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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

自分の毒で病気になる

2017-09-14 | わたし
「赤ん坊と遊ぶ」というのと「赤ん坊の世話をする」というのは、180度、違う。
バンジージャンプのようなものだ。
ほんとうに、谷底に落ちてしまうのと、遊びで擬似体験をするのとでは、臨場感は味わえても、根本的に違う。

お見舞いも、そう。
自分が看病するのと、入院患者の家族なのではまるで違う。
介護施設に入っている親を訪ねるのと、自分で介護するのでは、全く違う。
病気の人を看護するのは、専門知識が必要で、医療従事者の手を借りないと困難である。
命にかかわることだ。
介護は、領域が曖昧、ボーダレス。
しかし、四六時中のトイレ介助やオシメ交換をはじめ、心身共にハード。
重労働が家族(特に嫁)の肩にかかり、共倒れを避ける意味で、介護保険が制度化、導入された。
生活に介護保険を組み入れるにしても、自宅で介護するのと、お見舞いに行くのとでは、雲泥の差がある。
ただし、介護する側としては。

介護される側は自宅のほうがいいし、施設に入るとしても、スタッフの数が足りている快適な施設のほうがいい。
当たり前だが、現実が希望にマッチするとは限らない。
希望を、実現可能な要望に引き下げることで、調整を図る。

自宅で家族を看護している人がいるとすると、終焉を自宅で迎えたい高齢者、あるいは治らない病気の末期患者だろう。
死亡時には医師の診断が必要なため、自宅で人生を閉じたいにもかかわらず、病院での最期を余儀なくされることになる。
遠隔地には医師が待機できないことが、自宅終焉希望者のハードルになっている。
が、新しくハードルを下げる、IT技術の発達による妙案が発せられたよう。(テレビのニュースで、ぼんやり見た)

まあ、それはそれとして。

わたしは、あたかも、「生」「病」「老い」に寄り添うフリをして、サボっている。
肝心な重労働、実際の労務、大変な事は人に任せて、自分は、ベッドの上から「大丈夫?」と覗き込む。


ここで、いきなり、なぜか、なにかに触れ、なにかが爆発した。

「赤ん坊、泣いてるよ〜」と、わざわざ知らせてくる夫のごとく。
自分で、どうにかしろ、頭を使え!
(母乳による授乳は例外)
「○○君(孫)、鼻水が出てるよ〜」
と、我々に知らせる前に、自分でどうにかしろ!

あれよあれよという間に、3人の父親になった、わたしの夫。(同時に、わたしもですが)
ご両親に可愛がられて育った娘婿と同じであるが、なにかが違う。
娘婿には笑顔とエールを送り、娘婿のご両親には感謝。
しかし、夫には、鬼の顔、怒りの念。
感謝はしているが、それは理性で、アタマで考えて。
感情としては、別のものがある。
3人の子供の父親としての役割は、家族を雨風しのげる家に住まわせ、飢えさせず、病気もさせず、成人させた。
養育放棄もせず、立派ではないか。
外では7人の敵。
嫌なことも呑み込んで、家族のために頑張る。
どこに文句がある? えぇ?おい?

確かに、確かに、その通り。
ご無理ごもっとも。足を向けて眠れません。
しかし、こころにうずくまる、処理できない、もやもやした思いが積年重なり、思いが一人歩きし、怪物になっている。
わたしの手を離れ、暴れ回るのであるが、どうにも出来ず、この化け物が疲れておとなしくなるのを待つしかない。

おそらく、わたし自身が弱らなければ、怪物も弱らないだろう。
怪物は、わたしの化身であり、一心同体であるから。
怪物の原因は外にあるのではなく、内側、自分自身にある。
その都度その都度、自分の要求を表現しなかった自分に非がある。
(ぼーっとしていて、傷みに気づかなかったと思われる。
今頃になって、痛みを感じ、原因を探ってみると、傷や、ほころびがあることを発見した)
まわりから見れば、おとなしく、にこにこしていたら、わかるはずがない。
かといって、自分を責めると、こころの病気になる。
病気になって、家族に迷惑をかけてはいけないので、ここで、自己肯定に転じる。

