風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

吉祥寺・ハーモニカ横丁

2012-06-30 18:31:19 | グルメとして
吉祥寺と言えば、青春ドラマの金字塔「俺たちの旅」の舞台になった井の頭公園があり、関西人の私にとっては憧れの地、独特の思い入れのある街です。実際に吉祥寺を訪れてみると、駅の北側に伸びるサンロードをはじめとして、今もなお昔ながらの商店街の雰囲気を色濃く残すのを認めて、ホッとします。肩肘張ることなく気軽に歩ける街なのは、山手線沿線やその内側とは違って、「住」に近い土地柄だからでしょうか。心なしか普段着の買い物客が多いような気もします。そのサンロードの路地裏に、更に庶民的な、通称「ハモニカ横丁」があります。
ハーモニカという、それ自体が哀愁を帯びた音色を奏で、人恋しさを誘って、夜の飲み屋街に似合う絶妙のネーミングは、その昔、武蔵野市に住んでいた文芸評論家の亀井勝一郎氏が、戦後の荒廃した闇市に始まる100軒ほどの店が所狭しと軒を連ねる路地の様子を、ハーモニカの吹き口に譬えたことに由来するそうです。アジアの街を歩けば分かりますが、日本は戦後の荒廃から立ち直って、67年の時を経て、世界でも指折りの清潔な街に生まれ変わりました。ところが吉祥寺の明るい商店街から一筋入るだけで、決して不潔なわけではないのですが、ウナギの寝床のように入口がひしめき合って、何とはなしに垢抜けない看板と相俟って、独特な猥雑さが、ある種の懐かしさを醸し出します。実際に戦後間もなくこの地で営業を始めた干物屋もあれば、つい一年半ほど前にオープンしたタイ料理レストラン「アジア食堂ココナッツ」もあります。先日、このタイ料理を食して見ました。日本的にスパイスを抑えたところが物足りないのですが、ここは日本なので、やむを得ません。こうした新旧織り交ぜつつも共通するのは、そこはかとない昭和。なんとなく造られた昭和がそこにあります。
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原発再稼働に寄せて(前編)

2012-06-26 23:22:27 | 時事放談
 週末、総理官邸前で大飯原発再稼働に反対するデモが広がりを見せているとの報道がありました。心情的には賛同しますが、安全性に思いを致すのであれば、再稼働反対の前に言うべきことがあるように思います。福島第一原発4号機と同様、停止していてもなお崩壊熱を発し続ける全国50基の炉心は、大震災や津波が発生してなお安全を確保できるのかどうか。そういう意味で、再稼働反対で思考停止しているのだとすれば、菅氏同様、教条的な反原発に過ぎないものと考えざるを得ません。
 先々週の金曜日のことになりますが、関西電力・大飯原発3・4号機の再稼働が決まりました。北海道電力・泊原発3号機が定期検査入りしたのは5月5日のことで、国内に50基ある商業用原発で稼働中のものがゼロになったのは、実に大阪万博があった昭和45年4月以来、42年ぶりの異常事態でしたが、二ヶ月余りで回避できる見通しです。決定自体は現実的なものと評価できますが、そのプロセスはどうしても場当たり的に見えて不安を感じてしまいます。
 再稼働までに必要な時間を考慮すれば、真夏になんとか間に合う「滑り込みセーフ」の決着と言われますが、新たな安全基準の策定プロセスは極めて杜撰で、通常は審議会などの場で有識者の議論を踏まえて行うべきところ、原子力安全保安院の官僚だけで原案が僅か三日で作成され、こうした原発に関する新たな安全規制を策定する場合に諮るべき原子力安全委員会の見解を聞くこともないまま、本来、経産大臣が決定すべきところ、法的根拠のない四大臣会合で決定されました。このように行政プロセスの観点から問題がある安全基準と、関電が僅か三日で作成して政府が精査もしていない工程表と電力需給予測を元に、法的根拠も権限もない四大臣会合で、大飯原発の再稼働が安全上問題ないことも確認され、そこでの議論の議事録も残されませんでした(岸博幸・慶大教授による)。一部の企業は自衛のために自家発電設備を新設したり生産の前倒しを始めたりと、既に余分なコストをかけた取り組みを始めており、時間がかかって迷走したことは否めません。また、関電が示した85項目の安全対策の内、免震重要棟の設置や防波堤のかさ上げなど未実施の対策が31項目残されており、全て完了するのは平成27年度とされていますから、なんとも中途半端な決定であり、電力危機を前に、地元の経済界によって押し切られたと見られても仕方ありません。さらに、菅前政権が掲げた「脱原発依存」の旗を降ろしたわけでもないため、原発政策は今一つはっきりせず、再稼働を期間限定の「暫定的な措置」にしようとする首長もいる始末です。
