狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

チャンピオンと悟性

2024-08-03 02:20:36 | Weblog

なるほど。
チャンピオンを目指す人はチャンピオンになった自分を夢見て修行に励む。
いざチャンピオンになると、「それまで見てきた自分」が自分になる。
通常の自己俯瞰と考えるものと順序が逆になっているが、これはこれで悟性となるのだろう。

医者。
一般に、患者の命と向き合う。 救急救命でなくとも患者の生活と向き合う形となる。
身内か自分に問題があるまで悟性とならないような気もするが。

政治家。
一昔前の王権者は貴族の醜さを見ていた。 平民と貴族の関係に自分と貴族の関係を重ね合わせていた。
近代になって選挙制度が出来た。 平民が投票し、醜い政治家らが王であり貴族であるようになった。
最近だとYoutuberなる職業も出来た。

なるほど。 近代とは悟性人量産体制ではある。 個々のそれを、うーん。
筋道はあるわな。
気になるのは効率と大量の非悟性人。
後者は順番待ちと見てよいと思うが、順番待ちをしている意識はない。 彼らは悟性人を目指しているわけではなく、エサにつられているだけ。
効率の悪さは、暗い自分を見下ろして始めて悟性となる。 心構え、前準備のなさがこのろくでもない結果となっているのではと。

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禅問答を検索、目についたものを考えた。

2024-08-03 01:27:23 | Weblog

禅問答って何? その意味と知られざる成立過程と例話をご紹介
https://www.zen-essay.com/entry/zenmondou

ここの真ん中らへんの。

> 第三十二則 定上座臨済に問う
> 
> 定上座、臨済に問う。如何なるこれ仏法の大意。済、禅床を下って擒住し、一掌を与えてすなわち托開す。定、佇立す。傍僧云わく、定上座、なんぞ礼拝せざる。定、礼拝するにあたって、忽然として大悟す。

ここ数日、れが引っかかってた。 で考えた。
1 何故臨済は胸ぐらを掴んで張り手をし、突き飛ばしたのか
2 修行僧は礼拝の中で何を得たのか

これに深淵の目を当てはめると、1の答えは「なんとなく」である可能性が高く(もちろん深い考えと経験則からの可能性もあるが)、2は、突き飛ばされ理解不能な自分を見た、である。
突き飛ばされ、諭され、ひれ伏し、混乱の中自分を見た。 そこに、自分を見る上位者を見た。 こうなる。
この場合、直接的に彼に悟性を与えたのは臨済ではなく「何故礼拝しないのか」と問うた別の僧である。

このモデルが正しいとして、なんで上手くいったんだ? いやまあ、質問、場作り、叱責のような何か、ひれ伏しまで全部神の手による、が答えではあるが。

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