白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(139)「ミヤコ蝶々を語る会」

2016-09-14 10:52:42 | 思い出
こんな案内状が届いた
「私たちが慕ってきたミヤコ蝶々先生が亡くなられて16年の月日が経ちました つきましては蝶々劇団員や関係の皆様で親しく集い蝶々先生を語ろうと同窓会を企画しました
時・2016年9月9日18時から
会場・ニューミュンヘン南大使館
多数のご参加をお待ちしております
尚 その前16時に大善寺へお詣りに行きますのでご希望の方はどうぞお越しください]
幹事 森川隆士


その会は盛況で僕を含めて41名の出席だった
敢えて17回忌と銘打たなかったのは日向利一さんへの差しさわりがあるためか

蝶々スクールの卒業生(現役は森川、ぴあこ 敦子 蝶子 前田絵美)はもちろん役者さんは大津嶺子、三島ゆり子 島村晶子 桂春之輔 松竹芸能からは野畑、大谷、大田 毎日放送の伊東さん スポニチの土谷さん(昔は日刊スポーツ)スタッフからは僕 堀本ジュニア 立田ジュニア 大道具のヒデさん 新歌舞伎梅田 新喜劇 鍛冶 効果の畑中らの面々だった 各自思い出話に花が咲き楽しい一時を過ごせた

僕も僕なりに思い出を辿ってみよう
松竹新喜劇を追われるように辞めた蝶々雄二 1966年出版した「女ひとり」がベストセラーとなる 
1973年6月梅田コマで蝶々の自伝「女ひとり」が舞台化された 
その年の3月南都雄二が死んだ 急遽その葬式の場面を追加しての上演だった
共演 金子信雄 佐々十郎 花柳喜章
作 日向鈴子 演出 竹内伸光 
音楽 中村八大 作詞 石浜恒夫 美術 石浜日出雄 照明 鳥居秀行
振付 関谷幸雄 藤間勘吉郎 小関二郎 効果 古間伸(作本秀信)
僕は未見だがうまい具合の雄さんの死が引き金となり満員の客入りで終わったという
これ以降蝶々さんは梅コマのレギュラーとなる
1974年6月「おんな川」作 日向鈴子 脚本 逢坂勉 演出 竹内伸光
共演 芦屋雁之助 いとし こいし 川地民夫 内田朝雄
この芝居はトップホットにいたとき舞台稽古で見た 二匹目の泥鰌で客は入ったがひどい芝居だった

この年蝶々さんは所属していた松竹芸能の仕込みで新喜劇退団以来の中座公演をスタートさせる
 
1975年梅田コマに入った僕はサンケイホールの蝶々リサイタルの手伝いをする
僕の名前を聞いて「お前吉村いうんか 雄さんも本名は吉村や 吉村朝治や」と言ってもらった
僕は27歳で蝶々さんは55歳であった
サンケイホールで行われたこの公演で蝶々さんは「八百屋お七」の藤間勘吉郎さん振付の人形ぶりに挑戦 
芝居は後年何度も上演した「おんなの橋」で朝丸 森田健作 伴淳がゲストだった

1976年1月「おんな寺」作。演出 日向鈴子 構成 竹内伸光
共演 西村晃 石橋正次 芦屋雁之助 中山仁 扇ひろ子
稽古中長すぎることは判っていたが誰も言い出せず 12月30日の終わりころ通し稽古が始まり終わったのは12月31日の朝だった 終演後主演者をお正月休みに帰らせ スタッフが集まってカット会議
我々はお正月返上でカット個所を電話で知らせた 石橋正次が役が悪くなったとゴネて降りると言い出し
僕は三好正夫を代役にスタンバイさせる

この年蝶々新芸スクール開校 机椅子などの備品は全部高津小道具に発注するのを手伝う
元松竹芸能のマネージャー野田嘉一郎という人が全て絵を描いた

この年何月か忘れたが日向企画制作の長門裕之・南田洋子夫婦による「極楽夫婦」という
林家トミさん・染丸夫婦の芝居(茂木草介作)をやったのを社長の立場で初日に観にきて「フーン」と言って帰った 翌年 中座で「女と三味線」という題名で同じ話をやった

1977年12月「河内の女」作演出 日向鈴子 脚本 安達靖人
共演 山城新伍 白川和子 鉄砲光三郎 光子 船戸順
併演 ショウ「こんにちわ蝶々です」構成演出 松島平
蝶々新芸スクールの卒業発表会の公演でやっていてもうすら恥ずかしい公演だった
僕はショウ担当だったので詳しくは知らないが山城、船戸らが右も左も判らない卒業生を捕まえて「芸能界での生きていくすべ」を身をもって教えていたという噂

あと北浜三越劇場でひとり芝居「おもろうてやがて哀しき」も手伝う
(浪花のスーパーかあちゃん などの元ネタ)

九州巡業「阿波の女」「グリーンシャンデリアショウ」 中津福沢会館他にも参加
(蝶々さん作詞「噂なんかに負けたくないわ」)

蝶々さんの芝居は大きなコマでは合わなかった 女ひとりはミュージカル仕立てだったから何とかもったがあとの芝居はひどかった 「おんな寺」はミュージカル仕立てだったがそのシーンは時間の都合でカットされた やはりミヤコ蝶々の芝居は中座、名鉄が丁度いい劇場だった 中座が閉まるとき「だれか中座を買うてんか!」と叫んだ気持ちがよくわかる

堀本ジュニアの話で思い出したこと 
彼の蝶々初舞台の「おんなの橋」「晴れ晴れ街道」は中座公演(平成2年)であるにもかかわらず何故か僕が演出部で付いていた 
舞台稽古の時 花道の鳥屋口で出を待っているとき渋谷天笑(当時)の演技をみてつぶやいた
「おやじも大根やったけど こいつもあかんわ」

中座狂言後年の作品にはケッタイなタイトルが多かった
「占い信じますか」「おばちゃん、うちら地獄を知ってるで」「高砂やうれし哀しい尉と姥」
「老後が来よった早よ逃げよ」「ぼけましておめでとう」「おばあちゃんは魔女」
「金とダンボール」「あんたもわたしも失楽園」などなど

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1 コメント

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Unknown (tomotada007)
2019-02-22 05:57:40
確か 私は仕事でこの時 私は参加出来なかったです、
これ以降 この会合はストップしましたが、森川さんにも言ってますが再開して欲しいです。
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