母が死んで一年になる。
だから、納骨に行った。
長旅だった。
東京から島根県出雲。
長年の友人の尾崎がワゴン車を運転してくれた。
尾崎と我が家族4人。
日曜の夜は岡山に泊まった。
色々な場所に顔が広い尾崎の勧めで、その日は有名なラーメン屋でメシを食った。普段なら絶対に食わない1200円のラーメンを食った。
いつも食う390円のラーメンと違って、とても味は濃厚だった。魚介の味がはっきりとしたラーメンだった。満足した。幸せだった。
ラーメンを食って幸せになったのは、久しぶりだ。目の前に尾崎がいたからかもしれない。
岡山に泊まった次の日、朝早く出雲市内の寺に行った。
我が家の墓がある寺だ。
私の祖父と祖母、姉が納められていた。父はここにはいない。その理由は言わない。
祖父は日本画家だった。33歳で肺結核で死んだ。「生きていれば相当な画家になったのに」とよく言われた。だが、仮定の話をしても肉親には響かない。
「寿命だったのだから、運命と思うしかないです」と私が尊敬する祖母が、いつも言っていた。私もそう思う。
その祖母は、師範学校の教師をしていた。祖母の葬儀のとき、島根県からたくさんの教え子が東京に来てくれたことに驚いた。そのあと、夏休みに出雲で葬儀を開いたときも、呆れるほど多くの人が来てくださった。
祖母の偉大さを強く感じた。
姉は、中学高校を長期休学したあと、18歳から引きこもり生活に入った。そして、59歳で死んだ。
そんな姉の人生を、可哀想な人生だった、と思うことがあった。しかし、幼い頃から、姉とほとんどまともに関わったことのない弟が、それを言うのは自分を「人でなし」と言っているようなものだ。
私は、確かに人でなしだが、これ以上、人でなしになりたくはない。だから、もう言わない。
姉は、今だったら、きっと「発達障害」と言われただろう。本人も苦しかったはずだ。
ご住職には、半年以上前から連絡してあったので、朝から待っていてくださった。母の教え子の住職さんだった。
罰当たりな私は墓前に手を合わせせせなかったが、尾崎と家族は手をあわせた。
きっと母は幸せだったと思う。
長旅の2日目。
我々は、浜松市に泊まった。息子と娘は、有給を取っていた。
息子は、5年半の会社生活で初めて会社を欠勤した。
「でもさあ、会社休んでも給料がもらえるって、すごいよね。日本ってすげえな」と単純に喜んでいた。
浜松市の大きな墓地の前に来たとき、尾崎が「悪いな」と言って、車を降りた。
なんだよ、おまえ。
「俺の両親の墓があってな」
初めて聞く話だった。
尾崎の両親は尾崎が6歳のときに、事故で亡くなっていたのだ。
それ以来、東京中野で尾崎は母方の伯母に育てられ、若い時代を過ごした。優秀だった尾崎は、偏差値の高い私立高校に入学したが、2ヶ月足らずで辞めた。
「俺は、こんな学校にいちゃいけないって思ったんだよな」
それからの尾崎は、アンダーグラウンドの世界で暮らした。
「ヒモに近いこともしてきたし、後輩に家賃を払わせて、生活費をせびったこともあった。最低の男だった」
「でもな」と尾崎が両親の門前で言うのだ。
「俺を育ててくれたのは、間違いなくおまえの母さんだ。地下に潜っていた俺を24歳のとき、救い上げてくれたのは、おまえの母さんだ。
「俺が6歳のときから、ここに眠っている親よりも俺はおまえの母さんに恩を受けているんだよな」
「なあ、おまえの母さんは、なんで俺に、あんなにも優しかったのかな」
そんなことは知らねえ。
ただ、母が色々な人に優しかったのは事実だ。
本当に、あの人は優しかった。
なあ、尾崎、と私は言った。
おまえのご両親もきっと優しかったと思うぞ。俺の母さんに負けないくらいにな。
「ああ、そうかもな」
しかし、おまえのご両親の眠る寺を前にして、俺たちに素通りしろって言うのか。おまえは俺の母さんの墓前で手を合わせてくれたじゃないか。
なぜ、俺たちに、それをさせない。
俺たちを人でなしにするのか(私は人でなしだが)。
私が、どれほどの罰当たりでも、友人のご両親の墓の前では手を合わせた。
駿河湾の高台にある墓地だった。
寒かったが、墓地から見える景色に見とれた。
海が光っていた。
「悪いな、無理やり連れてきて」尾崎が言った。
「無理やりだったとしても、いい経験だったな。親のありがたさがわかる旅だったよ」と娘が言った。
私の右手を握った娘の手が、温かかった。
左手で抱いた尾崎の肩も温かかった。