 何度も言うようですが、そもそも福島第一原発問題の原因をどこに見て、何を反省し、どんな対策を講じたか、あるいは講じるべきかといった議論は、寡聞にして知りません。政府事故調、国会事故調、民間事故調、東電事故調と、カタチだけはいろいろありますが、「事故に至った問題」「事故後の対応」の内、実際には「事故後の対応」は「震災後の対応」なので、「事故に至った問題」と大いに重なるわけですが、問題そのものの解析はなかなか私たちの目に触れなくて、属人的な側面ばかりが新聞等の報道で話題にされます。いきおい、国会事故調で参考人聴取された菅前総理は、自身の対応の問題点を指摘されると「東京電力や保安院からの情報がなかった…」と責任転嫁を繰り返し(敗軍の将、兵を語らず、と言いますが、司令官が部下のせいにするとは最低ですね)、当時を知る関係者からは「事実と違う」と批判の声があがったと言われます。当事者が政治家と官僚と東電(もう一つの役所)でお互いに責任回避するのが巧みなものですから、なかなか真実が見えてこない。本来、こうした事故調査は、個人を糾弾するのが趣旨ではなく、国家的危機に際して国家の機関(菅さんや枝野さんや海江田さんではなく、総理大臣や官房長官や経産相などの役割)や東電(本店や現場)などの当事者がどのように機能し、そのどこに問題があったのか、法制度の問題か、組織や指揮命令系統のあり方の問題か、個人のリーダーシップの問題か、作業ミスか、原因を究明し、謙虚に反省し、再発防止に向けて真摯に協力して欲しいと期待するわけですが、菅さんの市民運動家としての性(サガ)からか、自らの日本国・最高指揮官としての自覚は最後までなく、官僚や大企業(東電の場合は官とも言うべきですが)批判に終始し、問題を矮小化してしまっていますし、マスコミも、まるで弾劾裁判であるかのような、責任追及という名の真綿で包んだ吊し上げに躍起ですし、ひいては私たち国民も政治不信に端を発する恨み辛みを色濃く反映し、全体像を歪めてしまっているように思えます。
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麗しの東京タワー

2012-06-23 15:02:39 | 日々の生活
 東京スカイツリーにいまひとつ惹かれるものがないのは、エッフェル塔に似て、エッフェル塔のように奇抜とまでは言いませんがまだ見慣れていないがために、デビュー当初はどうしても人気が出ないということなのでしょうか。エッフェル塔の場合、反対派の文学者モーパッサンがエッフェル塔1階のレストランによく通ったのは「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言ったために、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」という諺まで生まれたそうです(Wikipedia)。
 そういう意味では、昭和の塔、東京タワーのやや容色に衰えが見えた佇まいには、見る者に懐かしさを催させ、安心させます。曲線美はいまなおすっきり見事ですが、ぎこちなく自己主張する大展望台がなんともお垢抜けなくて、高度成長当時の日本を彷彿とさせます。
 その後、エッフェル塔は、パリを代表する名所となり、102歳となった1991年に、この塔を含むパリのセーヌ川周辺が世界遺産として登録されました。東京スカイツリーと隅田川は100年後にはどうなっているでしょうか。それより前に、今秋54歳を迎える東京タワーは、災害時などで東京スカイツリーから電波が送れない場合の予備電波塔として利用されることになっていますが、物理的にそこにあるだけでなく、東京スカイツリーと常に比べられながら、私たちの心の中でどのように成長して行くのでしょうか。
