インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

何もなさそうなGW

2011-04-28 06:32:17 | 身の回り
  あまり寝ていないが体調が良い。GWはちょこっと田舎に戻ろうと思うが(先週、先々週と帰っていない)、そろそろ森林浴の季節が近づいてきた。ネットでカスタネダの本を調達し、吹き込んで車の中でも聞いているが(頭がおかしくなる)、ああいった本は森の中で読むのが最適なのかもしれない。大自然を観察した英知が多いため、読書しながら、周りの光景とシンクロするかもしれない。

 ほとんどの人間は都会で生活するが、それはカネを稼ぐことと絡んでおり、本来なら田舎暮らしをしたい人は大勢いることと思われる。田舎で生活するにも、当然ながら税金は圧し掛かるし、電気代やら電話代、そして必需品であるの車のガソリン代やら保険料(人間も)、どんどんカネが飛んでいく。 逆にいえば文明から離れれば離れるほどカネはかからないのであるが、ポツンとした無人島に住んでいても面白くも何ともない。いろんな人間に出会わなければ成長しないし、社会を肌で感じられない(何かネガティブな表現が多い)。

 やはり基本的には若者は都会に出て、年を取れば田舎でのんびり暮らすというのが理想か。それでも、若いときにカスタネダとか読んだら、刺激されて、早くもアウトローな田舎生活を目指すのかもしれない。はっきりいって、あの本は、世間に縛られるのをやめ、定職なんて辞めちまって、「狩り」とかで生計をたてよ、て言っているような気もする(無茶だ)。仕事を放りだすのはたやすいが、再び得るのは今の経済状況では極めて厳しいかもしれないし、逆に無職であると退廃的な生活になってしまうような気もする(イメージ、酒びたり)。

 ただどうせ、死ぬのは70過ぎても、38でも、変わらないわけで、後悔の無いよう責任を持って行動することが重要か。3.11のような自然災害とかで、いつ死ぬか分かったものではない。「自分は死なない存在」として、我々は社会のメカニズムの中で生きているわけで、「一か月後にこの世に消えている」と知ったら(それが分からない)、そのシステムから逃げ出すに違いない。残された命で本当に大事なことばかりしようとするのである。システムの中に居てカスタネダの本を読んでも…、その効果は一応あるのだろうが…


お人好し

2011-04-27 05:34:40 | 考えるインディオ
  夢のせいではないが、どうも朝から気分が重い。どうも、世の中、お人好しが負担を余計に受けることになっており、我が輩も日常生活でそんな感じなのである。もちろん、見て見ぬふりをすることは出来るし、「自分が楽をできること」を選択できるのであるが、どうも良心が痛むし、「まあ、助けてやるか」ということになる。相手は楽になるけれども、こちら(お人好し)は割を食う。

 このブログを見ている方々も、性質上?、冷淡になれない方が多いと思われるが、お人好しであるということは疲れる。エネルギーを無駄に浪費しているに違いない。しかしやらないと、心が痛み、内的対話で余計エネルギーがなくなるのである。

  人間は利己的であり、自分にとって非常に都合がいい生き物である。苦しいときに、お人好しが出てくれば、とことん利用するだろうし、感謝はするだろうが、見返りに「ありがとう」といえば良い場合だけなら、実に安いものである。

 今回の東北震災のボランティアの人々も、「何かスカッとしない」思いをした人が多いに違いない。これぐらいは自分でやらなければならない最低限のことがあるわけで、それすらやらないのを見ると、何か良いように利用されているのでは、と思いたくもなるだろう。利己的な人間をまざまざと見せつけられるのである。

  福島原発関連の仕事も、放射性物質が高い数値で検出された以上、誰もやりたくないに違いない。しかし誰かが防護服を着て作業しなければならないわけで、それも多分、お人好しが行くことになるのであろう。そして我々は傍観者として「カネをもらってやる仕事だから当然だ」とか、「誰かがやらなければ仕方がないから、仕方がない」(しかし自分は絶対にやりたくない)と、黙って時が過ぎるのを待つのである。事態が落ち着けばいいのであるが、状況が状況なだけにそう簡単ではない。それでも「早く何とかしてくれ!」と他人任せで利己的なのである。

  ただ人間の本質は、そういう非常事態に露出するわけで、「彼は信頼できるな」「これは最後に裏切るな」というのが手に取るようにわかる。「お人好し」も「お人好し」の仮面を被りながら、いろいろ観察し、いろいろ世界について考えさせられるわけであるから、それはそれでためになる(とういうことは、我が輩は純粋なお人好しではないか)。

 もっとも、我が人生でも、これまで色んなお人好しに助けてもらったし、因果が巡りにめぐって、目の前に現れているだけなのかもしれない。かくして朝っぱらから内的対話でエネルギーを多大に浪費するのであった。

