長嶋茂雄さんが亡くなった。プロ野球を代表する「ミスター・プロ野球」という呼び方よりもむしろ何もつけずに単に「ミスター」と呼ぶだけで通じる人など、もう二度と現れないだろう。何しろルーキー・イヤーから16年連続してファン投票でオールスターに選出されるほど、実力だけでなく圧倒的人気を誇ったのだ。かつての溌溂としたユニフォーム姿を知る誰もが、最近の衰えようを目の当たりにして、この日が遠からず訪れることは覚悟していたが、それでも失った悲しみは深い。肺炎だったという。享年89。
私にとって長嶋さんと言えば、華麗な守備や、ヘルメットを飛ばして大袈裟に大振りするパフォーマンスは後から知ったことで、意味不明のカタカナ英語を交える長嶋語録(アメリカ人の子供は英語が上手いねえ、はミスターならではの迷言だろう)は同時代に聞いたが、何よりも先ず引退試合のことが浮かぶくらいだから、現役選手としては晩年しか知らず、むしろ監督としての長嶋さんに馴染みがある世代である。それでも小学5年生のときにクラスの友達と作った草野球チームで背番号の取り合いになって、「1」(王さん)と「3」(長嶋さん)を取られた私は間の「2」を取って、今だにラッキーナンバーにしている。その代わり守備は長嶋さんが守ったホット・コーナーの三塁を実力で死守して、ショートを守る福井君と鉄壁の三遊間だと、はしゃいだものだった。福井君は今頃どうしているだろう。
長嶋さんの姿を最初に直に見たのは、最大のライバルだった阪神・村山実さんの引退試合だった。調べたところ1973年3月21日のオープン戦で、長嶋さんご自身が引退する、忘れもしない1974年10月14日の一年半前のことだ。7回に登場した村山さんの前に、高田繁、末次利光、王さんが三者連続三振を喫して、八百長じゃねえかと、大人の機微を知らない小学生の私は怒り心頭で、巨人軍の選手を載せて球場を後にするマイクロバスを見送りながら、一人憤慨したのだった。そのとき、窓辺に映る長嶋さんや王さんの憂い顔が妙にリアルに記憶にこびりついている。野球人にとって、いつかやって来る「引退」は、心に重く響いていたのだろうか。
その後、監督としての長嶋さんは、1994年10月8日に中日と同率首位で最終戦を迎え、優勝を決めるその試合を「国民的行事」と呼んで世に知らしめたのだが、私はそのとき、アメリカに駐在していて知らなかった。1996年シーズンでは前年に続いて二年越しの「メークドラマ」が流行語になったが、私はまだアメリカに駐在していて知らなかった。
長嶋さんの姿を最後に直に見たのは、忘れもしない2001年9月30日、東京ドームで行われた監督の引退試合だった。大学時代の友人に誘われて入手した東京ドームのチケットは、当日のほんの二日前に巨人軍監督辞任を電撃発表されて、俄かにプラチナ・チケットに変わった。アメリカで9・11同時多発テロがあって、その時、カリフォルニア州シリコンバレーに出張中だった私は、時代が大きく転換することを実感した9月を複雑な思いで見送ったのだった。
背番号3のユニフォーム姿、とりわけ哀愁を帯びた後ろ姿は、本当に絵になった。本人も多分に意識されていただろうが、お年を召してからも変わらぬ天然キャラは誰からも愛され、ミスター・プロ野球の名に相応しく、プロ野球を国民的スポーツにのし上げた。私が今なお巨人ファンを脱しきれずにいるのは、長嶋さんや王さんに刷り込まれた巨人軍愛ゆえのこと。引退試合で語って一世を風靡した「永久に不滅」なのは、「我が巨人軍」だけではなく、長嶋さんの雄姿と愛されキャラもそうなのだと、失ってから気づく。
ご冥福をお祈りし、合掌。