大佗坊の在目在口

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大磯(善福寺)

2016-02-12 | 小田原

大磯と平塚の境を流れる花水川の傍に親鸞聖人常随の高弟で関東六老僧の一人、平塚入道了源上人創建の龍頭山華水院善福寺がある。寺傳によれば了源は曽我十郎祐成の子で祐若であるという。新編風土記稿では「了源、伊東入道祐親二男、九郎裕清が子にして、裕清木曽義仲の為に討死の後、外祖狩野介に養はれ、伊東四郎祐光と称す」とあり、伊東祐光は伊豆伊東祐親の次男・伊東九郎祐清の子で曽我兄弟とは従兄弟の関係だという。
 
 
平塚入道了源は延応元年(1239)には壗下(まました)(現・南足柄市壗下公民館)にも草庵を結び阿弥陀堂を建立した。当初、この阿弥陀堂は七軒門徒が中心に護持をしていた。大磯山下にあった善福寺が小田原北条氏による一向宗(浄土真宗)の禁制により打ち壊しとなったため、寺基が阿弥陀堂のある壗下に移され相州西之坊善福寺としたと伝わる。
 
東京の麻布にも善福寺がある。ここも了源が開基したお寺かとおもったら、ここは同じ関東六老僧の一人、了海が開基だった。
 
 
麻布山善福寺に福沢諭吉の墓所があるが、相州西之坊善福寺には福沢小学校開校之場(明治三十四年十月十九日開校)の碑があった。明治二十二年の町村合併の折、近くの六ヵ村が集まり、此の地と深い繋がりのある福沢諭吉の承諾を得て、福沢村として、ここに小学校を開設したという。
 
福沢諭吉の親交のあった三田の龍源寺の住職が、明治九年、六十五歳で隠居して、千津島の臨済宗天福寺に住職として移住し、諭吉は度々この寺を訪れたという。山門は小田原城家老職・大久保忠衛の屋敷門を移築したものという。
寺の裏側の小山にある範茂史蹟公園に承久の乱で敗れた後鳥羽上皇側の公卿で近くの川で入水した藤原範茂の墓があった。
 
 

承久記に範茂時世の歌が載っている。
思いきや 苔の下水 せきとめて 月ならぬ身も やどるべきと

さらに風土記稿は大谷遺跡録に「曽我祐成が子と云、三浦郡東浦賀乗誓寺の傳記にも、祐成が子とし、母は大磯ノ虎女、童名祐若河津三郎信之と称すと見えて、其傳へ一定せず」と異説を載せている。東浦賀乗誓寺は開基を了源とし出家前の名を河津三郎信之としている。浦賀の乗誓寺には戊辰戦記「結草稿」を書き残した旧会津藩士、杉浦成忠の墓碑を探しに行った。お寺の説明に文明年間に了源によって平塚阿弥陀寺(平塚3丁目5、浄土宗)が浦賀に移り寛永十四年(1637)に乗誓寺となり、歴代住職は、世襲により継承されており、曽我兄弟十郎の子孫とあり、浦賀に曽我一族の子孫がいるとビックリしたのを覚えている。
 

大磯の善福寺境内に龍頭山と称する岩盤が露出した岩山があり、その斜面に10以上の横穴墓群がある。
 
近くの楊谷寺横穴墓群では七世紀初頭の土師器や後半代の須恵器が出土されており、善福寺横穴墓群も同時代に造られたと推定されている。東は花水川なのでここの横穴墓群はほとんどが西向きに掘ってあった。近くの高麗山の麓には楊谷寺谷戸横穴墓群、石切場横穴墓群、王城山横穴墓群と多くの横穴墓群が残されている。どんな人々が埋葬されていたのであろうか。

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