将来の地方の姿を見据えて、地方と東京が双務関係に立つ施策や事業戦略を構築すべき時に来ているのではないかと、希望を持って結んでいる。
 想像の範囲だが、さもありなんと思う。分刻みのスケジュール、などと言ったりするが、一時間に一本しか電車が来ないところと、数分おきに電車が来るところとでは、時間の感覚は明らかに違う。私も、日中、外出して業界団体の会合に出たり、社外のシンポジウムやセミナーに出席するとき、ニッポンの電車の発着時間は正確なので、到着時間から逆算して、分刻みの行程表を描き、電車に乗り遅れまいと急ぎ足になる。それがニッポンの都会というものだろう。中国では国内線の飛行機が常に遅れるので、一時間も二時間も早めに行動する・・・というのとは明らかに時間の流れ方が違う。
 私は三歳のときに生まれ故郷の鹿児島を離れて大阪に出て来たので、私の父親は中鉢さんの印象に共感されるかも知れない。しかし、私は大学を卒業して大阪から東京に出て来たので、大阪と東京との比較で言えば時間感覚にそれほどの違和感はない。むしろ、山手線の駅で乗り換えるとき、皆、お行儀よく並んで電車を待ち、比較的整然と乗り込むのにはびっくり仰天したものだ。今はどうか知らないが、私が子供の頃、大阪では駅のプラットフォームで列をなして並ぶことはなく(という意味では中国人のようだが)、電車が到着すると、一斉にわっと入口に殺到して我先にと乗り込もうとするのが常だった。このあたりはどう解釈すべきだろうか。また、当初、東京の人と話していると、随分、厳密な言い回しをされることにも驚いたものだった。大阪弁(などの方言は、と言うべきかも知れない)は感覚的な表現で済ませることが多いことに今更ながら気が付いたのだ。その後、アメリカに駐在して、英語表現がさらに論理的で厳密なことに苦労し、東京にせよアメリカの都市にせよ、文化や背景が異なる人が集まる社会は、まさにローコンテクスト文化であることを思い知ったのだった。先の大阪の駅のホームの話に戻ると、並ばずに到着した電車に群がるのは、案外、阿吽の呼吸で、後先の順序をお互いに微妙に乱さない、極めてハイコンテクスト文化だからこそ出来る芸当かも知れないと思ったりする。
 結局、中鉢さんにとって、故郷(=「地方の中の地方」)と東京(=「都会の中の都会」)とは圧倒的な差で以て対置される存在だが、私にとって、大阪もまた所詮は都会であることから、「地方の中の都会」と、「都会の中の都会」(=東京)という、中鉢さんとは位相が微妙に異なる、コンテクストの差として感知されたわけだ。かつて横浜ナンバーの車で大阪に帰省したとき、(追い越しの邪魔をされるなど)随分イジワルされて憤慨したものだが、私自身、かなり大阪人のアイデンティティを失ってしまったかも知れない・・・とすると、なんだか寂しい話だ。
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遊びの効用

2017-02-26 23:19:17 | 日々の生活
 先週、藤原和博さんがあるコラムで語っていたことが印象に残った。タイトルは、「10歳までにどれだけ遊んだか…でアタマの柔らかさが決まる」というものだ。
 冒頭、「正解のない問題に対してアタマを柔らかくして縦横無尽に考える作法は『遊び』のなかで育まれます。10歳までにどれほど遊んだか、子ども時代に想定外のことにどれほど対処したかが大事なんです」と述べられる。例えば、缶けり遊びを取り上げ、「自分が鬼の場合、缶からどれくらい離れて、隠れているやつらを見つけに行ったらいいのか。あの倉庫の裏に何人、あの木の後ろに何人。そんな空間的なイメージをして、距離を測りながら探しに行きます。こういう遊びが空間認識を鍛えるんです」と言う。「また、鳥瞰図的な世界観は、木に何度も登ったことがないとつきにくいかもしれません。平面図の世界を斜め上から見るとどう見えるのか、高いところに登って同じ風景を繰り返し見たことがなければ実感できないでしょう」とも言う。そして、「こうした遊びのなかで獲得する空間認識が、図形や立体の問題を解くのに大事なんだそうです。図形問題を見たときに、問題を解く鍵になる接線や補助線が想像できるかどうか。円と円があったら、その円同士の接線を見出したり、多角形のなかにいくつも三角形となる補助線を引く力のことです。このように、アタマの柔らかさは『遊び』のなかで育まれます」と結論づける。
 他方、「保守的な官僚や仕事のできないビジネスパーソンに特徴的なのは、『遊び』がないこと。『学力』があるので、物事を高速で処理する力は高いのだろうけれど、『遊び』の体験の蓄積や、イマジネーションが欠乏しているケースが多いのです。その意味では、高級官僚や医者や弁護士などの職種が、小学校の低学年から受験勉強に追われた人たちに支配されるのは、社会的には非常にリスクが高いと言えるのではないでしょうか?」とまで言われる。