できると信じる

2011-04-26 06:18:30 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  夢の中で自分の手が見られるのか?という問題について、クリアされた方から励まし(?)のアドバイスを頂き、我が輩は今、挑戦しているところである。これを見ている方も、「そんなことができるのだったら…」と興味を持っているかもしれない。アドバイスによると、とにかく「内的対話(自問自答する意識のこと)を止めることが最重要」とのことだ。つまり、こうやってグダグダ考えながらキーボードを叩いているようでは、「夢見な精神状態」には程遠いわけで、そんな間があれば、内的沈黙を維持するために、瞑想というか、座禅でもして無の境地にもって行くよう努力すべきか(しかし…)。

 視線を頻繁に動かしているのを、第三者に目撃されたら、かなりである。眼球を動かしすぎると目が疲れ、乾燥してくる。「眠そうですね」とか言われるし、それは夢見がしたいわけだから、本当なら働かずに眠っていたいのである(何という怠け者だ!)。首を動かすことでも、視点を動かせるわけであるから、大都会に出た田舎者のようにキョロキョロする。脳細胞は確実に刺激を受けており、何かしら脳が活性化してきたような気がする。ただ運転中とかはこんなことをしていたらヤバイような…(しかし一番効果があるような…)

 それにしても、内的対話を止め続けるということは、どっかの山奥か洞穴に何か月もずっと一人でこもっているようなものであるからして、条件的に非常に難しいと思われる。まず家族と一緒に生活するのはだめで(喋ったり気を使う)、仕事に行くのもだめで、もちろん、ネットでブログを更新するのもあり得ない。やはり(あの呪術の世界は)古代人の世界であり、現代では到底発見されえない。

 しかし長い年月さんは、「夢の中で手を見た」だけでなく「非有機的存在」も見られたようで、どんな条件下であれ、絶え間ない努力で到達できるのかもしれない(天性も大きいような気もするが)。「人間はどんなことでもできる!」という強い信念で(狂気のような)、我々が今知覚しているのとは別の世界へトリップできるのか。酒を飲んで意識が変わるのも面白いが、それは余りにも底が浅く、不安定で、はかない。

 とにかく世界が(特に日本が)不安定になってきており、原発事故とかで人間の理性が揺らいでいる。そういう時こそ、古代人の知恵が必要なのかもしれない(ぐだぐだ妄想しているようでは、その知恵も全然引っ張って来れないわけだが…)。

上関原発中止!

2011-04-24 10:29:46 | 瀬戸内海の島
  5月になろうというのにいやに寒い。今年は冷夏なのだろうか。それなら関東地方は電力問題が少し和らぐか(?)。ただ福島の原発問題が解決していないので悩まれる。それなのに、未だに原子力発電所が建造されているところが異常である。

 われらが瀬戸内海においても、今、着々と進められているのである(STOP! 上関原発)。もちろん、地元住民やら大勢が反対運動しているわけで、テレビ映像で福島の状況を見せられると、「仕方ないか…」と思い込まされた人々も、「とんでもない施設を作ろうとしていたのでは…」と反対派に回り始めるに違いない。

(ニュースによると、「福島第一原発の相次ぐ事故を受け、中国電力(広島市)は3月15日、山口県上関町で進めていた原子力発電所の建設準備工事を中断すると発表した。事故後、山口県や上関町が中断を要請していた。中断期間は決まっておらず、2018年3月に営業運転開始を予定していた計画の修正は避けられない情勢だ」とある。多分、中止されるのではと期待)

 山口で講演された【大切な人に伝えてください】小出裕章さん『隠される原子力』なるyoutubeを見ていると、放射能汚染の凄まじさが良くわかる。チェルノブイリは全く他所事ではなく、まさにそれがこの日本で起こっている。4シーベルト(グレイ)以上被爆すれば半分が死ぬらしく、8シーベルトで全員死ぬ。しかしながら、それ以内のほんの微量でも「別に問題ない」わけではなく、何らかの影響が起こるようで、特に成長期の子供に強い影響が出るようだ。X線検査ですら、便利だで医者は多用するけれども、被爆するので出来れば受けない方がいいといわれる(ということは、毎年の検査は…)。

 要するに、我々日本人の放射性物質に対する認識が甘いのであろう。エボラ出血熱ウイルスとかなら、生き残ったり、終息したら元の生活ができる可能性があるが( 『ホットゾーン』を読む)、放射性物質が高濃度で散らばった場所なら、1万年以上住めないわけで、「予測不可能なことが起きました」と誤って済む問題ではない。全国にある原発の近くで破局噴火でも起きたら、火山灰とともに放射能が降ってくるのか(救いようがない)。

 ただ実際問題、放射性物質がばら撒かれているわけだから、何とか対応をしなければならない。そこで、調べてみると、食生活で、玄米がいいらしい(一応毎日食べてはいるが…)。食育に栄養学も食事バランスガイドもいらないなるサイトに仔細が書かれてあり、「塩が良くて、砂糖が悪い」ようだ。ということは、子供には酷であるような…

夢の中でマジカルパスを目撃する!

