何故サヨクは中国北朝鮮を支持するようになったのか

2018-06-15 21:55:58 | Weblog
前回のテーマの続き、のようなもの。
の前に、金正男殺害事件と拉致問題の関係。

私は拉致問題内実の半分以上は麻薬密輸だ、としている。 北朝鮮の機関が主に日本海側に麻薬覚せい剤を陸揚げする。 その際に目撃者が殺される。 そうした被害者が拉致されたのかどうか判らないとしてカウントされていると。 何故麻薬密輸などをしていたのかは工作拠点維持強化のためであり、実際の破壊工作、日本の弱体化に役立つからでありと。 で、日本海側の大物政治家が田中角栄氏。 金回りが良かったり官僚の個人情報を大量に持っていたりした事で有名な人物だが彼のそうした権力源がそうしたものだったのだろうと見ていると。 彼と近しい政治家に訪朝団団長の金丸信氏、後継者っぽい位置にいる人物が訪中団の小沢一郎氏が居ると。
で、去年だったか殺された金正男氏だが彼が麻薬覚せい剤貿易取り纏めだ、なんて言われてたりもするのね。 つまり北朝鮮側から拉致問題を麻薬問題として捉えて見たとすると、金正男氏の殺処分は一つの筋で、「拉致問題は解決済み」と発言する根拠となり得ると。 拉致被害者とされる人たちを殺したのはコイツの責任です。 責任者はこちらで始末しました、と。 金正男氏を「主権国家をバックに持った麻薬マフィアのボス」とするとインドネシア当局(おそらく警察ではなく諜報機関の方)には事前になんらかの形で話が通っていた可能性もあるわけだ。
さてこの筋で行くと、北朝鮮が「拉致問題の手打ちは成った」とする筋は、一応はあるわけだ。 だがこれで問題が全て解決するか、というとそうでもなく。 当然
・拉致被害者家族への説明は誰がするの? 日本の側では推測は出来てもネタは無いぞ
・北朝鮮にまだ生き残っている拉致被害者とされる日本人の帰国は?
・そうした死者を「戦争の犠牲者」に数えるのは常だが朝鮮戦争当時主権が制限された状態だった日本への攻撃がそれにあたるのか
・主権国家に対し「マフィアの手打ち」を示す事は外交上の非礼にあたる

といったものが残ると。

表題の。 何故サヨクは、に移る。
考える人が社会問題を指摘するとそうした言葉を叩きネタに利用し利用とする人間が雨後の筍の如く出てくると。 これがサヨクだわな。 すでに多くの人がこうした結論に至っており、そのあたりに付け加えるものはほとんどないと来た。 労働問題もそうなったし反差別もそうなった、自然環境保護もそうなった。 何年も前から「アメリカの黒人運動が過激なものではなかったとしたら差別意識は今頃アメリカ人の差別意識は過去のものとなっていただろう」と言われてきたがまさにその通りで、左翼活動は問題の再生産になっていると。

サヨクはヘイトで動いているだけの糞である。 社会問題を考える人とサヨクってどう見分けられるのかな?というのを考えてみると。
で、社会問題を考える人の特徴、サヨクと異なっている点はこの辺かな、といったものを書く。
・社会問題を被害状況に応じて捉える
・あちこちの問題を順次取り上げる
・社会問題を挙げてから名指しをする事はあるが名指しありきではなく、状況変化で名指しを取り下げる事もある
・自身に権威は必要ない、それもまた社会悪だとする
・「集団が善だ」とする事を悪だとするが、「集団、多数派が悪だ」とはせず大小と善悪は無関係だとする

こんな所だろうか。

社会問題を考えるかどうかとは直接関係がないが、その人の内面を現わすものの一つがペットだと思う。 他には家や車などもあるか。 保護を必要とするだろう動物なんて身近にいくらでもいるだろう、そういった話。
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文学作品中の毒人間、毒社会の現実に対する影響、結果

2018-06-15 18:04:35 | Weblog
ああ鬱陶しい。

さて、最近Youtubeなどに転載された「毒親」「膿家」「村社会」などと称される、創作実話を視たりする。 いや以前からネットのニュースヘッドラインなんかに顔を出したりしているのを読んだりはしていたのだが、で、思ったと。 文学って基本これだよな、と。
ふと思いついたのが「路傍の石」で、あとなんかあったけな?と考えて何か浮かんで、「Buddy」(ナイジェル・ヒントン)、さらに考えて何か浮かんで消えて、「ハツカネズミと人間」だったか?
対比として置くのが「阿Q正伝」。

文学作品と文学形式の思想書とでは訴え方が違う。 後者は「お前は変わらないのか?」という問いかけであるのに対し後者は、「社会の悪に対し傍観者であれ」としている。
社会に対する作用。 思想書群は直接的だわな。 毒社会を殲滅するよう訴えかける。 対する文学書群は、毒社会を温存するよう訴えかけている。 暗に。 文学書群は似たような被害に遭っている当人が、逃げ出す契機にはなりそうである。 また、好事家が逃げた被害者を匿う状況を、作りやすくはするだろう。 だがそれ以上は踏み込まない。
思想書群は「毒社会を殲滅せよ」と訴えかけている。 一歩踏み込んでいる。 そういう意味で、同義面・原則的には文学書群の方が正しい在り方だ、と言える。 「当人が逃げる、もの好きが匿う」で十分だとしていて、これは自由選択の原則に沿っている。 思想書群は「善悪不明だがやる」領域にまで踏み込んでしまっている。

じゃあお前ならどちらを選ぶ?と問われれば「私なら思想書を著す」とする。
後に私が善悪となるのだろうな。
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