 これまでにも、東大と京大の数学の入試問題の違いについて、何度かブログに書いて来た。最近はどうか知らないが、私が受験生の頃、試しに解いてみた東大の数学は、解答を導くための方針はすぐに立つが、そこに至る計算が恐ろしく面倒で、それを如何に要領良く処理できるかがポイントだったように思う。それに対して京大の数学は、全てが全てそうだというわけではないが、中には全く見当がつかない問題があり、文科系では5問中、3問半が合格ラインと言われた、その「半」というのは、そんな奇抜な問題に対して、このように考えたら解けるだろう、くらいのアプローチを書いて点数を稼ぐのだと、今で言う都市伝説のように語られたものだった。双方の大学の特徴をよく表していたように思う。それぞれお膝元の地域の受験事情も対照的で、東京では私立の(中高一貫)進学校を目指すのが一般的で、早い内(例えば小学校)から受験勉強を始めるのに対し、大阪では公立の進学校(高校)が健在で、私自身、初めて受験を経験したのは中学三年で、それまではのんびりよく遊んで過ごしていた。
 先日、ある講演を聴いていると、受験勉強に慣れた人はビジネスでは上手く行かない、逆に大成した人で二浪、三浪した人も珍しくない、と言う。ビジネスには確たる答えがないことが多いからで、答えは一つと思って努力しても甲斐がないからだが、それは極論にしても、8~9割の人は平均点を上げる(つまり弱点を克服する)勉強でよいけれども、一握りの人は放任し好きなことをやらせる(つまり得意なことを極める)のが良いという主張には、なんとなく納得させられる。慶應の先端生命科学研究所長の冨田勝教授が学生を指導する中で得られたご経験だそうである。
 子供は、年齢に応じた子供らしい遊びをすることが重要だと、私も思う。その自然な発展段階の中で様々な知恵を身につけていく。子供は言わば白紙のキャンバスであって、少しずつ世の中を知るにつれて想像を膨らませる。少し知るからこそ想像力を働かせる余地が多分にあるのであって、全て知ってしまえばそれまでだ。だから子供の回答は想定外のことが出て来て興味が尽きないが(昔、「あっぱれさんま大先生」という番組があった、あの面白さである)、大人は知識や経験が仇になって、回答に面白みがない。よく遊んだ子供が全て図形問題で補助線を想像出来るとは思わないが、多かれ少なかれ柔軟さが身につき思考の幅があるようには思う。
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青梅への道 三たび(3)

2017-02-23 03:18:14 | スポーツ・芸能好き
 週末、三年連続三度目の青梅マラソンを走って来た。
 青梅線・河辺駅あたりから昔懐かしい昭和のニオイのする商店街を抜け、青梅線沿いに10駅先の川井駅まで、行きはだらだらの上り、帰りは下りの山道を往復する。1万3千人余りが参加する人気の大会でありながら、狭い田舎道を行くので、スタート直後は大渋滞してなかなか前に出ることが出来ない。いくら渋滞したところで10キロ(=私のスピードでは1時間後)を過ぎる頃にはバラけてくるものだが、30キロ・コースのここ青梅では、倍のスピードでかっ飛ばす先頭集団が戻って来るのとかち合う地点(=20キロ地点)となるため、そこからは益々狭い片側走行を強いられて、渋滞はなかなか消えることがない。
 年末年始に1ヶ月強の完全休養とサボってしまい、直前1ヶ月に6度の練習で(計算すると)都合84キロしか走り込んでいなかったので、普段のジョギング・ペースで、無理せず流れにまかせてのんびり走った。11時半という中途半端なスタート時間はまことに悩ましく、コンビニお握り7個買い込んで、朝飯に4個、走る前に3個、それから腰にキビ団子ならぬソーセージと栄養ジェルをぶら下げて途中で補給するガス欠対策万全で臨んで、なんとか(一昨年のような視野狭窄に陥ることなく)元気を持続出来たのは良かった。が、坂道だったせいか靴擦れで両足の裏に10円玉~500円玉大のマメをつくって、最後の5キロは失速してしまったのは相変わらずの誤算だった。後遺症と言うと大袈裟だが、片方のマメが潰れたのに何の手当もしなかったものだから、今日まで痺れて足を引き摺って歩く始末だ。結果、3時間12分、ちょうど昨年の記録と一昨年の記録の中間くらいで、客観的に見ると情けないところだが、私自身は負け惜しみではなく上出来だったとは思う。
 毎回、思うことだが、昭和にタイムスリップしたような昔懐かしい沿道に、小さいお子さんからお年寄りまで、地元の方々の応援が賑々しく、「ロッキー」や「帰ってこいよ」の曲を大音量で流して盛り上げる中、ボランティア団体が水やチョコレートやオレンジ片や梅干しやヤクルトを配ってくれるのも有難い。そんな独特の歓迎ムードと、初めてエントリーした3年前は大雪のため中止になったのは、亡くなった母が雪を降らせたのだろうと勝手に思い込んで、そのお詫びを込めて(?)、新しモノ好きの私にしては珍しく、このレースにだけは戻ってきてしまうのだ。
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北朝鮮の闇

2017-02-18 18:24:44 | 時事放談
 北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄・金正男氏がマレーシアで殺害された事件は、毒劇物による暗殺の可能性が高まり、まるでスパイ小説のような謀略のニオイに充ち満ちていて興味をそそられる。なにしろ、ただでさえ情報が乏しく秘密のベールに包まれた北朝鮮で、中国・ロシア・米国といった世界の大国の思惑が交錯する場所なのだ。
