☆感動した。
・・・知ってる気になって知らないものがある。
『クレヨンしんちゃん』は私にとって、そういうものだった。
『ドラえもん』ならば、私が子供の頃からテレビでやっていた。
だが、子供に人気の『クレヨンしんちゃん』が始まった時には、私は、もう大人になっていた。
私が愛読していた雑誌『映画秘宝』などでは、この『しんちゃん』映画シリーズは、すこぶる評判が良かった。
私は、「へーっ、しんちゃんは、大人の鑑賞に耐え得るものなんだあ」などと思いつつも、見る機会がなかった。
テレビシリーズやマンガも、一度か二度しか見たことない。
でも、メディアへの露出は高かったので、私は知った気になっていた。
今回、小さな豆甥っ子と豆姪っ子を、映画館に連れて行き、私は夢中になって見た。
『超劇場版 ケロロ軍曹3』と同じパターンだった。
# # # #
今回は、他次元の世界ドン・クラーイの支配を目論む悪者(名前忘れた)から狙われることになった勇者しんちゃんが、ドン・クラーイと春日部の平和を守るために戦う物語だ。
最初、明らかに「ナウシカ」とか「ラピュタ」のパロディらしいタイトルバックが流れ、私一人で笑った。
物語は、野原家の日常が延々と描かれる。
しかし、夜になると、夜にしか現われないドン・クラーイの使者がしんちゃんに接触を試みる。
二日ほどで「日常」は終わり、大冒険ギャグ活劇が始まるのかと思いきや、三日、四日、五日と日常が続く。
ただ、しんちゃんだけが、夜、ドン・クラーイの悪者たちに、得体の知れない怖い思いや、なんとも不可思議な目に遭わされる。
◇ ◇
・・・夜・・・。
寝るタイミングを失った子供にとっては、永遠とも思える静寂の時間である。
しんちゃんは、真っ暗な台所で、開け放った冷蔵庫からの明かりの中で、ジュースを飲んだりしてエンジョイする。
それだけで大冒険だ。
家の外などは、未知の世界で、出て行こうとさえ思えないだろう。
しかし、しんちゃんは出て行く。
油絵の具を塗りたくったような遠近法を失った世界が広がっていた。
そして、そこには、なんか「大人の世界の含みをもった男」が待ち受けていた。
男は、大人の世界の絶対価値観「カネ」を振りかざし、歌い、踊り、
メフィラス星人よろしく、子供のしんちゃんから、「世界を譲る」とでもいう<言葉>を得ようとする。
しかし、しんちゃんは、屈託なく拒絶。
この拒絶、ちょっと「千と千尋」っぽかった。
こんな風に、しんちゃんは、夜になると、異世界の怪人と遭遇する。
しかし、家族に話しても、幼稚園の友だちに話しても、園長先生に話しても、信じてもらえない。
しんちゃんはしんちゃんなので、マイペースなのだが、なんとも、孤立していくのだ。
見事な展開である。
子供の感じるいい知れぬ外界への不安感は、大人になった今の私だからこそ分かる。
私は、夏休みに配られた学研の「読み物」の中に数篇含まれていた怖い話や、学校図書館にあった「ぼくのまっかな丸木舟」なんて作品を思い出す。
映画の途中の館内で、どこかの女の子が「怖いよ~」と呟いていた。
感受性のある子である。
当たり前である。
この作品はそういう作りである。
◇ ◇
しんちゃんの能天気さで誤魔化されているが、子供が巻き込まれる犯罪の暗喩に満ちていた。
特に、しんちゃんは、何度も、訳分からない大人の怪人に追いつめられて、パニック状態になり、「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」と連呼する。
私は、それを見ながら、「うへっ!」と思った。
◇ ◇
この作品には、ドン・クラーイの世界から、しんちゃんの助けになる少女も現われる。
マタという名前の女の子は、外見は短髪で、男の子と区別がつかない。
・・・世にロリコンという存在がいる。
俗に、ロリコンは美少女が好きだと思われようが、違うのである。
真のロリコンは、マタのように元気いっぱいの、男の子か女の子か分からない明るい華奢な少女が好きなのである。
しんちゃんは、男かと思っていたマタの胸をはたいてはじめて女だと知り、衝撃を受ける。
その瞬間、マタが「女の子」にしか見えなくなるのだ。
いい展開である^^
とある夜は、しんちゃんに怪人の来訪はなく、野原家の前の電柱の突端で、マタはホッと一安心・・・、そして、ミュージカルっぽく、歌いだすのだ。
かわいい、かわいい、たまらない^^
◇ ◇
物語の最後、マタは、しんちゃんにキスをしてさり気なく去っていく。
・・・子供時代は、ゆったりとした永遠にも近い日常の繰り返しである。
子供は、それを享受し、遊んでいる。
『ドラえもん:のび太の宇宙開拓史』では、そんな子供時代に、「どうにもならない断絶」が存在することをそのクライマックスで知らしめてくれていた。
次元の歪みで繋がっていた地球ののび太の部屋と、どこでもドアさえ届かない宇宙の彼方の星コーヤコーヤが、かけがえのない交流をしていたにもかかわらず、離れ離れになってしまうのだ。
『千と千尋の神隠し』では、異世界から去る千尋に、異世界の住人・坊が「またね~^^」と言い、私を安心させてくれた。
『しんちゃん』のエンディング、マタとの別れのシーンは、しんちゃんが、「マタ、またね~^^」とは言うが、さり気なくも「どうにもならない断絶」が描かれていたように思う。
とても、ノスタルジックな気分にさせられる作品だった・・・。
(2008/04/21)