 上の写真は(私は初めて見た)水色の東京タワー(5月11日撮影)。
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東京スカイツリー祝一ヶ月

2012-06-22 23:43:50 | 日々の生活
 先月22日に開業した東京スカイツリーと商業施設を合わせた入場者数は、この一ヶ月間で581万人に達し、当初予想(267万人)の2倍を超えた(NHK)そうで、先ずは順調過ぎる門出を祝福したいと思います。新しもの好きの関西人(という意味ではアジアの華僑に近いということ!?)の私は、年齢のせいか、混雑を避ける気持ちが先に立って、なかなか触手が動きませんが、失われた20年と呼ばれる日本は、なかなかどうして元気なものです。
 その代りと言ってはなんですが、開業から10日ほど経った頃、離れた場所から撮影した写真をアップします。「言問橋」と書いて、「コトトイバシ」と読みます。なんとも風情がある名前ですね。その橋のたもとから撮りました。真正面から望む・・・と言ってもよいほどのロケーションです。
 「言問」という名称は在原業平の詠んだ歌「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」に因むものとされますが、ものの本(ではなくてネット上のサイト)によると、実際にこの業平の故事があったとされる場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」であり、言問橋近辺には地名として存在していたわけではなかったため、諸説あるそうです。有力説は、明治初年に創業した団子屋の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことから、この近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来する・・・というものがあります。団子屋の商売ネタだったとなると、半分興醒めしてしまいますが、とにもかくにも、この界隈の地名には何とも言えない味がありますね。そういう意味で、東武伊勢崎線「とうきょうスカイツリー駅」に改称してしまったことは、かえすがえすも残念です。改称後は「旧業平橋」の名称も併記しているそうですが、先ほどの団子屋の話といい、なかなか商売っ気が強くて、この地域特有の性格によるものなのでしょうか。
 代わって職人気質の話を。スカイツリー建設を巡っては、日本の技術力を誇示する話が巷間賑わします。これも日本の景気が悪いから、何より韓国や中国をはじめとする新興国の追い上げに汲々とするように、日本が世界に誇る技術力が地盤沈下しつつある現実に直面し、敢えて日本の技術力の健在ぶりを示すエピソードを待望する心理が働いているからに他なりません。中でも、印象に残っているのは、東日本大震災が起こった時の話です。その日は実は、施工期間中、最も来てほしくない日だったと言われます。強い耐震性を担保する「心柱」(以前、本ブログでも紹介しました)を作り込む前の空きスペースで組み立てた「ゲイン塔」と呼ばれる地上デジタル放送用のアンテナがついた鉄塔を、震災当日は高さ619メートルから625メートルまで引き上げる計画で、あと20cmで目標に辿り着くという時に地震が発生したそうです。タワーにはまだ「心柱」がなく、ゲイン塔はワイヤで吊り下げてジャッキで横から押さえているだけで、最も脆弱な状況にあったというわけです。当たり前のことではありますが、建設・土木会社には、我々の想像を絶する震災への備えがあることには敬服します。勿論、首都圏直下型地震だったら・・・とまでは言いません。私は港区のビルの36階にいたのでよく分かりますが、あれほどの揺れの中で何ひとつ問題が起きなかった日本の技術陣のワザに心から賛辞を贈りたい。
 スカイツリーの入場は開業から50日間は予約制ですが、ようやく来月11日から当日券の販売が始まるそうです。それでも、なかなか触手が動かない。齢のせいでしょうか。
 あらためて写真で眺めると、平成の塔は、なんともスタイリッシュです。それがまた東京タワーへの郷愁を呼ぶのですが、それは稿を改めます。
