「赤ん坊と遊ぶ」というのと「赤ん坊の世話をする」というのは、180度、違う。
バンジージャンプのようなものだ。
ほんとうに、谷底に落ちてしまうのと、遊びで擬似体験をするのとでは、臨場感は味わえても、根本的に違う。
お見舞いも、そう。
自分が看病するのと、入院患者の家族なのではまるで違う。
介護施設に入っている親を訪ねるのと、自分で介護するのでは、全く違う。
病気の人を看護するのは、専門知識が必要で、医療従事者の手を借りないと困難である。
命にかかわることだ。
介護は、領域が曖昧、ボーダレス。
しかし、四六時中のトイレ介助やオシメ交換をはじめ、心身共にハード。
重労働が家族(特に嫁)の肩にかかり、共倒れを避ける意味で、介護保険が制度化、導入された。
生活に介護保険を組み入れるにしても、自宅で介護するのと、お見舞いに行くのとでは、雲泥の差がある。
ただし、介護する側としては。
介護される側は自宅のほうがいいし、施設に入るとしても、スタッフの数が足りている快適な施設のほうがいい。
当たり前だが、現実が希望にマッチするとは限らない。
希望を、実現可能な要望に引き下げることで、調整を図る。
自宅で家族を看護している人がいるとすると、終焉を自宅で迎えたい高齢者、あるいは治らない病気の末期患者だろう。
死亡時には医師の診断が必要なため、自宅で人生を閉じたいにもかかわらず、病院での最期を余儀なくされることになる。
遠隔地には医師が待機できないことが、自宅終焉希望者のハードルになっている。
が、新しくハードルを下げる、IT技術の発達による妙案が発せられたよう。(テレビのニュースで、ぼんやり見た)
まあ、それはそれとして。
わたしは、あたかも、「生」「病」「老い」に寄り添うフリをして、サボっている。
肝心な重労働、実際の労務、大変な事は人に任せて、自分は、ベッドの上から「大丈夫?」と覗き込む。
ここで、いきなり、なぜか、なにかに触れ、なにかが爆発した。
「赤ん坊、泣いてるよ〜」と、わざわざ知らせてくる夫のごとく。
自分で、どうにかしろ、頭を使え!
(母乳による授乳は例外)
「○○君(孫)、鼻水が出てるよ〜」
と、我々に知らせる前に、自分でどうにかしろ!
あれよあれよという間に、3人の父親になった、わたしの夫。(同時に、わたしもですが)
ご両親に可愛がられて育った娘婿と同じであるが、なにかが違う。
娘婿には笑顔とエールを送り、娘婿のご両親には感謝。
しかし、夫には、鬼の顔、怒りの念。
感謝はしているが、それは理性で、アタマで考えて。
感情としては、別のものがある。
3人の子供の父親としての役割は、家族を雨風しのげる家に住まわせ、飢えさせず、病気もさせず、成人させた。
養育放棄もせず、立派ではないか。
外では7人の敵。
嫌なことも呑み込んで、家族のために頑張る。
どこに文句がある? えぇ?おい?
確かに、確かに、その通り。
ご無理ごもっとも。足を向けて眠れません。
しかし、こころにうずくまる、処理できない、もやもやした思いが積年重なり、思いが一人歩きし、怪物になっている。
わたしの手を離れ、暴れ回るのであるが、どうにも出来ず、この化け物が疲れておとなしくなるのを待つしかない。
おそらく、わたし自身が弱らなければ、怪物も弱らないだろう。
怪物は、わたしの化身であり、一心同体であるから。
怪物の原因は外にあるのではなく、内側、自分自身にある。
その都度その都度、自分の要求を表現しなかった自分に非がある。
(ぼーっとしていて、傷みに気づかなかったと思われる。
今頃になって、痛みを感じ、原因を探ってみると、傷や、ほころびがあることを発見した)
まわりから見れば、おとなしく、にこにこしていたら、わかるはずがない。
かといって、自分を責めると、こころの病気になる。
病気になって、家族に迷惑をかけてはいけないので、ここで、自己肯定に転じる。
わたしは、わたし。
良いも、悪いも、出来、不出来も、わたし。
文句があるなら、わたしの代わりにやってちょうだい。
で、ブログで毒を吐き、清々したかどうか?
