風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

台湾旅情

2018-11-24 23:09:49 | 永遠の旅人
 久しぶりに台湾に出張した。入社した頃に台湾の子会社を担当し、何十回となく(ほぼ隔月で)出張させられて、対照的に自らレンタカーを駆って飛びまわるアメリカ担当の同僚を羨ましく思ったものだった(実のところ、無いものねだりで、お互いを羨んでいた)。ところが、いざ自分もアメリカ担当になってみると、ハシゴして飲んだくれてタクシーで帰る・・・というような日本や台湾の生活スタイルが、無性に懐かしくなった・・・やはりこの生活スタイルは日本人にはよく似合うということを、今回の出張でも再認識した(笑)
 この30年弱で、さすがに台湾の街並みもちょっとは変わったようだ。なにしろ当時、台湾は、韓国、香港、シンガポールと並び四匹の(昇)龍などと呼ばれてアジアの経済成長を牽引し、当初NICs、その後NIEs(台湾はCountryではないとクレームされてNewly Industrializing Economiesと言い換えられた)と、もてはやされた。街は薄汚れて猥雑だったけれども、妙に油断ならない活気があった。ところが30年の年月を経て、当時はなかった地下鉄が東西南北に走って便利になった。街行く台湾の人々の身なりも随分垢抜けたように思う。今回、一泊二日の短い出張で、街をうろつく時間がなかったが、見覚えのあるデザインの時計をロゴ抜きで安く売っている店の奥には鍵がかかる小部屋があって、そこでは店頭でロゴ抜きだった時計に有名ブランドのロゴをつけたマガイモノを売る・・・といった怪しげな商売は、もはや見当たらないのだろう。路地裏の本屋は、宮沢りえちゃんの写真集発売から間を置かずしてコピー本を当たり前のように並べていたが、それもないのだろう。怪しげな、という意味ではマッサージもやる床屋が街のあちらこちらにあったものだが、すっかり見かけなくなった。リヤカーの屋台も減って、レストラン、中でも日本食レストランが随分増えて、益々、日台は近くなった。そして(10数年前のことになるが)台北101なる高層ビルも登場した。屋台の姿を見かけない分、かつて排気ガスに油っ気を含んだまったりとした空気は今は澄んでいるが、肌にまとわりつく湿気と温かさ(いずれも物理的のみならず、甚だ心理的な意味合いをも含んでいる)は変わらない。
 それと言うのも・・・僅かな時間の合い間を縫って、台北101とやらに初めて登ってみたときのことだ。「おのぼりさん」とは、かつて京都に行くことを「のぼる」(上京する)と言い、今、東京駅に向かう電車を「上り」と言うように、都会に出る(向かう)人のことを言うのだが、高いところに「登って」見渡したくなる心境をも併せ表現しているようで、実に優れた言葉だ(笑)。入場料は600台湾元(日本円で約2200円)と高いので一瞬迷っていると、チケット売り場のおねえさんが、今日は曇りでよく見えないけどいいですか?と優しく声をかけてくれて、二度と来ないかもしれないからと、踏ん切りがついた(笑)。お隣の大陸国ではついぞ聞けないような、おもてなしの声掛けだ。
 東芝製エレベーターで89階までスムーズに運ばれる(因みにビルの施工は熊谷組を中心としたJ/V)。確かに雲に覆われてよく見えないが、雲が思いのほか速く流れて、その切れ間に、遠く山並みや河も見える。382mの高さは、なかなかの絶景だった。
 夜は、昔、よくお世話になった「梅子」という、日本人駐在員や出張者ご用達の台湾料理レストランに行ってみた。今なお「1965年創始店」を謳い文句に(ということは当時既に20年以上も操業していたのか・・・)健在である。先ずは、しじみの醤油漬け(蚋仔)でビールを飲む。生のしじみだけど腹をこわさないだろうかと恐る恐る口に運んだ当時のことを思い出す(今は平気だけど)。日本人慣れした商売上手なおばちゃんが、高めの紹興酒を勧めて来る。紹興酒は温めて、ザラメ糖か梅干しを入れるのが一般的だと思っていたら、台湾ではそうじゃない、生姜の千切りを漬けると美味いのだという。お勧め通りに頼んでみたら、確かにアルコール臭さが抜けて、まろやかになって美味い(その分、飲みやすくて、飲み過ぎてしまう)。それから、空芯菜の炒め物や、イカダンゴと通称していた炸花枝丸(イカボールのから揚げ)は外せない。メインは、広東風に胡麻油で蒸した魚料理を頼んでみる。片手に収まる大きさのカップ(Bowl)に入った担仔麺で締める。至福のときだ。
