「無為の善」と置く。 好きな対象を見出し、これに好意を向ける。 人と人との関係ならば「良くしよう」とする動きがある。 これが善なのだとすると。
逆もある。 「ハツカネズミと人間」のパターンだな。 何も知らない幼い子にハツカネズミを与えたとする。 まあまず死なせてしまうだろうな。
赤ん坊がアリを見る。 興味を持つ。 手を出す。 出された手を避けきれなければアリは潰されて死ぬ。 これは善か悪か、と言われれば、結果は悪だが善悪は問えない、とする。 ただし、である。 赤ん坊当人にとってそれは好ましい結果なのか。 興味をもったアリはもういない。 動かない物体となった。 これを「好ましくない」とする向きもあるだろう。
「無為の善」と置いて出てきた「好意の行為」が好ましい結果となるには天文学的確率で悪い結果を避けられたか、あるいは経験から得た知識で悪い結果を避け続けたかのいずれかである。 たまたま避けれた状況がまず無いものだとするとこれつまり、「無為の善」に真に該当するのは内面的な好意の初動だけでありそれに続くものは特に善ではなく、通常それに続く行為が好ましい結果となるためには膨大な量の経験と知識を必要とする、となる。
そしてこの「好意の善行」をひっくり返すしたものが無関心である。 また、「好意の善行」には「見返りの好意」が期待できると。 他人に対する行動が好ましいものであったかどうかの判断基準が一般にこの「見返りの好意」だが、こうなってくると善行悪行ではなく利益不利益の話になってくる。
「経験の悪」と置く。 これは他人が不利益を被る状態が自身の利益となる経験を繰り返した結果、積極的に他人の不利益を求め喜ぶようになったもの。 悪い側の人間関係ではこれが日常である。
逆に、「経験の善」もある。 これは「経験の悪」の側の行動が結局は、自分自身も含めた大勢の不利益となるだろうという経験則によるもの。 ただし、これも利益不利益を基準としている都合、結果の好悪であり意思の善悪ではない。 公益の善行ではありまた「自身の悪意を避けた」ものではあるが、内的な善を意味するものではない。
「公正の善」。 「好意の行為が好ましい結果となるには経験と知識が必要」とした。 例として、観光に来た家族を宿泊させるホテルマンを考えてみる。 ホテルマンがホテルマンとして為すべき事としては、その家族一人一人の欲求に応えるよりもその人間関係、親の仕事事情も含める必要があるかもしれない、を壊さないようにする事を優先する必要があるとする考え方がある。 これはあちこちの職場で要求されたりするな。 もっとも、多くの場合は職場の強者が職場の弱者に対し、自分に良くしろと要求する形でだろうが。 別の考え方と、してこれらは不正行為であるとするものもあると。 AがBの人間関係まで配慮した行動を、積極的に取るのがホスピタリティであり、敢えて為さずBがホスピタリティに優れた人間であるかのように演出するのがメンツの配慮。 ホテルマンを例として挙げたのは「配慮」までが職分であると看做される事が多いからであり、職分であると明示されている場合は、不平等ではあるかもしれないが不正ではない。
「配慮しない」というのはどうだろうか。 「決められた仕事」と「直接要求されたもののうちで職分のもの」だけをする。 こちらの方が職業人としての公正な態度に近い。 なんせ、不正を避けている。
こうした「職分のみを為す公正さ」は社会が適切に機能している場合のみ存在する。 急病人に対し救護義務として救急車を呼びあとは無視する、といった行動パターンは救急車が来て急病人を介抱する場合にしか機能せず、そうでなければそれは病人を見捨てる好意となる。 転じて、「公正さの善」には社会を機能させる事、機能させる役割分担を維持する事が含まれる、となる。
この「役割分担の公正さ」と「好意の配慮」は別の価値観である。 真逆の価値観だ、と言ってしまってもいい。 前者は役割分担以上のものを為すべきではない、とするものであるのに対し後者は為すべきであるとするものである。 その人に公正さの善があるかどうかは社会を機能させようとしているかどうか、がありまた、好悪、利益不利益無関係に為すべきことを為そうとするかどうか、がある、となる。
「公正の善」を持つ目的は何かというと、様々な悪い結果の回避であり、大勢が悪い結果の回避を目指すようになる状況を求める事である。 ここで考える。 他人が「経験の善」を得る事は「公正の善」である。 では他人が「経験の悪」を積む事はそこに含まれるだろうか。 否だろう。 「教える」、場合によっては「排除する」までが公正。 「更生のために悪を為させる」は公正ではない。