2011-04-23 11:26:07 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  ついに当ブログに「夢の中で手を見た」方のコメントが寄せられた。やはりカスタネダを読んで実践されている方がおられるわけで、どうやら実際に、夢見の第一の関門は突破可能であるようだ。

 本にはその状態は、「最初の門を抜けるには、深い眠りに入る前にある感覚を自覚することだ」「目を開けられない心地よい重さのような感覚だ。眠りに落ちつつある、闇と重みの中で宙吊りになっている、と自覚した瞬間に門に辿りついている」とある。「夢で手を見よう、夢での出来事を記憶しよう、眠りに落ちるのを自覚しよう」と自分の第二の体(エネルギー体)に意識させているうちに、エネルギー体に到達するようだ(世界を止める、世界におやすみをいう瞬間)。

 それはさておき、ヘミシンク音楽を聴きながら横になっていると、うとうとし、眠ってしまった。そして夢を見たのである。広島の山間部にある我が輩の実家で、二人がマジカルパスの実演をしている夢だった。一人は印象的でもう一人は覚えていない。その方は男、かなりエネルギッシュな方で、左手を波打つように前へ出したり引いたりし、一方の右手はすっとそのまま差し込むように出したり引いたりし、壁に向かって、体全体で前に出たり後ろに引いたり、反復運動していた。

 部屋の中で何事か話していたのだが、突如、窓から外に出てマジカルパスをし始めたのである(『呪術の実践』にこんな動きがあったのか?)。残された我が輩は、部屋の中で二人の光景を眺めていた。スリッパをはいたまま、気合を入れて動いていた(土足であるのを非常に気にしていた)。見ているうちに、夢の中で我が輩も、その「マジカルパスのような動き」を実演してみた。何か競争心のようなものが芽生えたのである。

 それからぼんやりと「田」というような文字が浮かび上がってきたが、後はなかなか思い出せない。ほやほやの「夢日記」を手掛かりに書いているわけで、手は見えなかったが、実演者の蛇のごとく「波打つ手」が非常に印象的で、この動きを自己流のものとして、実際にやってみようと思う。

 全体的に修行というか、努力が足りず(そう思っているうちはまだまだか)、コメントで言われたように、「視線を絶え間なく動かす」(眼球運動は例の『仙道百科』にもあったような)とか、「月夜の草原を全力疾走する」(見つかればかなりだ)とか。夏場だと、海辺に行って砂浜を走ってみるのもいいか。

  自分の行動リストの中に、カスタネダの実践をどれだけ混入できるか。戦略的に、日常生活に入れてみようと思う。

我々の知らない世界

2011-04-22 21:28:12 | カスタネダ『呪術の実践』 !
 無名の個人ブログの割にはアクセスが多いかもしれないが(昨日も200人弱が…)、それも震災での不安やらテレビでJINが再スタートしたからかもしれない。ほとんどは一期一会で終わってしまうだろうが(?)、内容がマニアックだから仕方もあるまい。今、酒をちびっと飲みながら、意識を変え、何やら普通でないことを書こうとしているところである。

 このブログではカルロス・カスタネダの本が頻繁に出てくるわけだが、結構怪しい部分もある。しかし、これはもはや信じるか、信じないかの問題で、もちろんこのブログでは信じる立場に立つわけである。「ナワールに対する絶対的な信頼」があったからこそ、カスタネダは意識の旅をすることができたのであろう。酒を飲まずに、意識を変えることができれば(すんなりと)、大勢が支持するには違いない。

 しかしそこに至るまでには多大な努力、エネルギーが必要であり、我々現代人は些末な日常生活やら目の前の事柄で、意識、エネルギーを奪われている。資本主義社会であるからして仕方がないわけで、ほとんどの人間は働かなければ食べていけない(ある意味奴隷だ)。カネがあれば別だが、それでも世間体やら社会関係上、システムの中で機能しなければならない。その意味では、みんな奴隷なのかもしれない。

 しかし現代社会では休日があるし、こんなネットとかで情報は飛び交っているし、ちょっとした自由さがある(独身であれば特に)。そこで、本とかの情報を頼りに、自分で自分を啓蒙していくわけだが、何か頼りない。外に出れば、現代文明の具体的事物であふれていて、その中に溶け込み、ついついカネを使い、モノを消費する。如何に役に立つ商品を仕入れて、快適な生活をするか、楽しく暮らすか、ということしか考えていない。ただ皆、心の奥底では「何かおかしい」という不満を抱えていて、意識を変えようと酒を飲んだりするわけである(そこで、ちょっと一口)。

 時には、「自分は何てナンセンスなことをしているのだろう」と思うことはたまにある。「エネルギーをエネルギーのまま純粋に知覚する」なんてことは、意味不明であり、わけがわからないからである。古代メキシコの呪術師は、支配階級であり、自分で洗濯やら飯を作るわけでもなく、ただひたすら夢見やら内的沈黙とか、得体の知れないことに全エネルギーを向けて励んでいたわけで、凄まじいパワーがあったには違いない。まさに陰陽師のごとき、呪術を武器として、闘っていたわけである。その点、ドン・ファンなどの末裔、すなわち「新しい見る者」は、別に支配階級であったわけではなく、自分で何かして生計を立てていたわけで、自由な考え方を持っていたわけだ。しかも、自分で何もかもやるわけだから、エネルギーはそこに奪われるけれども、「知恵」がある。その知恵が、いろいろ分別ある行動をうむわけで、恐ろしい生贄の儀式など、拒絶するわけである。