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北斎展

2012-06-17 12:08:30 | たまに文学・歴史・芸術も
 生誕250年(というのは実は2年前)を記念して企画されたホノルル美術館所蔵の北斎展を見に行きました。同美術館が所蔵する浮世絵1万点とは凄まじい量ですが、品質も極めて高いことには驚かされます。200年近く前の「富嶽三十六景」の、まるで昨日刷られて今日見るような紺色の鮮烈さには、あらためて目を見張りました。日本に残るものは少なくて(しかも色褪せていて)海外に流出して大切に保存されている・・・それでは日本は庶民の文化をないがしろにしてきたのかと言うと、そうではなく、むしろ日本人の文化的成熟度の高さを示すものではないかと思います。つまり、日本人には当たり前だったことが、欧米人の目には驚愕の芸術に映ったものだろう、と。そして、それが里帰りして、あらためて日本人自身が自らの庶民文化の芸術性の高さを思い知らされた、と。
 北斎と言えば、浮世絵界の最高峰(人によっては広重と双璧)、「森羅万象を描き」「生涯に3万点を超える作品を残し」「門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いと言われ」(Wikipedia)、浮世絵師だけでなく挿絵画家としても活躍した彼の影響力は、私たち庶民にとどまらず、「富嶽三十六景」や「北斎漫画」で世界的に知られ、ゴッホやルノワールなどの印象派絵画やガレの工芸にまで及び、アメリカの雑誌「ライフ」の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(1999年)で、日本人として唯一86位にランク・イン(Wikipedia)するほどです。改号30回、転居93回という奇人でもありました。
 あらためて北斎を見て、風景画における彼の存在感の大きさに思い至りました。私が写真撮影する風景画のフレームワークは、北斎の「富嶽三十六景」にあったことを、今さらのように思い知らされたからです。私だけではなく、多くの日本人にとって、安定感ある構図は北斎から学んだと言っても過言ではないでしょう。そういう意味で、北斎に加えて広重の「東海道五十三次」など、永谷園が「お茶漬け海苔」のオマケとして1965年から97年まで実に30年以上にわたって続けた「東西名画選カード」プレゼントは偉大でした(絵柄はほかに「喜多川歌麿」「印象派ルノワール」など、全部で10種類もあったらしい。http://www.nttcom.co.jp/comzine/no029/long_seller/)。しかも北斎の凄いところは、写実的でありながら写実性を超えて、いわば彼の観念の「富嶽」を描いているところでしょう。「富嶽三十六景」で、富士山はそんなに大きく見えるはずがないとか、どこから描いたものか分からないとか言われますが、それは、かつての宮廷絵画のように巧妙に雲を取り込みながら、近景をぼかしつつ遠景を引き付けて実際の距離を超えさせてしまっているようです。
 いつものことながら、本物の迫力には圧倒されます。色そのもの、そしてそのグラデーションの繊細さは、素材(紙の質)感と相俟って、実に美しい。浮世絵は、あらためて、北斎という作家と、刷り師との合作であり、職人芸の極致であることにも、開眼しました。そんな北斎展も残念ながら今日が千秋楽です(三井記念美術館)。前期(4/14~5/13)と後期(5/15~6/17)とで出展作品が違ったために、前期の目玉だったであろう「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」「尾州不二見原」を見逃したのは残念でした。北斎の作品として、「北斎漫画」のほかに、「諸国滝廻り」や「諸国名橋奇覧」などのシリーズものも出展され、興味は尽きません。
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健康のありがたみ

2012-06-16 02:22:38 | 日々の生活