 なお、昼は街に出て・・・と言いたいところだが、都合によりホテルのレストランで、それでも庶民的な牛肉麺を食べた。今回の出張で、何をさし措いても口にしたかったものだ。日本にはない味付けだが、クセになる美味さだ。それから、日本の職場へのお土産は、定番のパイナップルケーキ(鳳梨酥)。東アジアの戦略環境厳しい折りから(とは唐突で大袈裟ながら)、日本人として台湾は大事にしなきゃ、と思うのだった。
 上の写真は、おばちゃんに勧められた10年モノ紹興酒と、生姜を漬け込んだところ。
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快挙:大谷の新人王

2018-11-16 22:34:22 | スポーツ・芸能好き
 世の中には難なく壁を越えられる人がいる。とてつもなく大きな壁で、一流と言われる人でも、もがき苦しむところを、あっさりとこなしてしまう。そんなことをしみじみ感じさせてくれたのが、大谷翔平選手だった。キャンプでは打率.125、防御率27.0で「高校生レベル」と酷評されるなど散々だったのに、レギュラー・シーズンが始まって早々の4月5日のFOXスポーツに出演したA・ロッドから「大谷が入るとメジャー選手が高校生レベルに見えてしまう」と逆に絶賛された。
 フル出場ではなかった。打者として104試合に出場し、打率.285、22本塁打、61打点、OPS.925、10盗塁、投手として10試合に登板し、4勝2敗、防御率3.31という成績を残し、投票権を持つ全米野球記者協会の記者30人の内、25人から1位指名を受けるという文句なしの評価を得て、今シーズンのアメリカン・リーグ新人王に輝いた。
 日本人選手では、1995年の野茂、2000年の佐々木、2001年のイチロー以来、17年ぶり4人目の快挙という。また同一シーズンで2桁本塁打をマークし4勝以上を挙げたのは、1919年のベーブ・ルース以来だという。あるいは同一シーズンで「10試合登板、20本塁打、10盗塁」はメジャー史上初だとか、15本塁打以上を放ち50三振以上を奪ったのはメジャー史上初だともいう。野暮ったい言い方になってしまうが、長年、日本のプロ野球を愛してきたファンとして、日本人としての誇らしさを感じる。
 今シーズン最高の思い出を問われて、大谷は初本塁打を挙げ、「嬉しかったですし、ベンチに帰ってからも(無視されて)楽しかった」とコメントした。本拠地初出場となった4月3日のインディアンス戦に8番・DHで先発し、3ラン・ホームランを放ったもので、ベンチのチームメイトから、背中を向けたまま無視されるという歓迎の儀式である「サイレント・トリートメント」の仕打ちを受けて、祝福の“おねだり”をするあどけない大谷の姿が拡散されたことでも話題になった。なんとも愛らしくて、まさに名場面として永遠に語り継がれることだろう。彼の人気は、こうした何の衒いもない素直なキャラクターに負うところも大きいように思う。
 「二刀流」の大谷のことをUSA TodayやNY Timesは「Two-Way Star」と呼んだ。2年目のジンクスは打者として、そして3年目にはいよいよTwo-Wayの真価が問われる。大挙して太平洋を渡った一時期の日本人メジャーリーガー・ブームが去って、たった一人で再びシーズンを楽しみにさせるとは、とてつもない選手が現れたものだ。暖かく見守って行きたい。
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追悼:フランシス・レイ

2018-11-10 21:40:57 | スポーツ・芸能好き