逆もある。 「ハツカネズミと人間」のパターンだな。 何も知らない幼い子にハツカネズミを与えたとする。 まあまず死なせてしまうだろうな。
赤ん坊がアリを見る。 興味を持つ。 手を出す。 出された手を避けきれなければアリは潰されて死ぬ。 これは善か悪か、と言われれば、結果は悪だが善悪は問えない、とする。 ただし、である。 赤ん坊当人にとってそれは好ましい結果なのか。 興味をもったアリはもういない。 動かない物体となった。 これを「好ましくない」とする向きもあるだろう。
「無為の善」と置いて出てきた「好意の行為」が好ましい結果となるには天文学的確率で悪い結果を避けられたか、あるいは経験から得た知識で悪い結果を避け続けたかのいずれかである。 たまたま避けれた状況がまず無いものだとするとこれつまり、「無為の善」に真に該当するのは内面的な好意の初動だけでありそれに続くものは特に善ではなく、通常それに続く行為が好ましい結果となるためには膨大な量の経験と知識を必要とする、となる。
そしてこの「好意の善行」をひっくり返すしたものが無関心である。 また、「好意の善行」には「見返りの好意」が期待できると。 他人に対する行動が好ましいものであったかどうかの判断基準が一般にこの「見返りの好意」だが、こうなってくると善行悪行ではなく利益不利益の話になってくる。
「経験の悪」と置く。 これは他人が不利益を被る状態が自身の利益となる経験を繰り返した結果、積極的に他人の不利益を求め喜ぶようになったもの。 悪い側の人間関係ではこれが日常である。
逆に、「経験の善」もある。 これは「経験の悪」の側の行動が結局は、自分自身も含めた大勢の不利益となるだろうという経験則によるもの。 ただし、これも利益不利益を基準としている都合、結果の好悪であり意思の善悪ではない。 公益の善行ではありまた「自身の悪意を避けた」ものではあるが、内的な善を意味するものではない。
「公正の善」。 「好意の行為が好ましい結果となるには経験と知識が必要」とした。 例として、観光に来た家族を宿泊させるホテルマンを考えてみる。 ホテルマンがホテルマンとして為すべき事としては、その家族一人一人の欲求に応えるよりもその人間関係、親の仕事事情も含める必要があるかもしれない、を壊さないようにする事を優先する必要があるとする考え方がある。 これはあちこちの職場で要求されたりするな。 もっとも、多くの場合は職場の強者が職場の弱者に対し、自分に良くしろと要求する形でだろうが。 別の考え方と、してこれらは不正行為であるとするものもあると。 AがBの人間関係まで配慮した行動を、積極的に取るのがホスピタリティであり、敢えて為さずBがホスピタリティに優れた人間であるかのように演出するのがメンツの配慮。 ホテルマンを例として挙げたのは「配慮」までが職分であると看做される事が多いからであり、職分であると明示されている場合は、不平等ではあるかもしれないが不正ではない。
「配慮しない」というのはどうだろうか。 「決められた仕事」と「直接要求されたもののうちで職分のもの」だけをする。 こちらの方が職業人としての公正な態度に近い。 なんせ、不正を避けている。
こうした「職分のみを為す公正さ」は社会が適切に機能している場合のみ存在する。 急病人に対し救護義務として救急車を呼びあとは無視する、といった行動パターンは救急車が来て急病人を介抱する場合にしか機能せず、そうでなければそれは病人を見捨てる好意となる。 転じて、「公正さの善」には社会を機能させる事、機能させる役割分担を維持する事が含まれる、となる。
この「役割分担の公正さ」と「好意の配慮」は別の価値観である。 真逆の価値観だ、と言ってしまってもいい。 前者は役割分担以上のものを為すべきではない、とするものであるのに対し後者は為すべきであるとするものである。 その人に公正さの善があるかどうかは社会を機能させようとしているかどうか、がありまた、好悪、利益不利益無関係に為すべきことを為そうとするかどうか、がある、となる。
「公正の善」を持つ目的は何かというと、様々な悪い結果の回避であり、大勢が悪い結果の回避を目指すようになる状況を求める事である。 ここで考える。 他人が「経験の善」を得る事は「公正の善」である。 では他人が「経験の悪」を積む事はそこに含まれるだろうか。 否だろう。 「教える」、場合によっては「排除する」までが公正。 「更生のために悪を為させる」は公正ではない。