 健康は、失ってからその有難みに気が付くものの典型でしょう。そして日々のちょっとした心掛けや積み重ねが如何に重要であるかという点でも右に出るものはないものでしょう。
 別に病に伏せっているいるわけではありません。健康診断で悪玉コレステロール値が高く出たため、他の数値は悪くなかったのですが、経過観察を宣告されただけのことです。ここに来て二年連続二度目の不覚。昨年は、数値が1だけオーバーして、それでもルールだからと半年後の経過観察を余儀なくされ、特に努力もなく正常値に戻しましたが、今年はかなりオーバーして、半年後の先週には改善したものの僅かながら正常値に届かず、再び三ケ月後の経過観察を宣告されてしまいました。
 悪玉コレステロールが多いのは、遺伝または体質によるものでしょう。医者から、半年間で改善を心掛けたことはあるか?と聞かれて、食習慣は変えていないが、週末一日だけ20分ほどのジョギングを始めたと答えたら、それは良いことだ、食生活を変えたらもっと良くなる可能性があると、卵は食べちゃダメ(子供の頃、無理やり食べさせられて辟易しているので、望むところです)、ラーメンは?週に一回くらいと答えると、原則禁止、頑張ったご褒美にせいぜい月一回にとどめなさい(ラーメン好きには厳しい!)と、優しく諭して頂きました。
 家内に言わせれば、夜の食事が遅い(最近の職場環境は、日本の産業社会と同じで人が偏在していて、この歳になっても残業することが多い巡りあわせには悲しくなります)、食事に時間をかけず、よく噛まないで食べることが多い、酒量が増えた、運動量が少ない・・・などと情け容赦ありません。4年間の海外勤務の後に日本に戻ったのは3年前のことで、マレーシアという余り健康的ではない国で三年間過ごした後、一年間という短い期間をシドニーに勤務して、帰国後に受けた健康診断で、血液検査の数値が海外勤務以前より全て良くなっていたのは、夜な夜な高級なオーストラリア・ワインを(毎晩ハーフ・ボトルも)飲んでいたからだと信じて疑いませんでしたが、家内に言わせれば、夜の食事が早かった、仕事も通勤もストレスが少なかった、と身も蓋もありません。確かに、当時、マンションの地下駐車場からオフィスの地下駐車場まで、日本の満員電車のようなストレスがない車通勤で、途中でカフェに立ち寄ってコクのあるイタリアン・コーヒーを飲み、毎日、ユーミンやサザンの音楽を聴きながらハーバーブリッジを渡り、時折り気紛れに経路を変えてはオペラハウスを拝み、雨の日でも傘要らず、運転好きにはこれ以上ないほどの恵まれた通勤環境だったのは事実です。それに引き換え、日本の首都圏の通勤環境の劣悪さったら、ありません。
 これまで健康には自信があっただけに、もはや自然体では健康を維持することが出来ず、健康を維持するためには努力する必要があるという厳然たる事実を突き付けられて、俄かに「老い」が身近な存在となり、「老いる」ことの哀しさをひしひしと感じる今日この頃です・・・。美味しい酒を心置きなく楽しむために、もっと運動しよう、ちょっとは食習慣にも留意しようと、あらためて心に誓ったのでした。
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渡部先生、吠える(下)原発問題

2012-06-09 22:42:45 | 時事放談
 前回の続きで、渡部昇一さんの講演会のさわりを紹介します。
 私が保守派の論説に注目するのは次の理由からです。本来、保守(主義)は、江藤淳さんが言われたように、「一言でいえば感覚」、「更に言えばエスタブリッシュメント(既得権益をもっている人たち)の感覚」であるのに対して、左翼は言わば論理的に問題提起(アンチテーゼ)し理想世界を訴求するのが一般的だと思います。ところが、日本では、特に歴史認識においては、逆に保守派の歴史認識の方が実証的なためです。つまり、戦後、日本で教えられて来た歴史は、はじめから左翼的に(あるいは保守派に言わせれば自虐的に)歪められ、知らず知らずの内に日本という国に自信や誇りを持てないように性格づけられて来たということなのでしょう。保守派は、本来は感覚として構えていればいいはずなのに、教えられて来た歴史に反駁するためにいちいち論証しなければならないという、逆転した奇妙な状況に置かれているわけです。一般には、敗戦を機に価値観が180度ひっくり返ったとよく言われますが、その実態は、太平洋戦争(この呼称はGHQの押しつけであって、保守派に言わせれば大東亜戦争)で戦った期間よりGHQの占領期間の方が長く、その間、厳しい検閲によって言論統制され、憲法だけでなく歴史評価すらも押し付けられて、それをよしとしてきた日本人の従順性(人の好さ)に由来しますが、それは稿を改めて論じたいと思います。
