
昭和55年ころ、住んでいたアパートの周りは田圃で、夏の夜に夕涼みがてら散歩をすると蛍が稲の茎に止まって光っていた。田がなくなり、家が立ち並ぶようになると、蛍はいなくなった。思い出して見に行きたいと思うと、小野川温泉の蛍祭りにいくか、蔵王ダムのキャンプなどでしかお目にかかれなくなった。
夏目漱石の俳句に蛍を詠んだものがある。
かたまるや散るや蛍の川の上
蛍合戦というのを知らないと、この句の面白さは分からない。広辞苑には、蛍が交尾のために入り乱れて飛ぶこと、とあるが、源頼政の故事による蛍合戦も見逃せない。源頼政は平家追討のため以仁王を奉じて挙兵したが、宇治で破れ自害した(1180年)。
その命日が旧暦の5月26日であるが、この日源頼政の亡魂となった蛍が集まって戦いを挑む。大きいのが源氏蛍、小さいのが平家蛍で源平の合戦を再現する蛍合戦だ。
源平の合戦は、義経、頼朝らのヒーローを生み出しつつ、日本の社会に大きな影響をもたらした。学校の運動会で赤、白に別れて戦うのも、紅白歌合戦がいまだに大晦日の国民行事になっているのも、この名残である。
一つすうと座敷を抜ける蛍かな
明治28年、松山に中学校教師として赴任していた漱石のもとに正岡子規が同居して、句会を主宰していた関係で俳句をつくることに興味を覚え、盛んに句作に精をだしていたころであった。この俳句は2句とも明治29年の作である。漱石は松山から東京へ帰った子規へ句稿を送って批を仰いでいた。
庭で蛍を捕らえて、蚊帳のなかに放して、光るのを見た経験を持つ人も多いだろう。それほど、蛍は日本人の生活のなかに深く入り込んでいた。
宮本輝の小説『蛍川』は、父を亡くした少年が母と淡い恋心を抱く同級生の少女を誘って叔父に連れられて蛍狩りに行く場面がクライマックスである。その蛍は、見ている人のこれからの人生をを暗示するように乱舞していた。
「せせらぎの響が左側からだんだん近づいてきて、それにそって道も左手に曲がっていた。その道を曲がりきり、月光が弾け散る川面を眼下に見た瞬間、四人は声もたてずその場に金縛りになった。まだ五百歩も歩いていなかった。何万何十万もの蛍火が、川の淵で静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いたおとぎ絵ではなかったのである。
蛍の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら舞いあがっていた。
四人はただ立ちつくしていた。長い間そうしていた。」
こんな光景がかつての日本のなかにあった。小説の世界ではあるが、作家はこの感動的な光景を現実に目にして、小説のクライマックスに据えたのであろう。日本から蛍の姿が少しづつ消えていく。死ぬ前に一度、こんな感動的な光景を目にしてみたいものだ。