天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『よろしかったでしょうか』の過去形言葉を多用した劇場演技者女性は、過去を忘れる自身の曖昧さ本質を具現

2010-04-28 23:02:24 | 日記
今日の日記も、言葉の語尾を過去形にする特殊な言い回しの「北海道弁」です。
私は、過去のある体験を思い出して、道産子だけがこの言い回しをするのではなく、接客業の人でも『〜でよろしかったでしょうか?』と、過去形用法を普段多用していることに、ふと気が付きました。この語尾を過去形にするルーツは、時系列な現象の流れを曖昧する「北海道弁」だと、巷間広く言われています。
この言葉の持つ時系列な曖昧さが、断定的に言うのを避け、なるべくソフトに尋ねようと気遣う接客業の応対姿勢に合致していたから、多くの接客業の人々が使うようになったのでしょう。
さらに驚くことに、過去私が応援した劇場演技者女性の中にも、この曖昧言葉『〜でよろしかったでしょうか?』をステージで多用していた人がいました。2006年6月10日都内某劇場で引退した女性です。私は劇場で彼女のその言葉を聞いた時、いつも強い違和感を持っていました。時系列な現象の流れをとても大切にする私は、過去の現象にも強い拘りを持っているから、それを曖昧する言葉に強い拒否感を持っていたからです。
しかし、今になって冷静に当時を振り返ってみると、この言葉こそが彼女の本質を言い当てたものと、私は得心しました。なぜなら、過去を忘れさせる言葉の曖昧さが、彼女らしさをまさに具現していたと、私は今、気が付いたからです。だから、その時点で終わってしまう過去の出来事は、遡って振り返る必要などまったくないと、彼女はいつも思っていたのでしょう。さらに言えば、彼女には過去の自分を深く反省する気などまったく起こらなかったのでしょう。
「言葉は人なり」は、まさに名言です。
コメント
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