 さて、講演の中で、やむにやまれず、といった趣がありありと伺えたのが、原発問題を巡る日本の状況に対して苦言を呈しておられたところでした。東電による補償を決めた後で立ち退きを決めたのはオカシイ、そもそも立ち退きは必要なかったというのが定説である(マスコミ報道を見る限りそれが定説とは俄かに信じられませんが)とか、セシウムで死んだ人間はいないのは、広島・長崎の例を見ても明らかだ(確かに原爆投下のあとで立ち退きが必要などとは当時は夢にも思わなかったのでしょう、それで問題があったとも聞きません、もっとも放射線の種類でも違っていたのでしょうか)とか、世界は日本の原発が震度9でも壊れないことに驚いた、このまま脱原発が続くと、原子力技術者は夢を奪われ、韓国や中国に引き抜かれて、日本から原子力技術がなくなってしまう、原発を止めようとするのは日本の産業を潰すためではないか、といった具合いです。
 なかなか大胆なご発言ですが(実際、ご本人が雑誌などで投稿されている内容からはみ出るものはありません)、今の言論状況においては大いに異論が出て来るでしょうし、とりわけ低線量被曝の人体への影響については科学的な定説がまだない(そのため安全サイドに考えるのが良識)とされるところですが、それでも渡部さんの過激な物言いには、いくつか重要な問題提起が含まれているように思います。一つは、敢えてもう一度取り上げますが、放射線の人体への影響、ひいては大震災と福島原発問題において存在感が問われた日本における科学者の役割の問題です。リスクがないあるいは少ないと述べると「御用学者」のレッテルを貼られてきた言論状況はやはりフェアとは言えず、もっと自由な科学的論議が行われてよいように思います。もう一つは、産業への影響の視点です。家電領域では、ソニーやパナソニックやシャープなどの日本メーカに代わって、SamsungやLGなどの韓国メーカーの躍進が目立つ昨今ですが、韓国ウォン安に助けられている一時的な面と、新興国の追い上げが迫っている構造的な面から、潜在的な脅威を認識しているのは事実であり、そんな韓国にとって、次の有望な産業領域として重電、とりわけ原発の輸出を狙っていることもまた知られるところです。日本が脱原発に舵を切ることが、敵を利することになるのは間違いなく、逆に、脱原発にはそうした隠された意図を感じさせられます。
 折しも野田総理は、「国民の生活を守るために、(関西電力大飯原発3・4号機を)再稼働すべきだというのが私の判断だ」、(日常生活だけでなく経済活動やエネルギー安全保障の視点からも原発なしでは日本社会は立ち行かないとして)「原発は重要な電源だ」と、民主党歴代総理に比べれば極めて穏当で現実的な意見を開陳されました(今朝の日経新聞)。敢えて付け加えるなら、韓国や中国で、今後も原発が建設される計画がある以上、偏西風が吹く先に位置する日本で、(黄砂のように)放射線被曝の脅威がなくなることはないこと(1970年代に中国の原爆実験の影響で、日本は大量の放射線を浴びたように)、その時に、放射線除去等にあたって、日本に原子力を扱う技術や知識がないばかりに、韓国や中国に対応を委ねざるを得ないような事態を、私は想像したくないこと、さらに言うと、今なお冷戦が続く東アジアにおいて、核廃絶と世界平和を唱えることは、ただの念仏でしかありませんが、いつでも核兵器を開発できる実力がありながら、敢えて核武装しないことを主体的に選択することは、抑止力たり得ること、そして現実問題として、福島原発4号機を見れば明らかなように、既に始めてしまった以上、全国の原発を止めたところで、リスクがなくなるわけではないこと(だからこそ大飯原発だけでなく、全国の原発で可及的速やかに「対策」が必要です)等にも、思いを致すべきだと思います。
