静岡の三島駅北口から真北約1.5kにある耳石神社にいった。
耳石神社は幸原地区の氏神で祭神は国狭槌尊、三嶋大社西側を北に甲州に向かう佐野街道の三島幸原より裾野伊豆島田に至る旧道に面し、耳病を治す神社として古くから知られている。
社殿の左右に石が置かれていて、向かって左側が古くからある耳石で、右側の石はバランスを取るために祀られ、三島の七石と呼ばれる石の一つだという。耳石はかなり大きな石で、富士山の爆発で飛んできたのだろうか。この神社には唯念の六字名号を探しに来た。本殿の後ろに馬頭観音を始め色々な石仏や墓石が並んでいた。
唯念六字名号塔
覚誉上人碑があった。
右 小田原の誓願寺本堂横の寛文五年(1665)建立の笠付行蓮社覚誉上人名号塔
石仏は明治になってからの神社合祀により一か所に集められたのだろうか。神社の鳥居に変わったしめ縄がかかっていた。棒状のしめ縄を初めてみた。耳石にかけてあったしめ縄は普通のヨリ(左綯い)で作ってあった。
境内に枯れたような大きな幹のスダジイの御神木があった。
御神木に静岡県神社庁の認定証の発行があるとは知らなかった。
三島駅に戻り、北口にあるという木食観正碑を探す。駅前にそれらしき碑はなかったが、google地図に、新幹線沿い約300m西側に小浜山刑場供養碑とあり、刑務所の塀沿いの道みたいな所を進むと四基の石碑があった。
右から南無妙法蓮華経(王澤日遥?)の題目塔、名号塔、妙法蓮華経碑、木食観正碑
市の説明に「「この石碑は、江戸時代三島代官所小浜山刑場で斬首の刑を執行したところに建てられていた供養碑である。刑場は宝暦九年、韮山代官所の併合の後も幕末に至るまでそのまま使用され、その後は葬祭場ができるまで火葬場としてその姿をとどめていた。供養碑は昭和四四年東海道新幹線三島駅の建設現場に当たり現在地に移転したものである。なお、旧位置は南方約40mの新幹線下り走行線付近と推定される」とあり、処刑場は幕末まで使用され、明治に入って跡地は一時期火葬場として使用されたという。木食観正は天明四年(1784)、三十歳で剃髪して仏門に入り、雨乞い、火伏せ、病気平癒などの、庶民の現世利益の要求に応える加持祈祷の行で、多くの信者を集めた。木食観正が三島に滞在したのは、文政二年(1819)の事だという。小浜山刑場の供養碑として木食観正碑が元から在ったのだろうか。
小浜山は富士山噴火の時、流れ出た溶岩流の末端の高まり部分で、三島駅の南側にある旧小松宮彰仁親王別邸の所有者が転々とした後、三島市が購入、公園となっている楽寿園から北口の三島北高校付近までを小浜山と言ったという。楽寿園の中に江戸時代に完成した数奇屋造りの様式を備え、京風建築のすぐれた手法を現在に伝える明治期の代表的な建造物の楽寿館がある。以前にこの建物の中で家人が敷居に足を突っ掛け、国宝級の襖を破きそうになって、冷や汗をかいた。しばらくの間、三島には立ち寄らなかった。楽寿園の南側、「小浜のみち」通りにある木食観正之碑を訪ねた。
昭和四十八年とある木食観正上人碑護持会の説明板に「過ぐる日偶然一部壊れた碑を発見、茲に、有志相計って再建安置し云々」とある。惜しいのは、何時、何所で、どのようにして見つけたのか、何も表示されていないのが残念だった。
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