わたしは、わたし。
良いも、悪いも、出来、不出来も、わたし。
文句があるなら、わたしの代わりにやってちょうだい。

で、ブログで毒を吐き、清々したかどうか?
洗濯機を回している間の待機時間、暇つぶしになっただけ。
でも、すっきり、楽しかった。

すみません。
暇つぶしのお手伝いをしていただいた、みなさま。

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エネルギー不足につき、チャージした

2017-09-13 | 日々のこと
今日は、長女一家の写真を見た。
娘が小学生の頃の一枚をはじめとし、懐かしい写真がズラリ。
途中から、アルバムには、お婿さんの若い頃の写真が加わった。
ご両親に丁寧に大切に可愛がられて、育てられたような、かわいい、かわいい顔をしていた。

今では、あれよあれよという間に、3人の父親になってしまい、いささか、くたびれた感はある。
かわいそうなような、、、いやいや、頑張ってもらわなければいけない。


本来、今日は、母と兄の顔を見に行く予定だった。
ほんの1〜2分の時間が足りなくて、バスに乗れなかった。
(本当のところは、気が進まなかったが、行く準備は、していた)

で、急きょ、娘の家に遊びに行った。
生後3か月のベビーと、一日中、遊んでいた。
ベビーの生きる力は、すごい。
ポテンシャルは、すごい。
大量のエネルギーをもらった。
癒され、元気になった。

頭がボヤけた、何度訪れても、すぐにそのことを忘れる母や、長く病身の兄のお見舞いに行っても、自分自身は、さほど楽しくない。
得るものはない。
いつも、ボランティア精神のようなものか。
だが、純粋なボランティア精神ではない。
自分が楽しむためではなく、相手に喜んでもらおうと願う、見返り、リターンを求めるようだ。
それが、相手はそう強く喜んでいるわけでもないと、わざわざ無理をしてまでも、会いに行きたいと思わなくなる。
肉親なのに、打算?
無償の愛はないのか?

それより、赤ん坊や幼児、子供のほうが、相手は喜ばなくても、自分は喜びを感じる。
無償の愛に近い。
ただし、無償の愛ではない。
あくまでも、近いだけである。

自分が体調も万全で、元気もりもりで、相手が強く喜んでいなくても、相手を励ましてあげよう、喜ばしてあげようと、自分のエネルギーを分けてあげたい時もある。

見返りを求めない行為は、自分が相当、エネルギーがある時にでないと出来ない。

なので、病気になり、少し弱っている時は、自分が他者にエネルギーを与えることは出来なく、他者からエネルギーをもらいたいようだ。
本日、母や兄のお見舞いに行かないでサボり、ベビーと一日中遊んでいたわたしは、やはり、療養が必要なのだ。
だから、サボっているのではなく、人に与える余裕がない。

で、赤ん坊に、癒され、たっぷり滋養を得た1日となった。

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眠気に襲われながら

2017-09-12 | 無題
一日の終わりにブログ更新する日は、なにもなかった日だ。
なんにもなくて平和すぎて、せめて日付が変わる前に、何か書き残しておこうとするようだ。

自分で今、老境なのか、なんなのか、わからなくなってきている。
立派なことは書けない。
実践もしていないのに、偉そうに書けるわけがない。

老境と認知症がボーダレスになっている。

昨夜、NHKテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」を見た。
いつもは見ないのだが、近藤正臣が出ていて、関西弁に親しみを覚えて、つい見てしまった。
75歳の彼、いい味を出している。
地方の活性化に活躍してくれる、地元の跡継ぎたちを激励していた。
あの気持ち、とてもよくわかる。