 マレーシアの警察幹部の話として、金正男氏は過去2年、マレーシアやシンガポールでさまざまなビジネスに投資し、地味な行動を心掛けて、ボディーガードも雇わずに単独で両国やマカオを飛び回り、マカオへの移動はLCC(格安航空会社)のフライトを利用していた(そして今回もそのLCCの空港で殺害された)と伝えられる。ロイター通信も、金正男氏はジーンズにサンダルなどのラフな格好でルイ・ヴィトンの鞄を所持していたという。マカオ在住の友人が香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストに語ったところでは、金正男氏は金正恩委員長が自らの命を狙っていると打ち明けたが、護衛はつけておらず、「明らかに彼は中国から守られていると感じていた。マカオは彼に安全と娯楽を提供していた」ということだ。北朝鮮の政治体制や金正恩氏についてジョークを言うことはあったが、多くは語らなかったらしい。それでもいつか祖国で何らかの政治的な役割を果たしたいと望んでいるようだったという。
 正統性という意味では、同じ庶子でも、金正恩委員長が、北朝鮮で二等市民扱いされる在日僑胞(在日朝鮮人)の高英姫氏の子であり今でも母親の存在を北朝鮮住民に説明できずにいるのに対し、金正男氏は、金日成・金正日と続く金王朝の嫡子であり、優位にあるはずだった。実際に幼い頃は父親の金正日総書記から溺愛され、帝王学を学んだと言われている。ところが、2001年のディズニーランド事件で怒りを買い、それがどれほどの重みがあったのか知らないが、後継候補から外されると、中国と張成沢氏(叔母の夫である元・国防副委員長)を頼り、中国当局に守られながら、北京、マカオと東南アジアを行き来する生活を送るようになったという。北朝鮮にも中国のような改革開放政策が必要という見方で三者の意見は一致したようだ。
 中国にとって北朝鮮は、アメリカ(=在韓米軍)との直接の対峙を避ける重要な緩衝地帯だ。北朝鮮をなるべく自分に近い存在にしておいて、江沢民や胡錦濤政権の時代には「北朝鮮番犬論」や「北朝鮮屏風論」と呼ばれて、文字通り「番犬」や「屏風」として中国を守る風よけのように利用してきた。その対価として、三大援助(食糧・原油・化学肥料)を欠かさなかったし、金正日総書記が望む時にはいつでも訪中を許可し、ひとたび訪中すれば、中国共産党中央常務委員(トップ9)が全員揃って出迎えるなど厚遇した。ただ、中国にとって大事なのは、あくまでも北朝鮮という国家の存在であって、それが誰であっても構わない。その意味で、北朝鮮でクーデターなり何か混乱があったときに(場合によっては中国が金正日氏や金正恩氏を暗殺したときに)傀儡政権として据える切り札として、金正男氏をかくまっているという見方がなされてきた。
 金正恩氏にとっては面白かろうはずがない。2011年末に金正恩政権が発足すると、金正男氏に対する経済援助は事実上打ち切られた。そのため金正男氏はマカオでの滞在先のホテル代が支払えないほど困窮した生活を送っている様子がロシアの週刊誌(「論拠と事実」)に報道されたこともある。2013年、経済支援していた張成沢氏が処刑されてからはさらに窮地に追い込まれ、金正男氏が亡命を模索していたとの噂があるのはそのためだろう。そして、金正恩政権発足後の2012年頃から「場所、手段を選ばず、金正男氏を除去せよ」との指令(スタンディングオーダー)が出され、北朝鮮の工作機関(偵察総局「暗殺組」)に付け狙われるようになり、張成沢氏が処刑された後、暫くはシンガポールを離れずに閉じ籠もっていたと言われる。
 金正恩委員長にとって、金正男氏は“潜在的”な不安要因なのだろう。脱北者団体が「北朝鮮亡命政府」を樹立する構想があり、その首班に金正男氏を担ぐ計画があることが報じられて、それがどこまで現実的なのかは甚だ疑問だが、金正恩委員長がどう受け止めていたかは他人には推し量れない。他方、習近平国家主席は、挨拶に来ないし言うことも聞かずに核開発を続ける金正恩委員長を持て余し気味で、「北朝鮮生贄論」、つまりアメリカとの緊張を和らげるために共闘する共通の敵(スケープ・ゴート)に仕立てる気運が高まっているとまで言われるが、余談である。
 まるで北朝鮮の工作機関が金正恩委員長の指令のもとに金正男氏を暗殺したかのように綴って来たが、まだそうと決まったわけではない。なにしろ、その背景、何故、今、しかも公衆の面前で、金正男氏を殺害しなければならなかったのかという疑問が残る。米・中電話会談があって、トランプ大統領が「一つの中国」に拘らない発言をあっさり引っ込めた後だけに、何らかの密約があったのではないかという疑念もある。
 これまで何度も金正男氏の除去を試みてきたところ、今回たまたま成功したものと見る人がいるが、果たしてそうだろうか。直前にクーデター計画があって、それを察知した金正恩委員長が金元弘(国家保衛相)を突如解任し、金正男の暗殺を急がせた・・・と見るなら分かる。いや、金正男氏はもはや金正恩委員長にとって脅威となる存在ではなく、殺害したのは北朝鮮ではないかもしれないと言う日本の朝鮮半島問題専門家がいる。今回の事件は、金正恩委員長からの暗殺に怯えてきた金正男氏と他国が仕組んだ謀略で、金正男氏は名前と顔を変えてどこかに逃れて生きていると話すインテリジェンス関係者もいる。ソ連が崩壊したときに極秘資料が流出したように、北朝鮮が崩壊するまで、真相は闇の中なのだろうか(おっと、またしても北朝鮮の仕業のような言い方になってしまったが、まだそうと決まったわけではない)。
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のび太かスネ夫?

