嘲りは悪、ポリコレも悪

2018-06-12 16:17:04 | Weblog
「デリカシーってなんだ?」といった問いの答え方はいくつかあるだろう。 言葉の定義をそれとする。 作られた経緯を説明する。 使われ方を説明する。 使う人たちを示す。
デリカシーとは、正直者に嘘つきになる事を強請する、同調圧思想である。 自分の、自分たちの持つコンプレックスに阿らないモノに対し「お前にはデリカシーが無い」と言い批難する。
現代社会の国際秩序、第二次世界大戦後のそれは、「ユダヤ・デリカシー」で出来ている。 彼らは悪魔として人々に嘘つきになる事を強要し、キリスト教社会の半数が彼らの利益を享受している。 「リベラルなドイツ」がその筆頭だな。 私は彼らにこれを、解体するよう勧告している。

「嘲りは悪である」と置く。 大半の人がこれに同意する、あるいはしぶしぶ認めるだろうと思う。 同時に、嘲りは娯楽である。 現代社会、というより古今東西人類社会最大の娯楽であった。
「ポリコレ、ポリティカル・コレクトネスは嘲りを禁ずるものである」と置く。 これは嘘である。 ポリコレとは嘲りの一部を禁止とする事で他を無罪とし、またポリコレ対象者に対する嘲りを善とするものである。 「嘲りを悪」とするのが原則であるならば、全ての嘲りが悪の側にあるとしなければならず、「多くは悪ではなく(任意に決められた)一部は善である」とするそれも悪である。

嘲りがどこまで、どの程度悪であるかどうかは多少の幅がある。 だがポリコレが悪である事には幅が無い。 というのも、ポリコレの構造自体が「嘲りは悪である」としながら「自分がする嘲りは善である」となっているから。

さて私がする事を「女叩きだ」とする向きも多いと思う。 実際私にとっても、私が女、女たちの文化、行動様式について書く事の内「これは女叩きに属するな」と思うものと「実はそうではない」とする者とが半々くらいだ。
ではだ。 私は悪を為しているのだろうか。 これについては「昨日した事については不明」が答えとなる。 毎日そう。 というのも、私の基本姿勢の一つが「待ち」だから。 結果を見て進めるか引き返すかを決める。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする