今日の日記も、先日逝去された井上ひさしさんのエッセイ集1『パロディ志願:1979年中央公論社刊』に収録されている『喜劇的猥褻論1:「波」1973年3月号』で書かれた、私にとってとても感慨深い執筆文のことです。私はその記述の一部を、以下に引用し掲載します。
『僕が今考えているのは、刑法の第百七十四条と百七十五条についてなのですが、現行の刑法は、明治十三年にできた旧刑法を基に明治四十年に改正され、明治四十一年十月一日から施行されたもので、つまり我々は、明治の遺物によって縛られている、と言えると思います。
この法律と僕が初めて出会ったのは浅草で、そのころ、僕は浅草のストリップ劇場で、文芸部のなかの進行係に属しておりました。・・・この進行係というのは、支配人の代理という重要な役目があって、踊り子がいわゆる「いけない」ところを見せたりしますと、まず彼女たちが警察へ連れていかれ、・・・支配人が、いちいちしょっぴかれていたのでは仕事になりませんし、また体裁もよくないというので、僕ら進行係が、つかまりに行くわけです。・・・ある時、生意気なことをほざくやつだと睨まれて、一晩で帰れるところを、もう一晩、留置場に留め置かれてしまいました。・・・
この第百七十四条と百七十五条にかかわる犯罪のことを、よく「被害者なき犯罪」などと言います。・・・この猥褻罪だけはその被害者がいない。・・・だだひとり、お上だけがぎんぎらぎんに突っぱらかっている。それはいったいどうしてなのだろうかと考えますと、おそらく性が深く人間の想像力とかかわっていることが、その原因なのだろうと思います。・・・お上はそれをいけないという。お上は第百七十四条と百七十五条によって、我々に「人間であってはならぬ」と恫喝しているのです。・・・お上の狡智には恐るべきものがあって、「猥褻」の正体を決して我々の前に明らかにしません。ニューヨーク法典には、猥褻とは、「裸体、排泄、サディズム、マゾヒズムに関する病的な興味への働きかけ」であるという規定があり、これでもひどく漠然としていますが、これでさえ、先ほどから申し上げている我々の国の刑法の猥褻概念に較べますと、ずいぶんはっきりとしています。お上の猥褻概念がひどく漠々たるものであるのは、不都合なものはすべて取締まることができるように、という計算があるからでしょう。猥褻の内容が明らかでない故に、逆にどんなことでもでも猥褻罪にしてしまうことが、お上には出来るのです。・・・我々は大いに妄想を逞しくすることによって、想像力を鍛錬し、その想像力によって、かくあるべきであるという世界を脳裏に描き、それをいつかは現実のものにして行くという努力をしなくはいけないのではないか、と思います。すくなくとも黙っていてはいけないだろう。・・・だから、これからも、どしどしいやらしい妄想だらけの作品を書き連ね、お上の期待に添いたいものだと考えています。』
この井上さんのお上への強い抗議は、37年も経ても何ら改善されていません。文化がないまったく悲しい日本です。私も、一条さゆり嬢の裁判で主任弁護士だった法務大臣まで経験した国会議員に、その猥褻刑法の国会での見直しを意見陳情をしました。しかし、その私の御願いを、彼はまったく歯牙にもかけてくれなかったです。
皆が、外に向って劇場を守る行動をすべきなのに、気に入らない内部の客を理不尽に排除する応援隊が存在する社会に、私がそれを言っても無駄かもしれませんが、この井上さんのエッセイは、自分のかっての職場だった劇場を愛し想う井上ひさしさんの「劇場を愛するすべての者への遺言」であったと、私は今思っています。
『僕が今考えているのは、刑法の第百七十四条と百七十五条についてなのですが、現行の刑法は、明治十三年にできた旧刑法を基に明治四十年に改正され、明治四十一年十月一日から施行されたもので、つまり我々は、明治の遺物によって縛られている、と言えると思います。
この法律と僕が初めて出会ったのは浅草で、そのころ、僕は浅草のストリップ劇場で、文芸部のなかの進行係に属しておりました。・・・この進行係というのは、支配人の代理という重要な役目があって、踊り子がいわゆる「いけない」ところを見せたりしますと、まず彼女たちが警察へ連れていかれ、・・・支配人が、いちいちしょっぴかれていたのでは仕事になりませんし、また体裁もよくないというので、僕ら進行係が、つかまりに行くわけです。・・・ある時、生意気なことをほざくやつだと睨まれて、一晩で帰れるところを、もう一晩、留置場に留め置かれてしまいました。・・・
この第百七十四条と百七十五条にかかわる犯罪のことを、よく「被害者なき犯罪」などと言います。・・・この猥褻罪だけはその被害者がいない。・・・だだひとり、お上だけがぎんぎらぎんに突っぱらかっている。それはいったいどうしてなのだろうかと考えますと、おそらく性が深く人間の想像力とかかわっていることが、その原因なのだろうと思います。・・・お上はそれをいけないという。お上は第百七十四条と百七十五条によって、我々に「人間であってはならぬ」と恫喝しているのです。・・・お上の狡智には恐るべきものがあって、「猥褻」の正体を決して我々の前に明らかにしません。ニューヨーク法典には、猥褻とは、「裸体、排泄、サディズム、マゾヒズムに関する病的な興味への働きかけ」であるという規定があり、これでもひどく漠然としていますが、これでさえ、先ほどから申し上げている我々の国の刑法の猥褻概念に較べますと、ずいぶんはっきりとしています。お上の猥褻概念がひどく漠々たるものであるのは、不都合なものはすべて取締まることができるように、という計算があるからでしょう。猥褻の内容が明らかでない故に、逆にどんなことでもでも猥褻罪にしてしまうことが、お上には出来るのです。・・・我々は大いに妄想を逞しくすることによって、想像力を鍛錬し、その想像力によって、かくあるべきであるという世界を脳裏に描き、それをいつかは現実のものにして行くという努力をしなくはいけないのではないか、と思います。すくなくとも黙っていてはいけないだろう。・・・だから、これからも、どしどしいやらしい妄想だらけの作品を書き連ね、お上の期待に添いたいものだと考えています。』
この井上さんのお上への強い抗議は、37年も経ても何ら改善されていません。文化がないまったく悲しい日本です。私も、一条さゆり嬢の裁判で主任弁護士だった法務大臣まで経験した国会議員に、その猥褻刑法の国会での見直しを意見陳情をしました。しかし、その私の御願いを、彼はまったく歯牙にもかけてくれなかったです。
皆が、外に向って劇場を守る行動をすべきなのに、気に入らない内部の客を理不尽に排除する応援隊が存在する社会に、私がそれを言っても無駄かもしれませんが、この井上さんのエッセイは、自分のかっての職場だった劇場を愛し想う井上ひさしさんの「劇場を愛するすべての者への遺言」であったと、私は今思っています。