2017-02-13 23:41:03 | 時事放談
 民進党の野田幹事長は、イスラム圏7ヶ国からの入国を禁止した米大統領令に関し、懸念を示した英国・メイ首相やドイツ・メルケル首相を「しずかちゃん」に譬えて、「しずかちゃんは毅然としてものを言っている」と評価する一方、内政問題としてコメントを避けた安倍首相については、「のび太君はびびりながらもモノを言うことがある。(首相は)完全にスネ夫君になったと思われるのではないか」と批判したらしい。まあ、同じ「ドラえもん」登場人物でも、前回ブログ・タイトルの「ジャイアンのいない世界」が上等な譬えとは言わないが、野田さんも言うに事欠いて・・・と思わざるを得ない。内政問題であるのは事実だし、難民・移民の受け入れに消極的な日本の首相が、メルケル首相のようには行かないことくらい、誰の目にも明らかなのに。
 それにしても気持ち悪いくらい、トランプ大統領は安倍首相を厚遇したようだ。野田さんが妬きたくなる気持ち(!?)も分からないではない(笑)。ホワイトハウスの首脳会談後、二人ねっとり見詰め合う写真がネットで話題になっているのは、カメラマンが「(目線を)こちらお願いしまーす」と言ったのを、トランプ大統領から「彼らは何て言ったの?」と尋ねられて、安倍首相が「Please, look at me.」と答えてしまったため、というのはご愛嬌だが、産経新聞の阿比留瑠比氏が、「オバマ氏が安倍首相に親愛の情を示すハグ(抱擁)をするまで1年半かかったが、トランプ氏は首相がホワイトハウスに到着するといきなりハグしてきた。潔癖症で知られ、普段は握手すら嫌がるトランプ氏の驚きの行動だった」と書いているのを見て、二人の大統領のスタイルの違いに思わず苦笑してしまったが、両国首脳が、お互いに人たらし同士、仲良くなるのは悪いことではない。
 だからと言って通商問題や為替問題が鎮静化したわけではないのは報道されている通りだろう。日米同盟の意義についてはなんとなく理解されたように見えるが、トランプ大統領の世界秩序についてのビジョンはいまひとつよく分からない。
 そうは言っても、阿比留氏が「第2次政権発足以降、4年以上がたつ安倍首相は、すでに先進7カ国(G7)ではドイツのメルケル首相に次ぐ古参であり、内閣支持率が6割を超えるなど国内の政治基盤も強い。ロシアのプーチン大統領はどんな人物か。中国の習近平国家主席は何を考えているのか。欧州連合(EU)とのつき合い方は…。これらの諸問題について何でも答えられる人物は、トランプ氏にとって安倍首相のほかにはそうはいないだろう」と指摘しているのは、あながち外れてもいないだろう。ニクソン元大統領の著書「指導者とは」にも首脳同士の似たような関係が登場する。4年前の訪米時には冷ややかだった米国メディアも、今回は、「ここ最近では最も戦略的に大きな野心を抱いた日本のリーダー」(ウォールストリート・ジャーナル紙)と安倍首相を持ち上げ、「地域の安全保障の最重要事項についてはトランプ氏と見解が一致するのではないか」と言い添えたらしい。
 世界情勢が不透明な状況で、安定した政権運営を続けることのメリットと言えるが、エドワード・ルトワック氏をして「私は安倍にいろいろな話をした。中国の国家主席・習近平についても、インド首相のモディについてもレクチャーしたが、安倍は全部分かっていた。安倍に教えることは何もない。彼はおそらく学問的に戦略論を系統的に学んだわけではないだろうが、生まれついての戦略家だ」などと言わしめたらしい安倍首相の力量は、それなりに正当に評価すべきかも知れない。のび太かスネ夫か?などと揶揄することなく・・・(むしろ周囲を固めるブレインが優れていると言うべきかも知れないが、そのブレインを使っているのは紛れもなく安倍首相である)
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ジャイアンのいない世界

2017-02-09 23:45:36 | 時事放談
 このタイトルから連想するのは「アラブの春」であろう。チュニジアは唯一、民主体制への移行に成功したと言われるが、カダフィ大佐のいないリビアやムバーラク大統領のいないエジプトは不安定化し、中東での民主化による国づくりという一大プロジェクトは大いなる蹉跌を味わった。民主主義を成り立たせるのは飽くまで支配される側であって、その支配される民衆に知識も経験もないこれら諸国は、実は独裁者がいればこそ安定していたのだ。そのジャイアンがいなくなるや、社会は混乱し、事態は収拾がつかなくなって、以前にも増して酷い社会が現出する皮肉で不幸な事態に至ったのだった。
 そして今、トランプ大統領の登場により、教科書的とも言える自由・民主主義を旗印に、多少お節介ながらも国際主義を奉じてきたアメリカというジャイアンの存在が後退しかねない事態に直面し、人々は大いに戸惑い、息を詰めてその成り行きを見守っている。うるさ型の日本のメディアですら、トランプ大統領に対し日米同盟や自由経済の価値を説いて、詰まるところ歓心を買うべしと、恥じらいもなく進言するほどだ。
 こうして見ると、世界は微妙なバランスの下にあり、status quoつまり「現状(維持)」とは、時に安定し、時に緊張しつつも、さまざまな力学の末に辿り着いた現在の到達点であって、来るべき変化による混乱を望まない人々にとって、事勿れと言われようがあらまほしき世界のようである。逆に、トランプ大統領のように「現状(維持)」をひっくり返しかねない予測不可能性は、傍迷惑であり持て余してしまうのである。
