白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(138)京唄子

2016-09-12 06:52:13 | 人物
         京 唄子
 「ミヤコ蝶々さんを語る会」という集まりがあり 昔中座の大道具さんだった方から
「そういえば京唄子さんはどうしているのか」と尋ねられ「もう何年も歩けないので娘さん(鵜島節子)と旦那さん(萩清二)の二人で介護してると聞いている お見舞いに行きたいのだが本人が人に会うのは嫌がっているので会えない 彼女なりの美学だろう」と答えておいた 
そういえば少し前に彼女を預かっていた「さち子プロ」の倒産のニュースが流れた

これは2008年度 第12回上方演芸の殿堂入りした京唄子が「月刊わっは」の同年4月号に寄せたあいさつ文である

 私はチンドン屋の娘として生まれ それがため小学生時代は随分いじめられました
18歳の時 父親に「女優になりたい」と言って厳格な父親に猛反対されました
しかし忍耐強い母親は
「やるんやったらトコトンやんなはれ 途中でやめるようやったらあきまへんえ・・」
と励ましてくれました その母の言葉がいつまでも私の体の中に熱い血のように流れています 反対した父親も私の舞台をソッと見に来てくれたと のちに母から聞き 親の有難さが判り感動したものです
 昭和27年ドサ回りの劇団で鳳啓助との出会い その時の印象は「世にも汚い男」
啓助が私を見た印象「世にも生意気な女」
それからの二人は喜びに浸ることもありましたが数々の苦労も「肉体的にも精神的にも」ありました
ある日「お前思い切って俺と漫才やらへんか 漫才は二人が座長や 必ずお前を人気者にする」と言ってくれましたが「私は女優や!」「何で今更漫才なんてとんでもない!」
しかし啓助の押しの一手でとうとう昭和31年4月漫才に踏み切りました 
そして作家の志摩八郎さんとの出会い 秋田実先生のラジオ番組「上方演芸会」,蝶々雄二さんの「漫才教室」素晴らしかったです 今思えば唄子啓助の漫才が受け入れられた要因だったと思います やがて「唄子啓助のおもろい夫婦」「唄子啓助劇団結成」そして「離婚」
「劇団解散」「京唄子劇団独立」と目まぐるしい日々が続きました
啓ちゃんと別れてからも漫才をやり芝居も続けられたのは私たちをご声援下さったお客様のおかげでした 啓ちゃんは「同志であり戦友」であったと思います

唄子「啓ちゃん、わてらも殿堂入りさしてもらうんやで」
啓助「おいおい漫才に誘いネタを作り芝居の作家、そして演出やったのはワシやで!
   ワシも下界に降りるで」
唄子「もうええ また若い女子(おなご)にチョロチョロするさかい 判ってる~今の私があるのは啓ちゃん、あんたや、
   忘れへんよ 私の心の中に生き続けているよ それに三代目四代目の奥さんとも仲良くしてるから安心して頂戴よ 
   ほな私が代表して貰てくるわ、私も何時の間にかこの道一筋60余年」
啓助「ようあきんとやるなあ」

これから一日も長く上方文化「演芸」の為に少しでもお役に立つように日々精進を重ねてまいります
殿堂入りに当たり私たちをご支援下すった関係者の皆様に心から厚くお礼申し上げます

おおきに


(この年京唄子は平成20年度はミス・ワカサ・島ひろし、島田洋之助・今喜多代の二組と一緒に上方演芸の発展と振興に特に大きな役割を果たし、後進の目標となる諸芸人として「上方演芸殿堂入り」を故鳳啓助と共に選ばれた)

実は梅沢武生は京唄子のファンで 京唄子も梅沢劇団のファンだった
僕が唄子さんの芝居の演出していたので武生さんはいつか是非とも京唄子と二人で踊りたいと言っていた 
色々画策したが中座なきあと新歌舞伎座では松井誠さんとの共演が決まってしまって実現出来なかった



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