しかし、日本は急激に尻すぼみに変わりすぎている。
九州に匹敵するぐらいの面積の持ち主不明の膨大な土地が全国にあるという。
高齢者があの世に行く傍らで、赤ん坊の出生率は少ない。少子化の波。
全国、空き家、空き地だらけ。
江戸時代の人口規模になったら、江戸時代のようなエコな暮らしに対応して暮らすのだろうか。
地方は元気になってほしい。
ぜひ、地域のお年寄りたちから、昔のことを聞きたい。
そういう近藤正臣だったが、聞いた相手の知っている栄えた時代は、昭和20年ぐらいから40年までのことだった。
古くない。

眠気が押し寄せてきた。
では、また。

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部屋は、広々とした病室になった

2017-09-11 | 
さて、時差1時間で到着した楽園。
わたしの年齢は、ほとんど見かけない。
お年寄りなど、中国人と思われる、足と腰が曲がり気味のおばあさん1人を省いて、誰も見かけなかった。

わたしの年齢なら、子供ファミリーと3世代旅行。
(わたしの年齢より、ほんのすこし若いグループも、ごく稀にいたが)
わたしの年齢で、おひとり様はいない。

男性なら、ゴルフ。若者、中年もゴルフ。
が、あいにくの豪雨、暴風雨。
アクシデントはつきもの。

アクシデント続きに、わたしにもアクシデントが降ってきた。
1人で暑い中、サングラス、帽子に日傘を差して、てくてくホテルから歩いて行った。
行っても行っても、なにもない。
入り組んだ複雑な道だと帰れないと困るので、ひたすら直進。
直進しながら、帰りのエネルギー残量を考える。
で、ひたすら疲れ、Uターン。
ただただ疲れた。
(あとでわかったが、目的地と逆方向に歩いていた、筋金入りの方向オンチ。
若い頃からそうだったが、拍車をかけ、ますます磨きがかかった方向オンチぶりに、自分に、呆れ仰け反った)

と、当然それは、前振り。
そんなことは、どうだっていい。

その翌日、ダウンした。
吐き気、嘔吐、頭痛、悪寒、、、
熱も出てきた。
ベッドをごろごろ右へ左へ。
ぐるりと一回転し、また、ごろごろごろごろ。苦しい。
わたしは、ここ最近、2、3年に一度ぐらい病気にかかる。
(去年も海外で原因不明の病気にかかったが、旅の行程はこなせ、帰国時に完治した)

日本でかかる病状に似た病気に、たまたま、今回は海外のホテルで。
部屋は広々、病室に変わった。

帰国するまで、病室ステイ、ほとんど何も食べなかった。(食べられなかった)

風邪かも?食べ物かも?ストレスかも?
わたしは、ストレスだと思っている。

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夢の中の、夢

2017-09-09 | 趣味
今朝、夢を見た。
趣味の夢。
ほんの数回、踊ったことがある、見たことのある人と組むかも知れない可能性が出てきた。
よろしくお願いします、と、恐る恐る、踊ってみた。
(顔のイメージは、自治会の連合会の時に見かける、色白で端整な顔立ちの中国人男性と、去年の団体旅行で一緒だった、切れ長の目をした浅黒い顔の男性を足して割ったような感じ)

絶対に断られるだろうな、と思っていたら、「良いですよ」と、あっさり言う。
すっと難なく滑り出す。
その人は「先に少しリードしてくださいね」とも言い、そういえば、きれいに立って上手風だが、踊りをあまり知らない可能性もある。
(男性がリードするのがルール)
友人たちも見に来ていた。
どうやらベトナム人らしい。
みんな、故郷を離れ、異国の地、日本で経済的事情のため、働いている。

「なんでダンスを始めたのですか?」と、わたしが聞くと、お金がかからず楽しめるなんて素晴らしい、という答えだった。
舞台はどこかの体育館。
わたしは、リードできないので、この人と踊れるようになるには、レッスンを受けないといけないと思った。
レッスン費用は、わたしが持つことになる。
彼が、ある程度、踊れるようになったら、わたしは、もっと素晴らしい女性とチェンジされるだろう。
それをわかって、今だけ楽しむ。
技量アップの手助けをする。
卒業の日が来たら、それで終わり。
ダンスはダンスとしてさておき、体育館に応援に来ていた同郷の女性と、幸せの道を歩くだろう。
応援できて、自分も幸せになれる。