 北朝鮮では、人民は不幸ながら、取り巻く国々のどこも、北朝鮮の緩衝地帯としての地位の変化を望まないため、「現状」のまま凍結し奇妙に安定している(正確にはその間隙を縫って着々と核開発だけが進み、世界は手を拱くばかり)。
 逆に中東では、既にオバマ政権の頃から「現状」維持されず、混迷を深めてきた。とりわけ二つの事案、一つはシリアにおいて、アサド政権が化学兵器を使用したことが確認されれば空爆も辞さないと、レッドラインの啖呵を切っておきながら、約束を果たさず、アラブの親米諸国との関係が冷え込んだ(ロシアが化学兵器廃棄に関して仲介したからではあったが)し、イランでは、P5+1で核合意を纏めたのは、平和主義者オバマ前大統領の面目躍如たるところと評価する声もあるが、地域大国イラン(かつてのペルシャ帝国)の台頭を恐れるスンニ派の親米諸国やイスラエルとの関係は悪化した。アジアでも、中国の南シナ海進出を牽制する「航行の自由作戦」は中途半端なカタチで進められ、中国の力による「現状」変更を止めるに至らず、同盟諸国の中でもフィリピンやマレーシアは、経済的に中国の磁場に引き寄せられつつある。こうしてジャイアンの力が及ばない、所謂「権力の空白」が生じたところに、ロシアや中国が勢力を伸ばし、情勢は不安定化している。
 トランプ大統領は、こうした世界の力学を重々理解した上で、言わば「逆張り」を行っているだけではないかと思うのだが、穿ちすぎだろうか。一つには、不人気(とは必ずしも言えなかったのだが)な前政権の全てを否定することによって自らの支持獲得を狙うものであり、もう一つには、世界中の国々(とりわけ同盟国)を不安に陥れることによって、自らの交渉のポジションを優位あらしめるものだ。実際に選挙期間中のトランプ氏の気紛れな発言は矛盾に満ちており、今、閣僚やスタッフの発言とも食い違う。驚いたことに「強いドルと弱いドル、米国経済にはどっちがいいんだっけ?」などと夜中の3時に補佐官を叩き起こしたことを、米ニュースサイトのハフィントンポストは報じたらしいが、トランプ大統領は下馬評通り国際金融にも外交・安全保障にもオンチなのだろう。そして具体的政策は(これまでの発言は措いておいて)これから場当たり的に考えるのかも知れない。
 安倍首相は今夜、首脳会談に向けて発ったそうだが、トランプ大統領との間でどんな会話を楽しむのだろうか。その会話の端々に、どんな世界秩序のビジョンが垣間見えるのか(本当にジャイアンのいない世界が現出するのか、しないのか)、興味深い。
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アパホテルの戦い

2017-02-06 23:44:40 | 時事放談
 アパホテルが「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」を否定する書籍を客室に備えているとして、中国政府が訪日中国人にホテル利用禁止を呼びかけ、ネットや共産党機関紙「人民日報」などで頻りにアパホテル・バッシングを繰り広げて、中国では「アパホテル事件」と名付けられているらしい。以前にも書いたが、一民間企業を相手に、恐れ入る。この週末には、在日中国人らが新宿で抗議デモを行い、デモに抗議する団体メンバーも多数詰めかけて、長閑な休日のはずの新宿の一部で混乱があったらしい(そうと分かっていれば、ちょっと見てみたかった気がする)。
 それにしても、以前にも書いたが、異様この上ない。「アパホテル事件」当初、中国外務省報道官は「強制連行された慰安婦と南京大虐殺は、国際社会が認める歴史的事実であり、確実な証拠が多くある」と言った。彼らにとって重要なのは何よりも「国際社会が認める」ことにあるらしい。国際社会に認めさせた、つまり宣伝したのは中国共産党であるという意味では、図らずも彼らの歴史認識なり歴史観が「プロパガンダ」に基づくものだと言っているようなもので、報道官発言が馬脚を現していることに果たして気付いているのかどうか。
 そもそも歴史的事実は動かしようがないものだ。その歴史的事実を自分に都合よく拾い集めれば(解釈すれば)自分好みの歴史認識という一本の糸が紡がれる。そんな歴史認識の糸を何本も織り込めば歴史観という布が出来上がる。隣人同士で敵対するのは古今東西、珍しいことではなく、そんな独・仏による歴史教科書の共同研究が見開き両論併記に終わったことは記憶に新しい。ところが東アジアでは両論併記にならず、一方の論を他方に押し付け、一方の歴史観という布で他方を覆い尽くそうとしている。アパホテルの歴史認識なり歴史観に賛同するかどうかは別として(実際のところ、中国のプロパガンダにうんざりしている日本人は多いだろうし、最近の学術研究によれば、南京で虐殺があったとしても「大」虐殺と呼べるほどではなく一桁は小さかっただろうことが明らかになりつつあり、多くはアパホテルに同情的だろうが、それはひとまず措いておく)、アパホテルには、歴史認識を押し付ける全体主義的なあり方に屈することなく徹底抗戦して欲しいと思う。アパホテル代表の元谷氏が「(戦後)70年間にわたって日本は『押せば引く国』『文句いえば金を出す国』という(敗戦国の)悲哀を味わっていたが、『本当はどうなのか』ということを知ってもらう必要がある」と発言したのを聞くと、これまで日本国政府が不作為で招いたある意味で屈辱的な状況から、身を挺して日本の国柄を守る気概が感じられて頼もしい。中国政府が騒いでくれるお陰で、アパホテル事件が広く国際社会に取りあげられ、日韓の慰安婦合意と同様、言わば国際問題化して国際社会の目が向けられるとすれば、却って好都合でもある。