 アメリカの中間選挙もあって、書きたいことはいろいろあるのに、故あって今またブログをなかなか思うように書けないモードに入ってしまった。しかし、11月8日付の日経に、フランシス・レイさん死去のごく小さな記事が掲載されたことだけは触れておきたい。7日に出身地の仏南東部ニース市の市長がツイッターを通じて死去の事実を公表したそうだが、死因や亡くなった日は明らかにされていない。
 あらためてWikipediaを見た。1932年生まれとあるから、86歳、アコーディオン奏者から作曲家に転身した、とある。ブログで繰り返しになってしまうが、中学生の頃、なけなしの小遣いで「スクリーン」という月刊誌を購読し、高校受験を控えながら、毎週少なくとも一本はテレビで映画を観ていた映画好き少年にとっては、映画と言えばハリウッドではなくフランス映画であり、フランシス・レイと言えばアカデミー作曲賞を受賞した「ある愛の詩」(1970年)もさることながら、「男と女」(1966年)、「パリのめぐり逢い」(1967年)、「個人教授」(1968年)、「雨の訪問者」(1969年)、「さらば夏の日」(1970年)などの映画音楽は忘れられない。中でも、「個人教授」のナタリー・ドロン(名前からも分かる通りアラン・ドロン夫人だったと言っても、アラン・ドロンを知らない人が多いかも知れない)に憧れて、パリジェンヌに憧れ(彼女はモロッコ生まれだけど)、パリに憧れた(笑)。「ほろ苦く切ない恋を綴った青春ラブロマンス映画の名作」(Wikipedia)だが、主演のルノー・ヴェルレーも今は72歳だという(苦笑)。
 「イージー・リスニング」というカテゴリーに入れられてしまう作曲家だが、2016年に朝日新聞の電話インタビューで映画音楽について「音楽と映画の関係は不可欠で、映像にエモーショナルなものをもたらす。一度聞いたら口ずさめるような音楽にしたい」とさらりと答えているところに、「イージー」の意味を語って余すところがない。
 フランスの映画音楽の巨匠は他にも、ミシェル・ルグラン氏がいるが、なんと同じ1932年生まれ。ある方のサイトで「おすすめフランス映画の音楽」10選を見かけて(https://france-cinema.net/music/)、共感した。年齢も近いかも(笑)。フランシス・レイが半分を占めている。
 1.「白い恋人たち」(1968年)    フランシス・レイ
 2.「シェルブールの雨傘」(1963年) ミシェル・ルグラン
 3.「男と女」(1966年)       フランシス・レイ
 4.「禁じられた遊び」(1952年)   ナルシソ・イエペス
 5.「さらば夏の日」(1970年)    フランシス・レイ
 6.「雨の訪問者」(1969年)     フランシス・レイ
 7.「あの愛をふたたび」(1969年)  フランシス・レイ
 8.「地下室のメロディー」(1963年) ミシェル・マーニュ
 9.「太陽がいっぱい」(1960年)   ニーノ・ロータ
10.「エマニエル夫人」(1974年)   ピエール・バシュレ
 音や声の記憶というのは、文字とは違って身体に染みついており、魔法のように、それを聴いた年頃にふっと戻ってしまう。恐らく永遠に。フランシス・レイさんのご冥福をお祈りし、合掌。
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戦略的放置の韓国

2018-11-02 02:56:49 | 時事放談
 元徴用工を巡る訴訟で韓国最高裁が日本企業に賠償を命じる確定判決を出したことについては、韓国の左派政権のことだがら十分に予想されたことで、実現したところでそれほど驚きはないが、ここまでやるか・・・との絶望的な思いは深い。
 既に報じられている通りだが、「そもそも1965年の日韓国交正常化交渉の過程において、日本政府は個人補償も検討したが、当時の朴正熙政権が一括して韓国政府との間で解決するように求め、無償3億ドル、有償2億ドルで決着した経緯がある」(元・在韓国特命全権大使・武藤正敏氏)のであり、「元徴用工やその遺族は、2005年に旧・新日鉄を相手取りソウル中央地裁に提訴した。しかし当時の盧武鉉政権が、日韓請求権協定や関連の外交文書を検証した結果、個人が企業に賠償を求めるのは事実上困難との見解を表明。1、2審は原告が敗訴した」(同)、もう少し具体的に言うと、「日本による無償3億ドル協力には『強制動員被害補償の問題解決という性格の資金が包括的に勘案されている』として、責任は韓国政府が持つべきだとの認識を示している」(同)のであって、文大統領は当時の盧武鉉政権の高官だった。
