白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(135)道頓堀界隈(3)ナンバ一番

2016-09-07 06:53:35 | 道頓堀界隈
 道頓堀界隈(3) 「なんば一番」

何故か難波の一等地であるにも拘わらず道頓堀戎橋の角に長い間手つかずの建物があった
それは2000年頃TSUTAYAのビルが出来るまでそこにあった
(その後H&Mになり現在はFOREVER21なるファッションビルになっている) 
危険建物の指定を受けながらいつ崩れるかわからない廃墟になっても何故かそこにあった 
大都会の真ん中で建物が朽ちるに任せてある光景は異様であった 
それはかつてロカビリー全盛期の頃輝いていた「なんば一番」のなれの果てだった

昭和33年日劇で第一回ウエスタンカーニバルが開かれ これをきっかけにロカビリー旋風が吹き荒れた 
すでに流行していたロックンロールとカントリーウエスタンのヒリビリーというのをミックスした音楽がロカビリーで電気的増幅音を出すのではなくギターを抱えて派手なアクションで倒れて演奏したり スタンドマイクのポールを握ったまま歌ったりと体全体で音楽を表現するのである 
日劇のステージにはウエスタン歌手寺本圭一、平尾昌章 山下敬二郎 ミッキーカーチスらが出演していた 
前年「ダイアナ」でミリオンヒットを飛ばしたポールアンカが来日したのが9月 
日本のロカビリー熱は頂点に達していた 
これが大阪へも飛び火してミナミのジャズ喫茶が燃え上がった 
心斎橋の「サイトハウス」阪町の「銀馬車」千日前の「ビクター」そして少し遅れて「ハッスジ」を少し入った「なんば一番」などがメッカとなった
 
そのころ昭和30年前後大阪のウエスタンバンドの双璧と言われたのは「鈴木英治とブルーカウボーイズ」と「田川元祥とリズムワゴンボーイズ」であった 前者にはハンク・ウイリアムを歌わせたら日本一と言われた立命館大出身の石橋イサオや日活俳優となる杉山俊夫が 後者には人気歌手のラリー石川や菊川敬司がいた
さらに京都では「ゲーリー石黒とサンズオブウエスト」がいてスチールギターには後の作曲家の大野克夫が「ボーヤ」といわれるバンドボーイに西郷輝彦 司会には同志社大のアルバイト塩浜真のちの浜村淳がいた 
この塩浜にあこがれ弟子入りを志願した少年がいた
立命館を受験して落ちた京都西高校の小林龍太郎である 
弟子入りは断られたがかわりに紹介されたのが「田川元祥とリズムワゴンボーイズ」であった 
小林少年はそこで「ボーヤ」兼「司会」をやり、たまにはコミックソングを歌っていた のちの上岡龍太郎である 
このバンドに憧れていて「銀馬車」のステージに先輩の「スケ」で歌っていたのが関学大軽音楽部にいた程一彦(のち料理研究家)である
 
昭和33年 鈴木英治とブルーカウボーイは解散して北原謙二を擁して上京 
残った石橋、杉山で「ブルーキャップス」を作り後の佐川満男や内田裕也を生み出す 
そこのボーヤだった倉本秀和は神戸で克美しげるをたてた「マウンテンボーイズ」を作りマネージャーになる 専属司会者は浜村淳 
昭和35年 倉本は神戸国際会館を克美しげるで満杯にした余勢でバンドごと上京 浜村は残って渡辺プロに入る 
このバンドでスチールギターを引いていたのが推理作家となる大谷羊太郎である 彼はのち事件を起こした克美しげるの後見人となる 

「リズムワゴンボーイズ」では他に美川鯛二(中村泰士)や森高茂一(森高千里の父)ほかに奥村チヨ、大杉久仁子(内田あかり)らも歌っていた 
森高は「ビックバロネット」を結成して神戸の「月光」や「コペン」京都の「ベラミ」や「なんば一番」では一日5回のステージをこなす人気者になった 
昭和38年頃は弟の雅明も参加して兄弟ボーカルで出演していたがロカビリーが下火になり舟木一夫の高校三年生なんかを歌わされる時代になってきた 
昭和40年大阪フェスティバルホールに「ザ・ベンチャーズ」が来演 エレキブームが始まった
 
なんば一番ではオーディションで専属バンドを集めることになった 昭和41年オーディションに合格したのは京都の「ファニーズ」だった 「ファニーズ」は同年渡辺プロのオーディションに合格 「ザ・タイガース」と名乗って人気者になる 
昭和43年ころ「オックス」も舞台にたった 

なんば一番はもともと華僑の人がパチンコ屋(もう少し高島屋よりにあるパチンコ屋も「なんば一番」というが関係があるのかしら)として建てたもので50年代半ばに喫茶美術館となったのちに音楽喫茶になったという 当時ライブの入場料は300円 客は2階でチケットを買って時間になると5階ホールに集まった 専属バンドの楽屋は4階 ゲストバンドは6階 客席は150程 あとは立ち見だった  天井が低かったため「オックス」の前歌をやっていた和田アキ子などは頭が天井につかえたという

オックスやタイガースを東京に送り出しGSブームの全盛を迎えるのだがバンドの出演料も高騰 皮肉なことに採算が取れなくなり「なんば一番」は幕を閉じざるを得なかった
アーチ窓の連なるネオ・ルネッサンス様式でビルの角は丸みをおびており 総タイル張りだった

 昭和44年9月に閉鎖