 しかし今日のブログで取り上げたいのは、昨日の新宿デモに抗議する保守運動代表の桜井誠氏からマイクを受け取って語り始めたあるウィグル人の話だ。ちょっと長くなるが産経Webから引用する。

(引用)
 そのとき、桜井氏が1人の外国人男性にマイクを渡した。男性は中国・新疆ウイグル自治区出身で、静かに語り出した。
 「中国の官製デモが、この素晴らしい民主国家、アジアのモデルである日本で行われている。こんな素晴らしい国家で、こんなくだらないデモが…」
 男性はトゥール・ムハメットさん。世界ウイグル会議日本全権代表を務め、世界ウイグル会議のラビア・カーディル氏(70)が来日し、講演した際は通訳を務めた人物だ。ムハメットさんは続けた。
 「1949年の中華人民共和国建国以来、数え切れない殺戮、弾圧、海外侵略を行っています。中国中央民族大学のイルハム・トフティ先生もウイグル人の基本的人権を守るために発言しただけで、無期懲役の判決を受け、新疆ウイグル自治区の獄中にいます。どうしてこの素晴らしい(日本という)国家で、こんなデモをするのか。建国以来、ウイグル人、チベット人に対する虐殺は許されません。私は、この平和な日本で、平和がいかに大切か痛感しています」
 そこまで話すと、ムハメットさんは「日本の秩序を守ってくださる警察官に心から敬意を表します」と言って締めくくった。
 ムハメットさんのツイッターによると、「全く個人で、アパホテルデモに反対する気持ちで」新宿に来たのだという。
(引用おわり)

 最後のところは事実かどうか怪しいとは思うが、いずれにしても日本の極端な保守派の人が語るよりよほど説得力がある話だ。この記事を読んで、これはウィグル人、チベット人だけの話ではない、二ヶ月ちょっと前、ニューズウィーク日本版11・29号で見掛けたモンゴル人の話を思い出した。
 楊海英・静岡大学教授(モンゴル名:オーノス・チョクト)によると、三ヶ月ほど前、世界各国に広がる南モンゴル(中国・内モンゴル自治区)の複数の運動団体が「クリルタイ」と呼ばれる連帯組織を結成するため、永田町の参議院議員会館102会議室に集まったそうだ。150人近いモンゴル人を応援するため、香港の民主化運動「雨傘運動」の学生指導者、台湾与党・民進党系の政治家や学者、チベット亡命政府とウィグル亡命政府の代表、天安門事件以降に米国を拠点に民主化運動を推進して来た大陸系の「中国民主運動海外連合会議」の代表なども駆けつけたらしい。日本からも参加した国会議員がいたという。小さい規模ながら、なんとキナ臭いことだろう。
 そのせいか、その記事を読んだ時には既に一ヶ月近く経っていたが、朝日・毎日・読売・産経・日経の各日刊紙のWebサイトを「南モンゴル」×「クリルタイ」で検索してみたが一件として引っ掛からなかった。「南モンゴル クリルタイ 公式サイト」があるし、Facebookには「南モンゴル クリルタイ結成大会」のサイトが立てられている。一般社団法人「モンゴル自由民主運動基金」や同じく「アジア自由民主連帯協議会」なる団体のサイトには告知がある。どうやら参加した運動団体が関係するWebサイト(及び篤志家の個人ブログ)とニューズウィーク日本版以外には出ていないようだった。
 そして思うのは、いつか見た光景・・・デジャヴであろう。
 彼らは、何故、わざわざ東京を選んだのか。楊海英教授によれば、「大日本帝国がかつてモンゴル人の居住地に満州国と蒙疆政権を樹立したから。モンゴル人は旧宗主国である日本の関与を求めている」のだと、簡潔に述べておられる。東京に集結したモンゴル人は、中国政府に対し、「真の民族自決の実現」を求めたという。かつて辛亥革命のときにも日本人や日本という地が少なからぬ貢献をしたのは歴史的事実であり、日韓併合前に、朝鮮が清にもロシアにも影響を受けない独立国家であることこそ重要だと、あの福沢諭吉先生も朝鮮の独立派に対して武器を送ったという噂がある。大日本帝国は、アジアの地域秩序に隠然たる影響力を及ぼし得る存在だったのである(そしてそれが目立ち過ぎて欧米諸国から叩かれてしまったとも言える)。
 もとよりこのモンゴル人の運動がどれ程の影響力があるものかは分からない。辛亥革命を持ち出したが、それと比肩するほどの将来展望があるとも思えない。しかし、先ほどのウィグル人の演説をも思い併せれば、アジアの民主主義国家・日本への期待が高いのはどうやら事実のようだ。
 国際社会は残念ながら(安倍首相が頻りに主張する)価値観外交だけで上手く行くと思うほど、私たちはナイーブではない。有り体に言えば、打算と権力政治が渦巻く世界だ。しかし、一つの重要な側面として、全体主義国家、一党独裁国家に抗して、自由・民主主義と法治主義と人権という西欧社会の価値観を心から信じ、それを守るメッセージを出し続けるのは、国際社会において西欧諸国ばかりでなく声なきアジア諸国の信頼を得るという意味で、今ほど大事なときはかつてなかったように思う。