洗濯機を回している間の待機時間、暇つぶしになっただけ。
でも、すっきり、楽しかった。
すみません。
暇つぶしのお手伝いをしていただいた、みなさま。
バンジージャンプのようなものだ。
ほんとうに、谷底に落ちてしまうのと、遊びで擬似体験をするのとでは、臨場感は味わえても、根本的に違う。
お見舞いも、そう。
自分が看病するのと、入院患者の家族なのではまるで違う。
介護施設に入っている親を訪ねるのと、自分で介護するのでは、全く違う。
病気の人を看護するのは、専門知識が必要で、医療従事者の手を借りないと困難である。
命にかかわることだ。
介護は、領域が曖昧、ボーダレス。
しかし、四六時中のトイレ介助やオシメ交換をはじめ、心身共にハード。
重労働が家族(特に嫁)の肩にかかり、共倒れを避ける意味で、介護保険が制度化、導入された。
生活に介護保険を組み入れるにしても、自宅で介護するのと、お見舞いに行くのとでは、雲泥の差がある。
ただし、介護する側としては。
介護される側は自宅のほうがいいし、施設に入るとしても、スタッフの数が足りている快適な施設のほうがいい。
当たり前だが、現実が希望にマッチするとは限らない。
希望を、実現可能な要望に引き下げることで、調整を図る。
自宅で家族を看護している人がいるとすると、終焉を自宅で迎えたい高齢者、あるいは治らない病気の末期患者だろう。
死亡時には医師の診断が必要なため、自宅で人生を閉じたいにもかかわらず、病院での最期を余儀なくされることになる。
遠隔地には医師が待機できないことが、自宅終焉希望者のハードルになっている。
が、新しくハードルを下げる、IT技術の発達による妙案が発せられたよう。(テレビのニュースで、ぼんやり見た)
まあ、それはそれとして。
わたしは、あたかも、「生」「病」「老い」に寄り添うフリをして、サボっている。
肝心な重労働、実際の労務、大変な事は人に任せて、自分は、ベッドの上から「大丈夫?」と覗き込む。
ここで、いきなり、なぜか、なにかに触れ、なにかが爆発した。
「赤ん坊、泣いてるよ〜」と、わざわざ知らせてくる夫のごとく。
自分で、どうにかしろ、頭を使え!
(母乳による授乳は例外)
「○○君(孫)、鼻水が出てるよ〜」
と、我々に知らせる前に、自分でどうにかしろ!
あれよあれよという間に、3人の父親になった、わたしの夫。(同時に、わたしもですが)
ご両親に可愛がられて育った娘婿と同じであるが、なにかが違う。
娘婿には笑顔とエールを送り、娘婿のご両親には感謝。
しかし、夫には、鬼の顔、怒りの念。
感謝はしているが、それは理性で、アタマで考えて。
感情としては、別のものがある。
3人の子供の父親としての役割は、家族を雨風しのげる家に住まわせ、飢えさせず、病気もさせず、成人させた。
養育放棄もせず、立派ではないか。
外では7人の敵。
嫌なことも呑み込んで、家族のために頑張る。
どこに文句がある? えぇ?おい?
確かに、確かに、その通り。
ご無理ごもっとも。足を向けて眠れません。
しかし、こころにうずくまる、処理できない、もやもやした思いが積年重なり、思いが一人歩きし、怪物になっている。
わたしの手を離れ、暴れ回るのであるが、どうにも出来ず、この化け物が疲れておとなしくなるのを待つしかない。
おそらく、わたし自身が弱らなければ、怪物も弱らないだろう。
怪物は、わたしの化身であり、一心同体であるから。
怪物の原因は外にあるのではなく、内側、自分自身にある。
その都度その都度、自分の要求を表現しなかった自分に非がある。
(ぼーっとしていて、傷みに気づかなかったと思われる。
今頃になって、痛みを感じ、原因を探ってみると、傷や、ほころびがあることを発見した)
まわりから見れば、おとなしく、にこにこしていたら、わかるはずがない。
かといって、自分を責めると、こころの病気になる。
病気になって、家族に迷惑をかけてはいけないので、ここで、自己肯定に転じる。
わたしは、わたし。
良いも、悪いも、出来、不出来も、わたし。
文句があるなら、わたしの代わりにやってちょうだい。
で、ブログで毒を吐き、清々したかどうか?
洗濯機を回している間の待機時間、暇つぶしになっただけ。
でも、すっきり、楽しかった。
すみません。
暇つぶしのお手伝いをしていただいた、みなさま。