・・・知ってる気になって知らないものがある。
『クレヨンしんちゃん』は私にとって、そういうものだった。
『ドラえもん』ならば、私が子供の頃からテレビでやっていた。
だが、子供に人気の『クレヨンしんちゃん』が始まった時には、私は、もう大人になっていた。
私が愛読していた雑誌『映画秘宝』などでは、この『しんちゃん』映画シリーズは、すこぶる評判が良かった。
私は、「へーっ、しんちゃんは、大人の鑑賞に耐え得るものなんだあ」などと思いつつも、見る機会がなかった。
テレビシリーズやマンガも、一度か二度しか見たことない。
でも、メディアへの露出は高かったので、私は知った気になっていた。
今回、小さな豆甥っ子と豆姪っ子を、映画館に連れて行き、私は夢中になって見た。
『超劇場版 ケロロ軍曹3』と同じパターンだった。
# # # #
今回は、他次元の世界ドン・クラーイの支配を目論む悪者(名前忘れた)から狙われることになった勇者しんちゃんが、ドン・クラーイと春日部の平和を守るために戦う物語だ。
最初、明らかに「ナウシカ」とか「ラピュタ」のパロディらしいタイトルバックが流れ、私一人で笑った。
物語は、野原家の日常が延々と描かれる。
しかし、夜になると、夜にしか現われないドン・クラーイの使者がしんちゃんに接触を試みる。
二日ほどで「日常」は終わり、大冒険ギャグ活劇が始まるのかと思いきや、三日、四日、五日と日常が続く。
ただ、しんちゃんだけが、夜、ドン・クラーイの悪者たちに、得体の知れない怖い思いや、なんとも不可思議な目に遭わされる。
◇ ◇
・・・夜・・・。
寝るタイミングを失った子供にとっては、永遠とも思える静寂の時間である。
しんちゃんは、真っ暗な台所で、開け放った冷蔵庫からの明かりの中で、ジュースを飲んだりしてエンジョイする。
それだけで大冒険だ。
家の外などは、未知の世界で、出て行こうとさえ思えないだろう。
しかし、しんちゃんは出て行く。
油絵の具を塗りたくったような遠近法を失った世界が広がっていた。
そして、そこには、なんか「大人の世界の含みをもった男」が待ち受けていた。
男は、大人の世界の絶対価値観「カネ」を振りかざし、歌い、踊り、
メフィラス星人よろしく、子供のしんちゃんから、「世界を譲る」とでもいう<言葉>を得ようとする。
しかし、しんちゃんは、屈託なく拒絶。
この拒絶、ちょっと「千と千尋」っぽかった。
こんな風に、しんちゃんは、夜になると、異世界の怪人と遭遇する。
しかし、家族に話しても、幼稚園の友だちに話しても、園長先生に話しても、信じてもらえない。
しんちゃんはしんちゃんなので、マイペースなのだが、なんとも、孤立していくのだ。
見事な展開である。
子供の感じるいい知れぬ外界への不安感は、大人になった今の私だからこそ分かる。
私は、夏休みに配られた学研の「読み物」の中に数篇含まれていた怖い話や、学校図書館にあった「ぼくのまっかな丸木舟」なんて作品を思い出す。
映画の途中の館内で、どこかの女の子が「怖いよ~」と呟いていた。
感受性のある子である。
当たり前である。
この作品はそういう作りである。
◇ ◇
しんちゃんの能天気さで誤魔化されているが、子供が巻き込まれる犯罪の暗喩に満ちていた。
特に、しんちゃんは、何度も、訳分からない大人の怪人に追いつめられて、パニック状態になり、「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」「ぼく、ノバラシンノスケ、五歳・・・」と連呼する。
私は、それを見ながら、「うへっ!」と思った。
◇ ◇
この作品には、ドン・クラーイの世界から、しんちゃんの助けになる少女も現われる。
マタという名前の女の子は、外見は短髪で、男の子と区別がつかない。
・・・世にロリコンという存在がいる。
俗に、ロリコンは美少女が好きだと思われようが、違うのである。
真のロリコンは、マタのように元気いっぱいの、男の子か女の子か分からない明るい華奢な少女が好きなのである。
しんちゃんは、男かと思っていたマタの胸をはたいてはじめて女だと知り、衝撃を受ける。
その瞬間、マタが「女の子」にしか見えなくなるのだ。
いい展開である^^
とある夜は、しんちゃんに怪人の来訪はなく、野原家の前の電柱の突端で、マタはホッと一安心・・・、そして、ミュージカルっぽく、歌いだすのだ。
かわいい、かわいい、たまらない^^
◇ ◇
物語の最後、マタは、しんちゃんにキスをしてさり気なく去っていく。
・・・子供時代は、ゆったりとした永遠にも近い日常の繰り返しである。
子供は、それを享受し、遊んでいる。
『ドラえもん:のび太の宇宙開拓史』では、そんな子供時代に、「どうにもならない断絶」が存在することをそのクライマックスで知らしめてくれていた。
次元の歪みで繋がっていた地球ののび太の部屋と、どこでもドアさえ届かない宇宙の彼方の星コーヤコーヤが、かけがえのない交流をしていたにもかかわらず、離れ離れになってしまうのだ。
『千と千尋の神隠し』では、異世界から去る千尋に、異世界の住人・坊が「またね~^^」と言い、私を安心させてくれた。
『しんちゃん』のエンディング、マタとの別れのシーンは、しんちゃんが、「マタ、またね~^^」とは言うが、さり気なくも「どうにもならない断絶」が描かれていたように思う。
とても、ノスタルジックな気分にさせられる作品だった・・・。
(2008/04/21)