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青梅への道 三たび(2)

2017-02-04 21:54:36 | スポーツ・芸能好き
 所詮、私が走るのはジョギング・ペース(1キロ6分)だからな、と、最近は自分に言い聞かせることにしている。青梅マラソンを間近に控えて、ちょっと焦っているからだ。
 今シーズンは、10月1日の皇居ラン(15キロ)はご愛嬌として、12月4日の湘南国際マラソンに出場する予定だったが、棄権した。よりによってある資格試験の二次試験日程と重なり、いずれも同じような参加費(受験料)を支払って、じゃあ今後どちらに再チャレンジするチャンスがあるかと言えば、言わずもがな、試験とそのための対策・勉強など二度とやりたくないので、湘南は来年もあるじゃないかと、泣く泣く諦めたのだった。そのため、2月19日の青梅まで間が空いて中だるみになってしまったのと、折しも右足裏に違和感を覚えたのとが相俟って、年末年始を挟んで一ヶ月強も完全休養した。走ろうと思えば走れないわけではなかったのだが、歩くと関節が痛むという妙な(都合のよい?)病である。しかし、一向に良くなる気配がないまま、青梅マラソン出走まで一ヶ月を切ったので、待ち切れずにまた走り始めた。30キロとは言え、50歳を過ぎて、走り切る身体を造るためには、それなりに準備しなければならない。そこで、冒頭の割り切りである。所詮、ジョギング・ペースだから、体育系のクラブ活動をやっている中学生なら何の準備をせずとも走り切れるだろう、その程度のことだ、と。心肺機能への負担は大したことではない。足腰に負荷をかけ、内臓もびっくりしないように、怠けた身体にショックを与えて、引き締める必要があるのだ。
 それにしても何故1キロ6分のジョギング・ペースなのか。市民ランナーにとって、サブ・フォー(マラソンで4時間を切ること)は一つの大きな目標であり、端的に壁だ。アメリカ駐在していた20年前は、私もまだ30代半ばの若造で、実に雑な準備でも、また別に便利な栄養補給ジェルもなく、靴もクッション性の低い地下足袋みたいなものでも、難なく4時間を切れた。では、50歳を過ぎれば、サブ・フォーを狙えないのかと言うとそうではなく、覚悟して週に何日も練習して1キロ5分半をちょっと切るペースを維持することが出来れば、なんとかなる。それを敢えてジョギング・ペース(1キロ6分)に留めるのは、恐らく人間にとって閾値みたいなものがあって、1キロ6分かけるのは、ひとえに「身体が楽」だからだ。冬場に週一、レース直前一ヶ月間は週二で通算100キロ強も走れば、なんとかなるので「心も楽」だ。そして人は50歳を過ぎる頃にはいろいろ欲も出て来て、こらえ性もなくなって、努力を惜しむ。別名「ずぼら」と言う。まあ、自己韜晦するならば、出来ることを(無理なく)やる、というところだ。それに私の場合、レース後半になると腹が減り、気力も萎えて、頑張りが利かなくなるので、記録を縮めるためには、練習を積むよりガス欠対策を打つ方が効果が高いのではないかという思いもある。空腹と気力には相関があるはずで、生命を維持するために、これ以上、腹に何も入れないで運動するのは良くない・・・と、脳が信号を送っているはずなのだ。そんなこんなで、ただでさえ加齢とともに、同じ練習量では記録が落ちるばかりの中で、1キロ6分を目安に、フル・マラソン4時間15分前後という控えめな記録達成を目指している。
 仮に1キロ6分であっても、マラソンを完走するなんて凄いね、と人は言う。でもその陰で、その齢で無理して走って何が楽しいのかねえ、モノ好きだねえ、と思っているに違いないことは察しがつく。私の家内に言わせれば、辛い思いをすることになるのは分かっていて何故わざわざカネを払ってまでしてレースに出るかね!?ということになる。胸に手を当ててよーく考えてみると、結局、身体にキレが戻ってなんとなく心地良いのである。これは恐らく本能に関わることだから説明が難しい。岸田秀さんあたりは(昔、読んだものなのでいい加減な言い回しになるが)本能が壊れた(ある意味で欠陥)動物の人間は文化でそれを補うことで文明社会を築いたという。走るというのは、人間の心の奥底に沈み込んだ野性に風を吹き込むことだと、私は思う。それを心地良いと思えるかどうかは、0か1かの世界ではなく、誰しも程度の問題なので、意地・・・がないわけではないし、達成感・・・もないわけではない、マゾヒスティック・・・でないわけではないし、ナルシシズム・・・もないわけではない、そのあたりの配合・調合の妙によって、恐らく受け止め方が変わって来るのだろうと勝手に想像する。そこに健康問題(に伴う意思の問題)も絡んでくる。私は、いよいよコレステロール値が高くなって、このままでは大好きなラーメン(の卵麺)も好きに食べられなくなるかも知れないというショックに見舞われて、一念発起した。
 身構える必要はないし、焦る必要もない。所詮、(学生時代であれば)ジョギング・ペースなのだ、と自分に言い聞かせる。4時間以上も運動し続ければ腹は減るだろう・・・ではなく、運動するったってたかがジョギング・ペースだろう・・・と暗示をかける。呑んでかかれば、あるいは脳の信号に身体が反応するかも知れないと秘かに期待する。思うに人間とは儚い生き物である。
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お騒がせトランプ