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渡部先生、吠える(上)皇室伝統

2012-06-08 00:58:07 | 時事放談
 渡部先生とは、上智大学名誉教授の渡部昇一さんのこと。先日、講演会でナマの声を聴く機会があり、ただでさえ過激な方が、人目を気にする必要がないばかりか、聴講生は渡部先生のファンだらけの環境で、期待に応えるという意味でも、言いたい放題(笑)・・・と言っても、いつも書籍や雑誌に書かれている内容そのものであり、肩に力が入っていない分、言い回しが軽くて、なかなか面白かったので、サワリだけでも紹介したいと思います。
 渡部昇一さんとの出会いは結構古くて、勿論、昔も今も、面識はありませんが、1982年秋に教科書問題が外交問題に発展した時に遡ります。当時、教科書検定で「侵略」を「進出」に書き換えたと、私の家でも朝日新聞を購読していたので、そのように教えられたのでしたが、渡部昇一さんは、今は亡き「諸君!」という保守系の雑誌で、そのような事実はなかったことを検証し、「萬犬が虚に吠えた」と刺激的なタイトルをつけてマスコミ批判を展開されたのでした。以来30年、ノンポリの私としては、折に触れ、渡部昇一さんの歴史観や国家観を通して、保守の論説とは如何なるものかを勉強してきました(笑)。
 講演では、いろいろなテーマを渉猟されたのですが、前回のブログで皇室のことに触れたので、今回は女性宮家の問題を取り上げます。
 先ずは、若かりし頃、ドイツ留学された時に、同じ敗戦国でありながら、全てにおいて、例えば食事事情から水道や冷暖房などの生活インフラまで、当時のドイツは日本に勝っていた・・・という想い出話から始まりました。確かに、敗戦と言っても、ドイツではヒトラー政権が崩壊し、ベルリンの街は廃墟になり、文字通りの無条件降伏を受け入れざるを得なかったのに対し、日本では元首たる天皇はご健在でしたし政府も機能しており、軍が武装解除に応じただけのはずでした。そこで渡部昇一さんは、お国自慢をしようと考えますが、なかなか良いアイディアが浮かびません。思いあぐねた挙句に至った結論が、「皇室」だったと言います。日本の「皇室」は、いわば旧家である、欧州をはじめとする成り上がり者の王家とは違う、世界広しと言えども万世一系の王を戴く国はない、と(私の世代なら、理解できなくはありませんが、戦後憲法で謳われる象徴としての天皇のイメージが強いため、「皇室」とストレートに主張するのは憚られ、皇室伝統(とは、サヨクが天皇制と呼んだのに対抗して、谷沢永一さんが命名されました)を、真綿のような日本の伝統的な神道世界で包んでしまいます)。
 折しも、三笠宮寛仁親王がお亡くなりになりました。スポーツ振興や障害者福祉問題や青少年育成をライフワークとして精力的に取り組まれ、皇室のあり方として一つの典型を示され、僭越ながら鑑とすべきだろうと思います。ご冥福をお祈り致します。さて、その三笠宮寛仁親王は、小泉内閣時代の2005年11月、首相の諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が女系天皇を容認する皇室典範の改正に向けた提言をまとめた際、男系継承維持を主張されて波紋を広げたそうです(今朝の日経新聞)。渡部昇一さんも、講演会で、同提言に対して、天皇家をなきものにするものとして激しく批判されました。皇室伝統を振り返ると、かつて女系から生まれた女帝はなく、常に男系の女帝であること、その後はやはり男系が継ぐこと、つまり家系は男系であるからこそ辿ることが出来ること、もし女系天皇を認めてしまうと、中国や韓国に乗っ取られる恐れもあること、そして米(コメ)に対して特別の思い入れがある日本人にとって、タネが大事であるように、タネを重んじるのが皇室であること(それに対し、タネはどうでも良くて、娘によく出来た番頭を嫁がせる関西商人の家産相続や、武士の世界(藩)を対比されていました)、皇室は要らないという発想が出て来たのはロシア革命以来のことであり、社会主義者でもそれ以前の人にそのような発想はなかったこと、等々を大袈裟ではなく静かに強調されていました。
