常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

風について

2020年07月13日 | 日記
九州で集中的な豪雨である。昨日あたりからややその威力は弱まりつつあるが、まだまだ予断を許さない。その地域に住む人々の、風雨に対する恐怖は想像にあまりある。このような自然の暴走に対しては、人間の力は限りなく小さい。営々として住み慣れてきた家が、一夜のうちに水に流され、裏山の土砂に埋もれたりする。文明が高度の発展を見せている現代ですら、現実は高気圧や低気圧の発生に対して、変化が起きてくれることを祈る以外に、災害を避ける方法は見当たらない。

古代、人々が風や雷をどう考えてきたか、興味があるところだ。風は古代では、人々は目に見えない妖怪と考えていたようだ。山野を歩いて急に寒気がしたり熱が出たりすると、「トウリミサキ行き会った」とか「ミサキカゼに会った」とその原因を風にあると考えた。「ミサキ」とは御先で神を先導するものであった。八咫烏や狐もこのミサキの仲間で、古事記では神武天皇を先導したのは八咫烏である。

ミサキは大きな神から離れ、さまよえる精霊として山野で行き会う人にタタリをするようになる。旅をする人々に恐れられ、やがて不慮の死を遂げた死者の霊もミサキとして恐れられ、埋葬し供え物を祀られるようになった。「梁塵秘抄」で「丑寅みさき怖ろしや」と唄われたのも、このミサキである。

海荒れもまた人々を恐れさせた。北西の風が激しく吹きつのり、海面は荒れて泡立つ。いわゆる「お忌み荒れ」である。セグロウミヘビが砂浜に打ち上げられることがある。人々はこれを龍蛇神として、尊崇の対象になった。この蛇を三宝に乗せて、神殿に供えるは、出雲の神在祭の儀式である。人々は、自然の変異をただ神のなせることと考え、神殿でお祈りをしてタタリから逃れようとした。
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