 マヤの王族やら神官がやっていた自己供儀とかも、ひょっとしてエネルギーを知覚するための手段なのではないかと思え始めた。人間という存在は、まず、自分の内臓を目で知覚することは出来ない。しかし痛みが伴えば、その存在をもろに知覚することができる。体調がいい時は、それもエネルギーが増大していることを知覚するわけであるが、別に血液の流れとか気にしているわけでもない。呼吸と同じよう勝手に行われる行為で、これはもう自分の意識を離れ、川の流れやら天体の動きと同じように、宇宙の流れである。雨が肌に当たっても、水で冷たくぬれるだけで、痛くもないが、血が流れると激しく痛い。同じ宇宙の原理に従っているわけだが、目に見えていないはずの、自分の体の方が、より深く認識しているに違いない。

  古代メキシコの呪術な世界にとっては、血と水は、体の内と外との違いにすぎず、何て言ったらいいのか、彼らは外界を自分の体と同じように知覚しようとしたのではなかろうか。もちろん、それは無茶な話なのではあるが、人間というものは、痛みを伴う「肉体」とは別に第二の体、「エネルギー体」なるものがあり(以前書いたように、非有機的存在といったもの)、そのエネルギー体が、大宇宙の世界、エネルギーを知覚するというものである。

 ということで、呪術の世界では、意識を「エネルギー体」に移行させなければならない。しかしそれは「肉体」のエネルギーレベルに左右されるので、エネルギーを取り込み(やはりエネルギーなものを食べるのか?)、得体の知れないりをやってスイッチを押し、いろいろな点に「注意力」を向けるわけである。

 我々現代人は何も知らないわけで…、とりあえず酒でも飲んで、夢でも見て想像するしかないか(もちろん書物も漁ります)

古代メキシコの呪術師における「見ること」とは?

2011-04-21 05:55:32 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  書くこともないのに、無理やり書いているのが、まさに今である。ネタ切れ、というよりただ忘れているのかもしれないが(忘れやすい性質)、カスタネダ流にいえば、己の「今のエネルギー状態」が特段言語を必要としていないだけなのかもしれない。感じたことをすべて言語に解釈しなおして、パソコンに打ち込んで表現できる、というのではあまりに単純すぎる。そういう感じで、物事を無理やり「鋳型」に当てはめて、レッテルを張って、理解しようとするから、未知の世界のが不安なものとなり、誤った道を選ぶようになるのかもしれない(何という文の流れだ!)。

 そういう点では、『夢見の技術』の最初のあたりがためになる(本棚から引っ張り出す)。

  ドン・ファンは古代の呪術師(数千年前の)があげたもっとも重要な成果は、モノのエネルギー的本質を認識したことだという。この洞察は非常に重要なので、呪術の基本的な前提となった。現在では長く鍛錬し、修行を積むことによって、呪術師は物の本質を知覚する能力を得られるようになった。この能力を彼らは「見ること」と呼んでいる。

 「物のエネルギー的本質を知覚するというのはどういう意味なんだい?」以前私はドン・ファンにこう訊いた。

 「それは直接エネルギーを知覚するということだ」彼は答えた。「知覚の社会的部分を取り除くことによって、全ての本質が知覚できる。何であれ、わしらが知覚しているのはエネルギーだ。だが、わしらはエネルギーを直接知覚できないから、知覚を鋳型にはめるという過程をとる。この鋳型が知覚の社会的部分だ。それを取り除かなければならない」

 「どうして取り除かなければならないの?」

 「それが知覚の対象に対する視野を大幅に狭め、さらに、鋳型の中にはめ込んだ認識だけが存在するもののすべてだと錯覚するからだ。人間が今を生き抜くためには、知覚のその社会的基盤から変えなければならないと思う」

 「その知覚の社会的基盤というのは何なの、ドン・ファン?」

 「世界は具体的な事物で成立しているという肉体的確信のことだ。わしが社会的基盤と呼ぶわけは、誰かを呪術師が知覚している方法で世界を知覚するようにする指導するには、真剣で膨大な努力が要求されるからだ」

 「じゃあ、どういう風に世界を知覚したらいいんだい?」

 「すべてはエネルギーだ。宇宙全体がエネルギーなのだ。わしらの知覚の社会的基盤は、エネルギーが全てだという肉体的確信でなければならない。エネルギーをエネルギーと知覚するよう導くため、大きな努力を払うのだ。そうすれば、その両方の選択肢を手にすることができる」


  やはり我々は素直に、謙虚に物事を見ることはしないで、先入観で物事を見て判断している。ある人を知る際にも、判断材料を仕入れ、ステレオタイプ化して、「この人は○○だ」と勝手に虚像を作り上げるわけだ。その色眼鏡をとって、純粋にエネルギーをエネルギーのまま知覚するということはしない。というより、できない。やり方が分からないし、そうするに足りるエネルギーが(知覚するエネルギー主体に)ないからだろう。まずはエネルギーを蓄えることが先決ということになり、そうでないと頭の固い衰弱した人間と全く同じ世界を知覚してしまうことになってしまうのか。現代社会はそうなのかもしれないが。朝から長ったらしい文章を綴ってしまった。

