大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

大雄山最乗寺

2014-11-02 | 小田原

小田原から最乗寺の麓、関本まで参詣鉄道が開通したのが大正14年(1925)のことで、小田原大雄山間の運賃が二十八銭と当時としてはかなり高額だったようである。
 
最乗寺は40年ほど前にここを訪ねてみごと花粉病になった因縁のお寺さんで、今回は登ることが出来なかった奥之院や松平直基のお墓と子育ての狛犬も訪ねるのが目的で、これ以上、花粉病が酷くならないよう願いながら訪ねた。
大雄山駅から約1kのところに仁王門、さらにここから最乗寺三門まで約2kの道程がある。道程も記憶と違い、かなりの急こう配の坂道で小学生が隊列を組み登っていたが何処まで行くのだろうか、大変そうだった。朱色の仁王門には「最乗寺専門僧堂」と「東海法窟」の額が掲げられている。
  
新編相模国風土記稿には「曹洞宗、應永元年(1394)起立す、開山了庵は当国大住郡粕屋庄の人なり、名は慧明、了庵は其号なり。道了は舊了庵の徒弟たり、寺伝に無双の大力にして当山を開く時、師に力を合せ、一人にて大木大石を除き、其功少からず、又師の為に当山の請願を発起し慶永十八年、遂に天狗となりて山中に住せり。奥ノ院、道了社より八町を登り、深林の内にあり、十一面観音を安置す、道了の本地仏なり」とある。
タクシーを使うと境内の庫裏にある受付まで直接乗り入れることが出来るようだ。
 
境内広場の中央が朝晩の勤行や当山山主が修行僧に対しての説法の場である本堂でその左隣が開祖了庵慧明禅師尊像等、歴代住持霊牌を祀る開山堂となっている。早い時間だったので境内に観光客も少なく、靄がかかり幽玄閑寂の世界に入り込んだとおもったら、境内で落葉を燃やした煙だった。
 
  
開山堂隣の鐘楼の脇に徳川家康次男、松平(結城)秀康の五男にあたる松平大和守源朝臣直基の墓がある。「直基の墓が大雄山最乗寺に建立されたのは、時の権力者である徳川将軍家と大雄山最乗寺との関係の深さもさることながら、直基自身が大雄山最乗寺に対する信仰が深かったことに由来すると考えられています」寛文十年(1670)、姫路の書寫山圓教寺に分骨されたとも南足柄市教育委員会の説明にあった。
 
損舘佛性院殿鐡関了無大居士神儀

姫路の書寫山圓教寺
 
結界門をくぐり石段を登る守護妙覚道了大薩をご本尊に大天狗・小天狗が両脇侍として祀られている御真殿に着く。ここには多宝塔、関東三十六不動の第二番の札所で清瀧不動尊が祀られている不動堂を通っても行くことが出来る。
 
 
 
大杉に囲まれた350段余りの急石段を登ると大雄山で最も高い所に御本地十一面観世音菩薩が奉安されている奥之院がある。ここの石段はきつく膝がガクガクになりながらやっと登った。
 
箱根明神・矢倉明神・飯沢明神の三明神が一体に刻まれている三面大黒天を奉安している三面殿のまえに珍しい子供を抱えている「子育ての狛犬」を見つけた。全国でも珍しい狛犬という事で若い女性に人気があるらしい。
 
曹洞宗のお寺にしてはパワースポットめぐりのサイトも掲載していて古刹にしては開けた感じのするお寺さんだった。

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