リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

アカペラで見送る

2017-09-03 06:29:00 | オヤジの日記

ヨメの大親友が死んだ。

 

高校3年間、同じクラスだった二人は、進学した短大も同じ、就職先も同じ大手の信販会社だった。

三人兄弟の長女だったナミエ。三人兄弟の末っ子のヨメ。しっかり者のナミエとお気楽なヨメ。

二人とも気が強いので、絶えず喧嘩はしたが、仲直りも早かった。つまり、強い絆を持った大親友だった。

私もナミエとは気が合った。

3人で、よく旅をした。

北海道函館、青森奥入瀬、仙台七夕祭り、草津でスキー、伊豆半島、富士山、黒部立山アルペンルート、上高地、岐阜高山、京都大阪神戸、北九州、奄美大島など。

私が27歳のときの正月、岐阜高山の本陣平野屋別館で、「なんで結婚しないの」とナミエに聞かれた。

もちろん、したい気はあったが、ヨメもヨメのご両親も巨大宗教の信者だった。ご両親が、自分の娘の夫には同じ信者を、と希望したので、大反対されたのだ。

「それなら、駆け落ちしかないね」とナミエが、仰天するようなことを言った。

 

愚かな私たちは、ナミエのその提案に乗った。

当時法律事務所に勤めていた私は、法律事務所のボスの弟さんが神戸で法律事務所を開いているのを知り、少し武者修行に出させてください、と非常識なお願いをした。ヨメが勤めていた会社は神戸に支社があったので、異動願いを出した。

神戸に駆け落ち。

ナミエは1か月に1度は必ず神戸に来た。そして、毎回、3人で有馬温泉月光園に泊まった。

その後、ナミエは、我々より2年遅れて結婚した。相手は信用金庫に勤めている人だった。

子どもは、男の子を3人授かった。

我々は、家族ぐるみの付き合いをした。

ナミエのところは、音楽一家と言ってよかった。

ナミエがピアノ。旦那が、マリンバ。長男次男がギター、三男もピアノが得意だった。

家族で、よくサザンオールスターズのコンサートに行っていた。

 

昨年の10月終わり、ヨメが、目を泣きはらして帰ってきた。感情の起伏が激しいヨメは、些細なことでも泣いたが、泣きはらすということはなかった。

私の仕事部屋に入ってきたヨメの顔は、私が初めて見る顔だった。涙ですべてを洗い流したのか、ヨメの顔は無表情だった。人は「無」になると、危険な空気を醸し出すようだ。背筋が寒くなった。

ヨメは、私の前で「ナミエが・・」と言ったあと、しゃがみ込み、膝を抱えた。

そして、私を見上げて震える声で言った。

「ナミエが手術するって・・・とても確率が低いんだって」と顔を両手で覆った。ナミエの夫に聞かされたという。

私も蒼ざめた。

 

だが、そのときの手術は奇跡的に成功した。

それを喜んだ私たちは、普段は500円程度のワインしか飲まないのに、3500円のワインを買って乾杯した。

ナミエは快方に向かい、今年の春は二家族でピクニックに行った。

そのとき、私たち夫婦は、とても感動させられた。

ナミエが、ナミエの息子三人とアカペラを歌ったのだ。

ナミエの長男の結婚式のときに歌うために、かなり練習したらしい。

曲は斉藤和義氏の名曲「歌うたいのバラッド」だった。

ナミエの長男がボーカル。ナミエがコーラス。次男がベース。三男がボイスパーカッションだった。

まわりの人たちも聴き入って、終わったら大きな拍手をしてくれた。

長男のボーカルが透き通っていて、よかった。愛を声にしたら、こうなるんだと思った。

 

今年の7月半ば。ナミエの容態が悪化した。転移したのだという。

もう手術はできない、と言われた。

ヨメが言う。

「実はね、去年の10月から、ナミエも私も覚悟していたの。いつもは気丈なナミエが、悲観的なことばかり言っていた。予感はしていたのだと思う。私は否定したけど、私も嫌な予感がしていた。一番当たってもらいたくない予感って、当たるものなのかもしれない」

ヨメの顔には、表情がなかった。

 

悲しい葬儀の日。

出棺前、夫の挨拶のあとに、息子たち三人が、アカペラを歌った。

生前にナミエは言っていたという。

「お葬式では、あの歌を歌ってね」

「歌うたいのバラッド」だ。

ナミエの長男がボーカル。次男がベース。三男がボイスパーカッション。

ナミエのパートは、ヨメが歌った。

いつ練習したのか、私にはわからない。そんな時間は、なかったはずだ。

だが、ヨメは歌った。

 

そして、私には、ヨメの歌う姿がナミエに見えた。

ヨメは、完全にナミエと同化していた。

歌うヨメは、無表情ではなかった。

ナミエが乗り移っていると思った。

歌い終わって、誰もが嗚咽した。

私の目からも水が出たが、ナミエの姿をしたヨメを目に必死で焼き付けた。

 

ヨメは、そのあとも気丈に振る舞っていた。

無表情になることは、もうなかった。

昨晩も笑顔を見せた。

大親友は失ったが、ナミエはきっと、今もヨメのすぐそばにいた。

 

不謹慎な言い方になるかもしれないが、ナミエの夫や息子さんたちよりも、確実に私は、ヨメの方がナミエを愛していると思った。

ナミエの親兄弟よりも、長い間、濃密な関係を築きあげてきたのだ。

 

 

「歌うたいのバラッド」の最後の歌詞、「愛してる」が、今も耳を離れない。