夢か現実か

2011-04-20 06:10:07 | 潜在意識の世界
  だいぶ朝日が早くなった(まだ寒いが)。今朝も夢を見たのだが(浸っていた)、あんまり覚えていなくて、むしろその前の日の夢の方が鮮烈だった(しかしブログを飛ばしてしまった)。かなり複雑な「絵」を見たのである。それがまた夢の中で使用されて、夢の中で生きている自分?の問題を解決方向に導いたわけである。まるでミステリー映画である。

 現実の人生も、過ぎ去ってみれば、単なる夢のようなものだったかもしれず、ひょっとして今でも夢を見続けているのかもしれない。ただ肉体を持っているわけで、痛みやら苦しみを感じれば、「現実」というか、「夢ではない肉体な存在」を強く意識するわけである。より現実的に生きようとするのは、その「痛み」が恐ろしいからで、それは人間行動を極端なものにするだろう。たとえば身内ががんで死んだりしてその苦しみ様の凄まじさを目撃したりすると、体が勝手に福島から遠くに逃げざるを得ないわけである(我が輩の祖母も90で…)。

 だからといって、肉体的現実が全てとも思えない。確かに肉体的経験は忘れ難いが、夢の出来事も、なかなか忘れ去られない。鮮烈な夢であればあるほど、まるでミステリー小説の冒頭な出来事のごとく、一週間経っても、一か月経っても、あるいは一年も経っても覚えているのである。そのうち、肉体的経験も薄らいできているので、「あれは現実だったか、夢だったか」混とんとしてくるかもしれない。

 最近、夢を見るのが非常に楽しくなってきて、今でも映画とか観るのだけれども、「所詮つくりごと」である感は否めない。この現実世界とて、夢と同じように謎だらけで、1か月後、半年後とかは予測できても(??)、10年後とかは予測できない。個人の抱えた問題も、時が経て解決するというわけでもなく、経験すれば経験するほど、夢を見れば見るほど、無限の謎に包まれていく。

 今、パソコンを叩いているこの瞬間、頭の中はわけが分からなくなっているため(一体何を書いているのだ?)、頬をつねって現実に戻るのである(ただ寝ぼけているだけだったり)。

夢に出てきた島

2011-04-18 05:55:11 | 潜在意識の世界
  どんよりとした寒い朝で、今日は雨が降るようだ(降り始めた!)。花見も昨日までだったか。さて、今朝も夢を見たが、何かしらエネルギーを得るような夢でもなかった。過去の記憶やら潜在意識が混じったような苦い夢であった。ただ不思議なことは、佐渡島が出てきた。上空から眺めていたのは、とてつもなく大きな島で、その中心部、両津市に舞い降りる(名指しで)。何かしら自由で理想的な場所になっていたようだ。特に市役所辺りを中心に、住民が活動している(ボランティアか?)。

 行ったこともないので、何で佐渡が出てきたのか分からないが、遠くの島、理想郷へのあこがれのようなものがあるのかもしれない。春になり、夏が近づくにつれ、「南の島へ行きたいなぁ」という逃避願望が騒ぎ始める。もっとも奄美大島とか災害復興で観光どころではないかもしれないが、。そういえばもうすぐGWが来るが、みんな旅行に行くのだろうか。我が輩は混雑が嫌いなので、平日に休みでもとって、どこか行ってみたいが、別に行きたいような場所もない(国内では)。

 ただ夢に佐渡が出てきたということは、そこに行ってみろということか。人生の記念になって良いかもしれんが、まだまだ寒そうだわい(イメージ的にはまだ氷点下に近いような…)

未知と向かい合うには?

2011-04-17 09:50:53 | カスタネダ『呪術の実践』 !
今から何を書くのか全く白紙である。ブログはいわば未知への挑戦となるか。とりあえず、カスタネダの『意識への回帰』を引っ張り出し、ドン・ファンに語らせる。

 完璧というのは、エネルギーの適切な使い方以外の何ものでもない。わしのいうことには、モラルの問題など少しも入っていないんだぞ。わしの場合は、エネルギーを節約することで完璧になるんだ。これを理解するには、お前自身が十分ににエネルギーを節約しなければいかんのだよ。 

 自尊心でも「悪い方の自尊心」はエネルギーを膨大に浪費するから、「戦士」は戦略的にそれを無くすのだという。確かに妙なプライドがあると妙なところに神経が注がれ、大事なものが見えなくなる。たとえるなら、サラリーマンが肩書を与えられ、そのプライドでせっせと頑張らされて、さらに地位的な意識が高まる。しかし「小暴君」が現れたりしてプライドを叩かれると、精神的に膨大なエネルギーを浪費する。ストレスを減らすためには最初から自尊心がないことが重要か。

 ドン・ファンは具体的に語る。

 戦士は戦略の一覧表をつくるんだ。自分がすることを、すべてリスト・アップするんだよ。それから、自分のエネルギーを使うことに関して、一息つくためにはどの項目が変更可能かを考えるんだ。

