リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

新年の告白

2018-01-07 05:35:00 | オヤジの日記

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 

年末年始は仕事。

1月3日まで慌ただしい日々を過ごした。

そして、4日の昼。長年の友人の尾崎から昼過ぎに電話があった。

「お嬢さんを連れて、バーまで来ないか」

尾崎が経営する中野のスタンドバーに娘と行ってきた。

午後4時にバーに到着した。

尾崎が一人で待っていた。

店は12月31日まで営業していて、年始は5日からだという。例年は4日からの営業だが、今年は5日。

バーをまかせているのは、尾崎の妻・恵実の弟だ。つまり、尾崎にとっては義弟。

義弟に昨年子どもが産まれたので、一日家族サービスの時間を多く与えたらしい。

普段は尾崎がカウンターに立つことはない。しかし、この日は立った。

最初に出されたのは、クアーズライトだった。

娘の気に入っているビールだ。

それを飲んでいるとき、尾崎が娘に紙袋を渡した。

「恵実からだ」

今年の春から会社勤めをする娘へのプレゼントだった。

ありがたい。恵実の気配りに感謝した。

娘も感激していた。

私にはまったくわからないのだが、フェリージというメーカーのバッグらしい。

 

なんじゃ、フェリージって?

何語やねん?

 

「俺もよくわからねえんだ」と尾崎。

ただ、見た目で、高価なものだということは想像できた。

ありがとうございます、と親子で頭を下げた。

 

そのあと、3人でカティサークを飲んだ。

飲んでいるとき、尾崎が突然饒舌になった。

尾崎は、高校を1年の1学期で中退し、それから10年近くアンダーグラウンドの世界で生きてきた。

その話をし始めたのだ。

どうしたんだ、尾崎、酔ったのか?

「酔っちゃいないが、今日は俺の両親の命日なんだ。なんか、心のケジメをつけたくなってな」

そのストーリーは、重くて新年の話題に相応しくないので、今回は書かない。いつか、機会があったら、紹介してみようかと思う。

 

尾崎の話を聞いた娘は、ショックを受けたようだ。

尾崎と娘は、私の父親の葬儀で、初めて顔を合わせた。そのときは、尾崎が放出する空気に圧倒されたようだが、それからのち3度尾崎と会うことによって、完全に免疫ができた。

今では「尾崎のおじさん」と呼ぶくらい親しみを感じている。

「お嬢がいるから」と尾崎が言った。尾崎は、私の娘を「お嬢」と呼んでいた。

「お嬢がいるから話せたんだ。おまえ相手だと照れるからな」

 

きっと尾崎は、前からそれを聞いてもらいたかったんだと思う。

ただ、私に直接語るには、生々しすぎて気が引けたのだろう。

その気持ちは、わからないでもない。

その尾崎の告白を受けて、今度は娘が「今だから言うけどな」と話し始めた。

「韓国に留学しただろ」(娘は大学三年の後期、半年ほど韓国に留学していた)

「最初の2週間は、大学の寮で晩ご飯を食べながら、毎日泣いていたんだよな」

初めて聞く話だ。

娘とは毎日Skypeのビデオ電話で会話をしていた。

「ホームシックなんて全然ないよ」と娘は言っていた。私は、その言葉を信じていた。いつも明るい笑顔だったからだ。

しかし、パソコンの画面に映らないところで、娘は泣いていた。

その事実は、私にとても大きなショックを与えた。

なぜ気づいてあげられなかったのだろう。

異国の地で、ひとりぼっち。韓国語も英語も完璧ではない。その中で、ひとり暮らすことが、どんなに辛いことか。

「大丈夫だぜ、キムチがあれば、ボクは元気だ!」

その強がりの裏にあるものを理解できなかった俺に、彼女の父親である資格はあるのか。

 

へこんだ。

 

そう思っていたら、尾崎が新しいカティサークのストレートを私の前に滑らせながら言った。

「お嬢は、お嬢なりに環境に適応しようとしたんだ。そのための涙だ。その涙が、お嬢を強くしたんだと俺は思う。その強くなる過程を、おまえはビデオ電話で見守ることで、さらにお嬢に力を与えたんだと俺は思っている。それが、父親としての役目だったんだ。おまえは、父親の役目を知らないうちに果たしていたんだよ」

 

娘もうなずいていた。

 

心の中に小さなわだかまりはあったが、娘と尾崎の目を見ているうちに、心が徐々にほぐれてきた。

俺は完璧な父親ではない。完璧な人間でもない。

だが、それは、誰もが同じだ。

娘の涙を想像できなかった私は、とんでもないバカ親だが、バカな親でもいないよりはいい。

 

俺は、このままでいいんだよな、と娘と尾崎に聞いた。

 

ありがたいことに、二人はうなずいてくれた。

 

 

まだ、しばらくは、バカ親父を続けようかと思った新年だった。