 以前にもこのブログで触れたが、1951年10月20日の交渉開始から、もめにもめて1965年の日韓基本条約締結まで実に14年もの歳月をかけた日韓国交正常化交渉で、第三次会談(1953年10月6日~10月21日)の日本側首席代表を務めた外務省参与・久保田貫一郎氏は、10月27日の参議院で、「韓国側は日本に対して『戦勝国』であると錯覚しており、また、『被圧迫民族の独立という新らしい国際法ができたから、それにすべてが従属される』ため、韓国は国際社会での寵児であるという認識があるが、いずれも『根拠がございません』と答弁」(Wikipedia)し、10月26日付の極秘公文書「日韓会談決裂善後対策」 で韓国について「『思い上がった雲の上から降りて来ない限り解決はあり得ない』と記述し、韓国人の気質について『強き者には屈し、弱き者には横暴』であると分析した上で、李承晩政権の打倒を開始するべきであるとの提言を残し」(同)ている。因みに「この公文書の存在を2013年6月15日に報道した朝日新聞は久保田発言について日韓交渉を決裂させた原因とした」(同)ということだが、非がどちらにあるか、朝日新聞の見立てが疑問なのは、その後の従軍慰安婦問題での蒸し返し(日韓合意に基づいて設立された慰安婦財団の解体の示唆)でも、日本の海上自衛隊による旭日旗掲揚の自粛要請のように、国際慣例より自らの国民感情を上位に置いたことでも、そして今回の元徴用工を巡る訴訟で国際合意より国民感情を上位に置いたことでも、明らかだろう。
 「未来志向の日韓関係」を嘯きながら過去を蒸し返し続ける文在寅大統領は、先般、ヨーロッパを行脚して、北朝鮮制裁を緩めるよう各国に働きかけて総スカンを食らったが、今日、国会で来年度予算に関する施政方針演説を行い、北朝鮮問題には触れても、日韓関係については触れずじまいだったらしい。一体、何を考えているんだ、このオヤジは・・・という感じだが(苦笑)、一昨日の判決の後、河野外相は韓国の李洙勲駐日大使を外務省に呼び、「法の支配が貫徹されている国際社会の常識では、考えられないことが起こっている」と皮肉を込めて抗議したというし、昨日の自民党・外交部会などの合同会議では、「韓国は国家としての体をなしていないんじゃないか」(中曽根弘文元外相)とか、「もう怒りを通り越してあきれるというか、韓国のセンスのなさを言うしかない」(新藤義孝元総務相)など、出席議員の言葉も尖っていたと、産経の阿比留瑠比さんが伝えている。国会議員のセンセイにここまで言って貰えれば、私としては付け加えることはない(笑)
 それでブログのタイトル「戦略的放置」というのは、政府高官の言葉で、今さら用語解説するまでもないことだが、北朝鮮問題に関して韓国との連携は維持するが、本音では韓国を相手にしない(=戦略的放置)ということらしい。関わりたくない気持ちはよく分かるが、放置しても韓国に効き目はない。これまでさんざん甘やかしてきたツケで、これからも繰り返されることになるのは目に見えており、韓国の、と言うより、歴代日本政府の責任だと思う。徳島文理大の八幡和郎教授は当日のフェイスブックに「日本は何もしないと思われるから韓国は無茶をする」と書き、次の5つの報復措置を提案されたそうで、私も諸手を挙げて賛成。
(1)日本人が(朝鮮)半島に残した個人財産への補償を要求
(2)対北朝鮮経済協力の拒否(統一時も含む)
(3)3代目以降に特別永住者の地位を認めない事
(4)歴史教科書における(近隣国への配慮を定めた)近隣国条項を韓国に限って撤回
(5)韓国大衆文化の流入制限
保守派の八幡教授の面目(笑)
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