 私(カスタネダ)は、戦士のリストにはこの世のあらゆるものが含まれていなければならないはずだ、といった。それに対してドン・ファンは、彼のいう一覧表に含まれているのは、私たちの生存と幸福にとって本質的なものとはいえない行動パターンだけなのだ、と根気強く説明した。


 なるほど、人生は無駄だらけである。テレビを見るのも、最近エネルギーを莫大に浪費するし、ネットもそうである。こうやって毎日ブログを書いているのも、そうなのかもしれないが、これは日記代わりとして残しておこう(しかし膨大なエネルギーが…)。放射能汚染がどうの、これからの自然災害がどうの、考えたところでどうなるものでもない。カネがないからどうしようとか、将来が不安だとか、みんな悩んでいるだろうが(?)、新聞やらテレビやネットでいろんな情報が流れているけれども、その映像、高周波というか波動というか、人体を蝕んでいくのだろう。そしてその意識を「イーグル」が美味しい美味しいとむしゃむしゃ食べていくわけか。

 未知は不安である。が、同時に楽しみであり、冒険でもある。ドンファンは語る。

 戦士がまず最初に気にかけることのひとつは、未知のものに向かい合うためにそのエネルギーを解き放つことだ。そのエネルギーの流れる道を切り開きなおす行動が、完璧さなんだよ。

 …とあり、もっとも効果的な戦略は征服された見るもの(古い呪術師と違う、新しいドン・ファンのような「見る」者)によって開発されたようである。

 その戦士の特質として必要なのは、①管理②訓練③忍耐④タイミング⑤意志、であるが、問題が降りかからねばそれらが発揮する機会もないので、無限なる宇宙は「小暴君」を送り込むというわけである。それで、小暴君のレベルが高ければ高いほど、喜ぶべき状態だと言い、まさにスターリンやら織田信長のごとき暴君が「戦士」を鍛えるわけである。古い見る者たち(古代の呪術師)はその呪術力にもかかわらず、知恵不足で蠅のように大量に殺されたわけである(スペインの征服者たちに)。

  最後に総括するに大量の文章を写してみよう。

  ドン・ファンの師は鬼のような人間との出会いから何を得なければならないかを教え、新しい見る者たちが知の道の四つの段階をどうとらえていたかを話した。第一段階は、弟子になる決心だ。弟子になって自分自身や世界に対する見方が変わると、第二段階に進んで戦士になる。これはすなわち、最高度の鍛錬と自分自身の管理ができるということだ。忍耐とタイミングを身につけた後の第三段階は、知者になることだ。知者が見ることを学ぶと第四段階へ進み、見る者になる… これは何か、ニーチェのツアラツストラの「ラクダの精神→ ライオンの精神→ 幼子の精神」を髣髴させる。幼子の精神なんて訳が分からないが、ナワール的な観点からすれば、生まれた時が一番光り輝く存在であったわけで(固定観念も何もない)、純粋にエネルギーの世界を知覚できたわけである。「見る者=幼子の精神」とすれば、「戦士=ラクダの精神」で、「知者=ライオンの精神」になるのか。

 「戦士であり続ける」だけでは、ラクダのまま人生を終わってしまうような…。

甘さと信頼

2011-04-16 21:04:04 | 考えるインディオ
今週は桜が満開だったので、とりあえず一枚撮っておいた。



 今日は曇りで、実家に戻らず、潮干狩りしている人を眺めながら魔法の運動する。



 さすがに酒ばかり飲んでいられないので、冷静に書いてみようと思うが(?)、どうやらこのブログは一杯飲まれながら読まれているようである(狂った状態が丁度いいのですね)

 グダグダと屁理屈を並べているが、そこのところは読み飛ばされるか、批判的に読解されているか、どちらかだろうが(?)、言葉なんて軽いもので、書くのは簡単である。理性的な社会というのも、いろいろ美しい言葉が並べたてられているが、たくさんモノがある豊かなときは、あんまり問題はない。しかしパニックが発生し、混乱すると、本性が出るわけで、「そんな綺麗ごとを言うな!」と争いになるわけである。

 書いて良いのかどうか知らないが(アクセスを減らすために書こう)、苦しみの中では、人間は簡単に裏切る。いとも簡単にである。親友だろうが、夫婦だろうが、関係ない。親子とかは違うかもしれないが、これも『バーティカル・リミット』で想像したように、縁を切ったりするわけだ。

 離婚が多いのも、結局、豊かな中で巡り合った仲だから、ということになるのか。性格の不一致とかも、生き方の価値観の違いも、ある程度我慢は出来ようが(??)、豊かさという堤防が崩壊したら、もはや一緒に生きられないだろう。「こんなので生活できるのか?」状態では、「美しい言葉」を並べても意味がない。もっとも、一人は食えなくても、二人では食えるから、結婚は合理的であるのだが(たぶん)。