しかし、卒業の日は泣くだろう。

組みもしていない、しかも架空の人物とのストーリーに、ちょっぴり切なくも幸せ気分になった。
睡眠中に見る夢って、いいなあ。
ただし、自分ではコントロールできないのが、残念。

ぐっすり眠り、ハッピーな夢まで見れて満足して目がさめると、9時だった。
ブレックファースト ブッフェは10時まで。
慌てて飛び起き、支度して、あたふた駆け込んだ。



この夢分析を試みてみると、自分の願望が現れていると思われる。
自分にあるのは、精神的ゆとりと、わずかな経済的バックアップのみ。
能力はない。伸び代もない。努力をする気もない。
白馬に乗った王子様が現れ、しばし、魔法の切れる12時まで楽しみたいという、虫のいい思いか。
なんと、甘い、自分本位の夢だろう。
夢には、実現に向けて掲げる夢と、努力せず、ただただ、ぼ〜っと見る夢がある。
ただし、努力しない夢の場合は、払った代償に見合う、期間限定ということ。
ホンモノの夢は、目標、情報収集、計画、実践、試行錯誤、軌道修正、行ったり来たり、口を開けて待ってるだけの、ぽよよ〜ん、ではない。
自分を夢に向かって走らせる、情熱、自己投資と努力が必須。

夢を見ている間に、人生はあっという間に過ぎる。
今朝のように、朝食にありつけない可能性だってある。
夢と現実の橋渡し、実現可能な、自分の夢の設定が、ポイントだと思う。
だが、手が届かない夢を見続けるのも、ある意味、幸せかも知れない。
無知は、夢を見れる。
知ることにより、絶望するよりはいい。

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時差1時間

2017-09-07 | 

日本人だらけの海外。
日本語すいすい、看板も説明書きも日本語。
あまり日本人以外の旅行客は見なかった。
フライト時間が3時間ということが大きいか。
日本からの便なので納得。
1〜3歳ぐらいの幼児連れ家族が多い。
ジジババ抜き、自立ファミリー。
幼児イベントでもあるのかしらん、という風景。
子育て中は、フラストレーション的エネルギーが溜まって、どこかに行きたいのだろう。
子供を産み育てるエネルギー量は人生でピークだと感じる。
エネルギーの爆発、放出により、日本には留まらず、心身とも、家族もろとも、海外へ押し出されるようだ。

入国審査に1時間以上の長蛇の列。
ディズニーランドのアトラクション1時間待ちのよう。
今から始まるお楽しみに、じっと辛抱強く、ひたすら待つ。
列が進み、さあ、扉が開く瞬間。


ここはどこ?
宮崎、白浜、ひと昔前の新婚旅行。
それぐらい近い。

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損切りする英断

2017-09-06 | 趣味
わたしが出来ない部分のサポートを他人さんのアドバイスなどでカバーしてくれようとする。
他の人の力を借りて協力してくれようとする。
(わたしは、先生の指導は全て取り入れようと努力する姿勢だが)

わたしが協力してほしいのは、そこじゃない。
自分自身の役割の足りない部分を自分で補ってほしい。
自分のやることをやってから、人のパートに口出ししてほしい。

そもそも、わたしが混乱に陥るのは、相手のせいなのだから、わたしを修正するのではなく、自分を修正するほうが先。

こんなケースは、山とあり、どこのペアとも似たようなものらしいけれど。
自覚しているか、していないかで、えらく違う。
しかしながら、自覚していただくまで、5年も待てません。

未熟同士だからこうなる、という見解。
たしかに。
自分が未熟なのに、大きな器を演じるのは辛い。
自分が頑張れないなら、なにか、条件をひとつ落として、別の人と、レベルダウンした状態で、やり直してはどうか。
これは、技量面が追いつかないせいもあるが、性格、人格面にも問題がある。
自分を直さずに、相手を直させる。
自分は、下手なのに。
どこの誰と組んでもこんなものなら、やってられない。
何が楽しくてやっているのか全然理解できない。
歯を食いしばって耐えたら、楽園が待っているのだろうか。
だめなものは、だめ。
高目で買って、下がった株と同じ。
いつまでもへばりついてないで、目減りしても、損切りする勇気を持たなければ。