2017-02-02 00:43:42 | 時事放談
 次々と大統領令に署名する実行力には敬服するが、難民やテロ懸念国を対象として入国を制限する大統領令を巡って、アメリカだけでなく世界中を騒然とさせている。今宵のTVニュースを見ていると、ホワイトハウスの報道官は審査を厳しくするものだと釈明するが、記者はトランプ大統領がツイッター上でBan(禁止)という言葉を使っているではないかと詰め寄っていた。ダルビッシュのお父ちゃん(ファサドさん、イラン出身)は春先まで息子の投球を見られないかも知れないと産経Webが心配している。ロイター通信の世論調査によると、この大統領令に賛成49%、反対41%で、移民大国アメリカにして賛成の方が多いことには驚かされるが、トランプのアメリカは完全に分断されてしまった。これは政党支持別に見ても明らかで、共和党支持者は82%が賛成し、民主党支持者は70%が反対しているという。
 実際、ダルビッシュのお父ちゃんだけでなく、この大統領令の影響で有力選手の入国が厳しくなるのではないかと、NBAやアマチュアスポーツ界に波紋が広がっている。グローバル企業を中心にビジネス界も声を上げ始めた。日経記事を追いかけると、先ずフェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOが自身のフェイスブック・ページで、「我々は移民国家」だと述べて懸念を表明し、アップルなどのIT企業も反発し、スタバのハワード・シュルツCEOも、難民を5年で1万人雇用する計画を当てつけのようにわざわざ表明した(すると、あろうことかスタバ不買運動が始まったらしい)。エアビーアンドビーは搭乗拒否された乗客や難民に無料で宿泊先を提供するといい、ウーバーテクノロジーズは入国制限で帰国できなくなった運転手の所得を三ヶ月間補償するという。ナイキのマーク・パーカーCEOは社員向けに「偏見やあらゆる形態の差別にともに立ち向かう」と宣言し、ゴールドマン・サックスのロイド・ブランクファインCEOも社員向けボイスメールで「政策を支持しない」と明言した。フォード・モーターは、マーク・フィールズCEOとビル・フォード会長名で、「(我々は)米国や世界中で豊かな多様性を保持することに誇りを持っている。これが今回の政策を支持しない理由だ」とする声明を発表し、GEのジェフリー・イメルトCEOも、「GEは世界中からの賢くて献身的な従業員なくして存在し得ない」と表明した。この大統領令は合法性に確信が持てないとして司法省に擁護しないよう求めたイエーツ司法長官代行は、トランプ大統領によって解任されてしまった。ニューヨーク州に続いて、マサチューセッツ州の司法長官も、この大統領令は違憲だとして連邦地裁に提訴すると発表し、ワシントン州はトランプ大統領らを相手取り提訴するといい、他にも、12州と首都ワシントンDCが大統領令は違憲と主張しており、提訴の動きはさらに加速しそうだという・・・。泥仕合だ。
 20年前、ボストンに駐在したとき、同僚のビルは同年代ということもあり、また単一民族の島国出身と移民大国出身と対称的なこともあり、何かと身の回りのことを相談したり、しょっちゅう議論を戦わせることをお互いに楽しんだりして、仲良くしてもらった。着任早々、車は買ったか?と聞かれて、折角アメリカに来たからアメ車を買おうと思って探していると答えると、日本人なのに何故日本車に乗らない?と怪訝な顔をされた(そういう彼は、アイルランド系だけどドイツ車を愛用していた)。「問題だ(It’s a problem.)」と言うと「problemなのではない、issueだ」とやんわり訂正を迫ったのも彼だった。あるとき、お国自慢の話になり、ビルから「移民の国だから、世界中の頭脳から良いアイディアを集めることが出来る」と主張されて、はたと返答に詰まったこともあった。その時、あらためて移民社会のダイナミックな強さに気づかされ、また、モンロー主義に代表されるように対外不介入主義を建国以来の国是とするのは、民主主義を守るためと言うが、その実、移民社会の分断を防ぐためではないかと、あらためて移民社会の難しさにも思いを馳せたものだった。ビルとは暫く話をしていないが(facebookでは繋がっているが)、さぞトランプ大統領を嘆いていることだろう。
 今日、プリンストン大学のジョン・アイケンベリー教授の話を聞く機会があった。民主的に選ばれた指導者をコントロール出来るのか?と問われて、民主主義とは支配される側が成り立たせるものだ、民主主義には牽制を利かせる側面もある、指導者は必ずしも賢人ではないかも知れないが、そんなときでも対抗して行かなければならない、移民の入国制限の大統領令などは「後退」だと呼ぶ人がいて、実際にセオドア・ルーズベルトの移民政策(これは歴史上の汚点だ)に匹敵するものだが、2000人からの国務省役人が反対の意思表明をし、女性の大規模デモもあったように、対立意見の表明というダイナミックな民主主義らしさに立ち返っている、自由主義は努力して勝ち取っていくものだ、刷新して行かなければならない、これは、まさにトランプが言うように強いアメリカにして行くものだ(Make America Great Again)と、だいたいそのようなことを答えておられた。座布団一枚差し上げたい。
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