 要するに、これまでの世の中が、あまりにも豊かすぎたのである。豊かな中では、人間関係とか、一個人とか、あんまり鍛えられない。貧しくて過酷な中だったら、逆にひねくれるかもしれないが(貧すれば鈍する?)、世の中を甘く見ないだろうし、自分のことは自分でやるだろう。甘い人間というのは、あまり信頼できない。「楽な仕事しかやりたくない」とか「子供は多いけれど自分は犠牲にしたくない」とか「カネがないのに見栄だけ張っている(車とか別か?)」のをみると、一緒に共同経営したりすれば、すぐに裏切るのだろうなぁ、と予感させる。

 もっとも逆に我が輩の行動も、いろんな視点から観察されているわけで、「は口だけで行動力がないなぁ」とか、「ブログではアチコチ移って一貫していないなぁ(信念が伝わらん)」と思われているのかもしれない(最近は夢見の話もしていないし)。

 やはり我が輩も、豊かな時代に育てられたため(今では悲惨だが)、人間自体が甘いのかもしれない。 なキャラクターがバンバン登場するようでは、あんまり信用できないわい(聖なる木はどうなったのやら

ひたすら体制の維持 ~文明の限界~

2011-04-15 22:04:42 | 自己主張
   やはりブログはまっとうなことを書いても面白くないし、徹底的に自己主張をする場だと思われる(どうせ、スポンサーもいないし…)。アクセス数を減らすために、今宵も酒(海童)でも飲んで、徹底的に何か書こうと思う。そう、3.11以来、世界は確実に変わったのである。

 ネット上では、噂・デマが飛び交っているし、しかしかといって、テレビや新聞の報道もかなり抑制されることは確かである。はっきり言って、国とかマスコミとか信用できない。公共機関はただひたすらパニックにならないように、社会システムが狂わないように、人々を導くだけである。

  その結果何かあれば、軍隊が出てくるであろうし(既に出たか?)、「想定外でした」(これほど酷いとは…)と釈明するわけで、実際問題、福島原発の周辺は「鳥インフルエンザ」が大流行したように、ゴーストタウンになっており、感染地域(避難区域)は拡大し、最終的には相当範囲になるだろう。鳥インフルと違いすぐには死なないが、癌細胞に長時間焼かれて死ぬわけで、結局は同じようなものかもしれない。

 東京に電気を送るために犠牲になったわけであるから、被災者には当然補償金が行くわけで、これもパニックを抑えるための一時しのぎである。ただ他の地域に流れる難民が確実に増えていくわけで、一体彼らの欲求不満やら生活問題、支える側の限界をどう解決するのか。財政はドラえもんの四次元ポケットではないから、どう考えても「争い」が起こるだろう(既に起きている)。

 一体これからのストーリーはどうなるのか? 何せ2012年のマヤの予言の近い。2011年4月から、時が経つにつれてますますパニックが広がるに違いない。国は強権を発動させざるを得なくなるだろう。「国民は一致団結して、頑張って、この緊急事態を乗り越えよう!」と。それで税金が増えたり(募金の代わりです、復興税)、私有財産の自由が制限されたり(移住の土地を開発)、新しい法律がどんどんできるわけだ。決まってしまえば、我々国民は黙ってそれに従うしかない。

 しかし、今回の津波はもはや従来のシステムをぶっ壊したわけで、文明の限界を突きつけたわけだ。何せ、原発は日本には沢山ありすぎて、恐ろしくて生活できない。それでも日本は島国であるわけで、資本主義の原則を守らねば、石油も小麦も入って来ず、今のライフスタイルは維持できない。もちろん、大勢の雇用も、社会秩序も、国家財政も、維持できない。つまりは近い将来、東海地震で浜岡原発とかも二の舞になる(どころではない)のは十分分かっていても、今と同じ体制を保たずにはいられず、まあ、このままでは破局するわけである。「想定外でした」とカネをばらまいて済む問題ではない。我々現代人は気が狂うであろう。

 いや、東北沿岸やら福島原発で追い出された人たちは、もう気が狂っていても不思議ではない。新しい生活にはカネが不可欠だから、補償が頼りなのだが、どこまで補償してくれるのか。「がんばろう!」だから自助努力が基本で、パニックにならない程度にカネを渡して、後はグローバルな資本主義にゆだねることになるだろう。しかし応援セールで汚染された食品をどんどん買うとか、被災者をたくさん雇用するとか、普通の経済主体はそんなことはやらない。市場では必要のないものは弾かれるわけである。原発から遠い食品が売れ、低賃金な中国やらベトナムでたくさん雇用があるのである。

 もう生活は出来ないのは分かっているのに「がんばろう!」とか言ってる公共機関は、全然信用できないのである。被災者を導くビジョンなど何も持ってやいない。もっとも、人間を導くというのは、「自由主義」だから国家のやることではないのかもしれないが。

 あらゆるものが、カネだけの関係だから、信用できない。こうなってしまえば、インディアンの長老とかが必要になってくるのだが、これもカスタネダの「ドン・ファン」レベルでないとだめか。

 もはや導いてくれるものはナワールしかいない! しかしナワールなど全然見かけない!(カスタネダの本の中だけ…)。何か禅僧とかにも近いような気もするが、救いというのも自分のエネルギー状態、「意識」にあるということか。