本来、お互いに膝や腰に持病を抱えているのだから、労わり合って無理をしないことが前提。
思いやりが生まれてこないところに、相性の悪さを感じる。
わたしも悪いが、相手も悪い。
こんなことを言い続けていたら、いつまでも並行線である。
時間の無駄。
ちょっと寄り道しただけ。
失敗は成功のもと。
魅力のないものは、捨てる。

相手もそう思っているかも知れない。
相手も、もっとよく出来た人と組めばいい。
新しい相手が技量能力の高い人なら、自分より低い技量には不満を感じるだろう。
わたしより更に出来ない人と組むべき。
そして、どんどんレベルダウンしていく。
負のスパイラル。
あら、なあんだ、わたしと同じではないか。
所詮、ダメ同士ということか。
ひょっとして、誰と組んでもダメなのかも知れない。
問題は相手にではなく、自分にあったりする。

しかし、みなさん、相手はそうそう現れないので、ガマンしているようだ。
理想を追求すると、相手がいない。
嫌な相手でガマンするか、相手がいなくてガマンするか。
どっちみちガマンかあ〜。
趣味もそこそこ手を抜いて適当なところで妥協しないと、楽しみはどんどん遠のくばかりだ。

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一日もはやく別れたい

2017-09-04 | 趣味
なぜ、大好きな趣味が楽しくないのだろう。
やはり、相手によるのか。
わたし自身、癖も難もあるキャラクターなので、合う人など、そもそもいないと思う。
わたしの能力は、たかが知れているし、「伸びしろ」もさほどないし、あまり評価できない、気に入らない相手に対して頑張って努力しようという情熱もないし、素人さん相手では、不満が出るのは当たり前。

素人には、そもそも素人相手は無理。
よほど、相性が合って、吸引力がないと。
協力し合おうという互助の姿勢がないと。

相手が、わたしに非を見出し、出来ないところを努力して克服せよ、という気持ちは痛いほどわかるが、自分はどうなのよ?
自分だって出来てないから、わたしが上手く行かないんだ。
わたしにも確かに非はある。
認めるが、あんたにも非がある。
あんたは、それを口だけで認めたようなことを言っているが、ホンネは違う。
いつもわたしを責める。
わたしばかりを責める。
わたしが、あんたの非を責めたことはあるか?
もし、わたしが、そんなによく出来た人間なら、あんたなんかと組まない。
もっと出来る人と組む。
そこらあたり、全く自覚がない。
それに、もっとよく出来た人なら、わたしが出来なくても、わたしが出来ない分をカバーし、自然に出来るように導いてくれる。
さすがに、わたしも有料のプロではない素人さんに、そこまで求めないが、あんたも、素人であるわたしに、求めすぎである。
自分だって出来ていないくせに。
あんたのレベル、条件では、わたし程度でバランスが取れている、にも関わらず、それを理解していない。
お互いに、たいしたことはない。
お互いに、である。
一方ばかりを責めるのではなく、お互いの互助サポートがないと成り立たない。


はやく、組み替えの日が来ないかなあ。
はやく、はやく、はやく、、、
別の人とやり直して、あら、今の人のほうがマシだった、と、良さがわかるのかも?
なんでもいいから、とにかく、はやく、今の相手と、サヨナラしたい。
最初から嫌なのだ。
自分を顧みず、相手を責める、あのスタンスが。

きっと性格が嫌いなのだろう。
歩み寄れない我々。
仕事でも家庭でもなんでもない、趣味の世界なんだから、ガマンする必要性を見出せない。
相手は合わせようと努力していないのに、なんでわたしが協力しなければならない。
好意でも持っているならいざ知らず、お互い、そんなことはない、執着心のない人に。
わたしは好意どころか、嫌いである人物。
相手も、自分からは好意は抱いているわけではない。
わたしには相手がいなくてかわいそうだから、わたしの相手をしてあげているという、高いところから見下ろしている、優越感ありあり高飛車路線。
わたしからのアプローチで、ボルテージはわたしのほうが高いと思っているようだ。
とんでもない。
勘違いも甚だしい。

