最近、妻の脚が弱ってきている。歩行は長い距離は無理だし、立ち上がりや座るのも一苦労している。家事は我慢しながら、こなしているが、脚に負担のかかることは、できるだけ代わってしようとするが、自分でしたことに責任を感じているようで、なかなかさせたがらない。老人の二人住まいは、どこか不自由が出てきたときはじめて、本当の生きかたが試される。
脚力尽くる時、山更に好し
限り有るをもって窮まりなきを趁う莫れ
蘇軾は1073年、杭州の副知事であったとき、近郊を旅して臨安の西の玲瓏山に登った。名の示す通りの美しい山である。双耳をなす二つの峰は、青龍が向かいあっているようであり、九折巌は痩せた背骨のようにどこまでも曲がりくねっている。なかほどに三休亭があって、ここからは山の風に吹かれ、月を眺めるのにもいい場所である。詩句の意味は、歩き疲れて足やももに痛みを覚えるとき、高山の景色はひときわうつくしく、我身に迫ってくる。限りある身であれば、なにも無窮を求めてしゃにむに歩くことはない。ここからの景色を堪能しようというほどの意味だ。
自分の山登りは、今では脚力に合せた山選びから始まっている。蘇軾のように、登り切れない山には登ろうとはしない。日々、ウォーキングをし、少しでも脚力の維持に努めている。妻の足を考えると、山を人生に置き換えてみるのもよい。いつまでも健康であった時だけを思うのではなく、人生のこの地点で立ち止まって、じっくりと辺りに目をむけると、そこにもまた素晴らしい景観が広がっている。そんなことを教えてくれる蘇軾の詩である。