 私は、先ほども触れた通り、皇室に対する思い入れという意味では、渡部昇一さんに及びもつきませんが、それでも古来からの日本のありようとして、この伝統を守って行けたらそれに越したことはないと、素朴に思います。戦後、1947年に、悪意あるGHQ指令により皇籍離脱した11宮家を復活すべきじゃないかとも思います(その内、東伏見、山階、閑院、梨本家は既に断絶し、男系として続いているのは、それ以外の家系にあたるそうですが)。
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エリザベス女王即位60周年

2012-06-06 01:06:29 | 日々の生活
 エリザベス二世(1926/4/21生まれ)は、マーガレット・サッチャー女史(1925/10/13生まれ)の半年後に生まれて、御年86歳、イギリス史上で最高齢の君主となられたのはかれこれ4年半前のことで、今なお記録更新中です。サッチャー女史は認知症になって表舞台に出ることはありませんが、エリザベス女王は英連邦王国16の女王・元首を兼務され、今も年間約430件もの公務をこなして多忙な活動を続けておられるとの由(産経新聞)、おめでたいことです。
 ロンドンの観光名所として知られる国会議事堂の大時計(愛称ビッグベン)がある塔が「エリザベス・タワー」と名付けられる見通しですが、それも、エリザベス女王の即位60年を記念してのことです。先月18日にウィンザー城で開催された午餐会には、約30ヶ国の王族・皇族が集い、天皇陛下は同じテーブルで隣の席に座ったのがちょっとした話題になりました。2月の心臓バイパス手術後、被災地を見舞われたことといい、今回の(皇太子時代を含めて過去7回も訪問された)イギリス訪問といい、天皇陛下の「強いご意向」があったことが漏れ伝わります。まさか政権与党の外交経験を憂えているわけではないでしょうし、口さがない人がアングロサクソンとうまく行かない時こそ日本は破滅の道を辿ると脅すことを真に受けておられるわけではないでしょうが、皇室外交を通じて、ユーラシア大陸の端に衰えてなお大英帝国の威光めでたきイギリスとの関係を大切にされ、常に日本の行く末に思いを馳せておられるであろう御心が有り難いと思います。
 思えば昭和天皇はイギリスにおける立憲君主制に学び、帰国後、和装をやめて洋服の生活に切り替えたり、食事もハムエッグにトーストあるいはオートミールといった英国流の生活を取り入れられたりされ、万世一系の皇統の中で敢えて一夫一婦制というリスクを持ち込まれたのもファミリーを大切にする英王室を見習ってのことだったと言われます。まさかGHQが、天皇家を兄弟に限定して皇統を先細りにするような悪意ある策を打つとは思いもよらなかったことでしょう。女性宮家創設の議論の淵源はまさにそこにあることを思うと、なんとも皮肉な日本の皇室とイギリス王室との関係ではあります。
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東京都尖閣諸島寄付金

2012-06-04 21:02:40 | 時事放談
 話題を呼んだ東京都の尖閣諸島買取りのための寄付金が、10億円を超えました(6月1日正午時点1,010,485,228 円、70,333 件、http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/senkaku_kifu.htm)。
 前回のブログで触れた講演会の猪瀬直樹さんが発案者のようで、ご本人曰く、税金を節約するためとのことでしたが、このスピードは予想外とも言われていました。ツイッターやFacebookのお陰かと。それから、東日本大震災があったから、国土に対する国民の認識が変わったのだろうとも分析され、一人一万円、時々十万円などと皮算用されていましたが(笑)、むしろ民主党政権に任せていられないくらい頼りないからだと思います。ある雑誌によると、山東昭子さんが所有者と石原都知事の仲介者だったようですが、時の政権である民主党に受け皿がいなかったのが寂しいですね。これほど国家意識の乏しい政党が与党というのは、、悲劇を通り越して喜劇です
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