目標が同じなので頑張っている。
が、この目標もこんなに不協和音では、相手を変えたほうが早道。
あるいは、目標自体を変えたほうがいい。
試行錯誤で、自分の道を手探りで進む。

別れの日が待ち遠しくてたまらない。

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ブサイクも個性

2017-09-03 | 無題
2008年放映の和田アキ子が司会をする、美人のビフォーアフターのような番組をスマホ、ユーチューブで見た。
ひどい、、、の一言。
番組の意図は、いたって低俗。
まあ、視聴率稼ぎが目的なので、そういう意味では、9年も経っているのに、ユーチューブの上のあたりに出てくるところを見ると、話題性はあるのだろう。

で、一般から募集した、自分を美しく変身したい依頼者を、美のプロたちが美人に激変させる。
ヘアアーティスト、メークアップアーティスト、スタイリスト、エスティシャン、美容整形外科医らが、腕を振るう。

依頼者たちは、自分の醜い容姿のせいで、小さい時から凄惨なイジメを受け、今もトラウマから抜け出せず、根暗に生きている人々。(という設定)
出っ歯や目が小さい、なんていうのは、あっさり激変。
難易度が高かったのは、顔が左右ズレている人。
顎の骨を一旦外して、かなりの大手術。
交通事故にでも遭っての手術ならいざ知らず、健康な体に、ここまで大胆にメスを入れるのは、抵抗がある(わたしは、古い?)
しらす干しのような目は、上下左右を切り開き、面積は4倍にはなっている?
激変アフターの顔は、逃亡している犯罪者が整形して、別地で別人として別の人生を送っているような印象。


醜い顔のせいで、恋愛はもちろん、就職もままならないと嘆く依頼者たち。
真剣に悩んでいる依頼者(の顔)を見て、涙を流すゲスト出演者もいる。
和田アキ子は、憐れんで涙が出るのではなく、30歳近くにもなって真剣に悩んでいる純真さに心打たれたと言っていたが。
中には、ヘアアーティストの男性は、あまりにもブサイクすぎて泣けてきたという人もいた。

ヘアも、メークアップも、肌も、ファッションも激変には、さほど大した威力はなく、大改造には、美容整形がダントツと感じた。

心のトラウマを治すには、トラウマに陥った原因である容姿を直し、自信を持ちたい、とのことだろうけれど。
外見ばかりにこだわるのは、番組の意図として、視聴率稼ぎには一番手っ取り早いのはよくわかるが、、、。
(現にわたしも、惹きつけられて、ユーチューブを見ているし)

内面、中身の能力を高める方向は、アプローチされていない。
未成年などの、人としてまだ未完成の人が見て、勘違いしては教育上、良くないと感じる。
視聴率稼ぎの番組の意図をわかって見ているならともかく、まともに真に受けたら大変である。
(姥ごころか)
就職も顔で採用するような仕事、職種を選ばないこと、恋愛も外見ばかりにこだわる人を選ばないこと、そのためには、外見の努力もさることながら、内面を(精神力だけでなく、能力、実務も)磨くべき、というメッセージなんか、視聴率にはなんの足しにもならず、全く視聴者のこころに響かないことだろう。
志しの高い、頑張り屋さんはともかく、普通の人には当たり前過ぎて、皆んな、やろうとしても出来ないし、学校の先生の、耳が痛い、お堅いお話など聞き飽きている。
てっとり早い方法で楽しもうという一般視聴者の興味を引くように番組が出来ている。

そもそも人の容姿を見て涙ぐむなんて、失礼にも程がある。
美容整形外科の手術をした後の顔は、ひな形の整形顔になり、個性がなく、メイクすると15〜20歳は老けて見えた。
もともと若い人が志願者の場合は、整形すると、世の中を知り尽くした、得体の知れない熟女のような顔になる。
歳とった人が、アンチエイジングで整形した場合と逆。

そもそも、他人にとってはブサイクと思われようが、自分にとっては、世界に一つ、唯一無二の、愛着ある、誇りある顔を機械的に判断されメスを入れられるなんて、もっての他だ。
「これは、ひどいですねえ」なんて、よく言ったものだ。
「ひどい」の判断基準は何か?

