蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

エネルギー不足につき、チャージした

2017-09-13 | 日々のこと
今日は、長女一家の写真を見た。
娘が小学生の頃の一枚をはじめとし、懐かしい写真がズラリ。
途中から、アルバムには、お婿さんの若い頃の写真が加わった。
ご両親に丁寧に大切に可愛がられて、育てられたような、かわいい、かわいい顔をしていた。

今では、あれよあれよという間に、3人の父親になってしまい、いささか、くたびれた感はある。
かわいそうなような、、、いやいや、頑張ってもらわなければいけない。


本来、今日は、母と兄の顔を見に行く予定だった。
ほんの1〜2分の時間が足りなくて、バスに乗れなかった。
(本当のところは、気が進まなかったが、行く準備は、していた)

で、急きょ、娘の家に遊びに行った。
生後3か月のベビーと、一日中、遊んでいた。
ベビーの生きる力は、すごい。
ポテンシャルは、すごい。
大量のエネルギーをもらった。
癒され、元気になった。

頭がボヤけた、何度訪れても、すぐにそのことを忘れる母や、長く病身の兄のお見舞いに行っても、自分自身は、さほど楽しくない。
得るものはない。
いつも、ボランティア精神のようなものか。
だが、純粋なボランティア精神ではない。
自分が楽しむためではなく、相手に喜んでもらおうと願う、見返り、リターンを求めるようだ。
それが、相手はそう強く喜んでいるわけでもないと、わざわざ無理をしてまでも、会いに行きたいと思わなくなる。
肉親なのに、打算?
無償の愛はないのか?

それより、赤ん坊や幼児、子供のほうが、相手は喜ばなくても、自分は喜びを感じる。
無償の愛に近い。
ただし、無償の愛ではない。
あくまでも、近いだけである。

自分が体調も万全で、元気もりもりで、相手が強く喜んでいなくても、相手を励ましてあげよう、喜ばしてあげようと、自分のエネルギーを分けてあげたい時もある。

見返りを求めない行為は、自分が相当、エネルギーがある時にでないと出来ない。

なので、病気になり、少し弱っている時は、自分が他者にエネルギーを与えることは出来なく、他者からエネルギーをもらいたいようだ。
本日、母や兄のお見舞いに行かないでサボり、ベビーと一日中遊んでいたわたしは、やはり、療養が必要なのだ。
だから、サボっているのではなく、人に与える余裕がない。

で、赤ん坊に、癒され、たっぷり滋養を得た1日となった。

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