誰もが憧れる、整形美女になったところで、今までの自分を消去し、上書き、更新してしまうのは、よほど自分を全面否定してきたからだろう。
というか、全面否定した後、リセットしてやり直したいという、過去のいきさつからすると、わからないでもないが、変身した後の性格が心配である。
傲慢、奢りなど、マイナス面が付随してきそうだ。

若い頃は外見にとらわれるのは、よくわかる。わたしもそうだった。
が、自分の顔は自分で責任を持つべきだ。
ブサイクでも、それは強烈な個性、いいと思うのだが、だめなのだろうか。

わたしの年齢になると、見かけ倒しの人がいて、がっかりする。
いくら見た目が良くても、なんの面白味もない人がいる。
見た目が良くて、中身が悪い人もいる。
(見た目が悪くて中身が悪い人は、中身が悪い時点でNG)
逆に、産まれつきの容姿は良くなくても、清潔にして、オシャレしたり、素敵な表情や、楽しい幅広い話題を提供してくれる人のほうが、ずっと魅力的である。

わたしの年齢にならないと、こういう境地にはならないのかも知れない。

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全然、楽しくない

2017-09-02 | 趣味
思っていることが、言えない。
表現できない。
具体的な相手のいない不特定多数に向けてのブログなら、なんだって書けるのに。
自分の性格が弱い、欠陥があると思う。

嫌われても構わない、とブログでは潔さを強調するくせに、実際、目の前にすると、相手に嫌われないように振る舞ってしまう。
嫌いな相手なのに。

波長が合わないのだろうか。
その人が面白がっている事柄に、わたしは頑張って興味あるフリをして、合わせている。
わたしが興味あることに対しては、その人の反応は薄い。
しかも、その人は、一生懸命、誠意で自分が調べたりしたことに、相手の反応が薄いと、とたんに失望する。
つまり、自分が中心。
同じことに同じ熱を持ってほしいと望む。
しかし、そんなぴったり分身みたいな人はいないと思う。
なので、自分に合わせてくれる人を選ぶのだろう。
(いつも短期間で相手はチェンジ)

ラリーは応酬があってこそ、面白いし、熱が入る。
一方が強いと、ラリーは続かない。
わたしは、とりあえず、合わせるタイプだが、無理をしている場合は、維持が困難。
息も絶え絶え。
こちらのペースに持ってこさせるまでに、わたしは潰れている。
というか、直感で、わたしのペースになど、一生合わせられないと感じる。
持ちつ持たれつ、お互い、ギブアンドテイクならまだしも、一方的では、相性が悪いとしか言いようがない。

表面だけの薄い数分の関わりならいざ知らず、長時間、行動をともにするには、信頼は大事。
自分を見ればよくわかるように、誰しもパーフェクトな人はいないので、無いものねだりは、よくない。
しかし、同じ、割れ鍋に綴じ蓋でも、微妙な割れ具合によって、しっくり行く場合と、全然ダメな場合がある。
どちらが悪いわけでもなく、相性が合わない。

ストレスを感じても我慢するのは家の中だけにしたい。
たかだか趣味、仕事でもないのにストレスを感じ、ぐったり。

同じ趣味のこの人物、定期的に嫌な思いをさせられる。
同じだけ、楽しい思いがあれば良いのだけど。
同じ目標に向かって2人で練習しているのだが、試合の結果が良ければそれでチャラなのだろう、おそらく。
練習は苦しく嫌なもの。そんなものなのか。
これで試合が惨敗なら、かえってスッキリするかも知れない。

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