ナンセンスなスローガン、「がんばろう!」

2011-04-14 23:49:08 | 苦しみを分かち合う
  たまには真夜中に酒でも飲んでブログを書きたいこともある。愚痴かもしれないが、テレビをつければ被災地の惨状やら福島原発やら出てきて、「がんばろう!日本」とかで被災者を励まそうとしているが、何かがずれているような気がする。今でも、みんなリーマンショック以降の不況下を頑張って生きているのに、いまさら何を頑張るのだ。国家など税金ばかり取るばかりで、別に国民に仕事を与えるわけでもない。大勢が低賃金で耐えて「頑張っている」わけである。オーバーワークしている人々からすれば、「?」以外の何ものでもない。

 テレビにつられて「がんばろう!」と励まそう人たちは、本音ではない。被災者はスケープゴートのようなもので、「もっと不幸な人がいるから…」というネタに過ぎない。本当に「がんばろう!」というのなら、家族と別れ、家も捨て、仕事も捨てて、一からスタートして見本を見せてもらいたいものだ。頑張ろうにも、頑張るための土台がない。

 所詮、他人事であり、無責任な発言である。本当に自分がその立場に置かれたら、「がんばろう!」と叫ぶ連中がかなり偽善的に聞こえるだろう。そう、彼らの多くは、どん底を経験したことがないのだから。我が輩とてまだまだ甘い。こんなブログを書く余裕があるのだから。

 同情はしても、自分が体験するわけではない。「苦しいだろうが、頑張ってくれ(私でなくて良かった…)」。こういうことだ。被災者と一緒に苦しみ、仕事し、特殊な世界を味合うものだけが、被災者と分かち合えるのでは。

 こんな感じではマンダラ思考させられ、大勢が「被災者の立場」を本当に味あわさせられるような気がする。次の自然災害か、もしくは福島原発のメルトダウン…。特に後者は可能性が低くなくて、死の灰がまき散らされるかもしれない。現に、原発の循環システムは崩壊しているわけで、ただ冷却のために海水で洗い流しているだけ(汚して海に戻す。永遠と)。格納容器やら圧力容器にはすでに穴が開いているようで、システムの復旧も無理らしい。蒸気性でない放射物(プルトニウムとか)が大規模に出ていないことだけが救いだが、いつ爆発して飛び散るか分からない。とんでもない原爆が秒読みかも知れないのに、政府やらマスコミは黙っている。パニックになって経済システムやら社会秩序が崩壊するのを恐れているからだ。

 そうなると今、ミネラルウオーターやら納豆、ヨーグルトが品切れになっているより遥かに深刻な事態が起きるだろう。きっと缶詰やら米やら塩やら油やら買いだめが起こるだろうし、逆にブランドやら奢侈品は売れなくなるか。しかし本当に爆発したら、みんな逃げるから、そこにある生産設備やらルーチンワークを「頑張る」こともできないわけだ。「助けて!」と叫ぶしかない。しかしやっぱり自分で「頑張る」しかないわけか(??)。その時点で、多分、国家財政が破たんし、大インフレーションが起こるか。

 マイナス思考でグダグダ書いて恐縮だが、経済大国日本といえども、グローバル経済の中の一つにすぎない。利益を生み出す企業体の集積の上に成り立っており、国家財政は単にそれから税金をとってきたものにすぎない。税金をばらまいたり、補償補償では持たない。現に財政赤字は今でも酷すぎるのだ(1000兆円だ)。まずは税収を増やすために、個人というより「会社が頑張らなければならない」が、電気も出ない状況では話にならないし、そもそもデフレ不況、産業の空洞化で日本には頑張るビジョンすらない。何を頑張るのか? もっと具体的に、寄付を頑張る、今ある仕事を頑張る、ボランティアを頑張る…、いろいろありすぎる。

 カスタネダ流にいうなら、今あるエネルギーを増やすのを頑張るというのことになるのだが(それで「見る者」になれるようだ)。

予言を知っても…

2011-04-13 06:19:26 | 悪魔か、踊りか、占いか、禅か、無か
  何か地震が未だに収束しないせいか、予言な検索での訪問者が多い(オニ三郎、ラビバトラ、マヤの…)

 やはりこれからどうなるのか心配だから、ネットで「予言者」を調べているのですね(こんなブログに依存するようではネットも…)

 ただ南海地震、東海地震、南関東地震がもうすぐ来るとか、浜岡原発とかの危険性を知っても、引っ越さねば意味がないし、現実問題、ほとんどの人は無理だろう。地域に根付いているからである。収入やら人間関係やらおいそれと一気に放り投げるわけにもいかない。

 死ねば全てがなくなる。しかしもうすぐ自分が死ぬとは誰も思っていない。やはり人間みな、自分だけは特別だと思っているわけである。

 カスタネダの本にも、昔のメキシコの呪術師も(伝統に従って修行し、術を身につけていたにもかかわらず)スペインに戦略され、「小暴君」に大勢が蠅のように殺されたとあるし、今回の津波とかでも、(無限の力は)文明人から容赦なく何もかも奪うのだ。

 プライドの高い現代人に対して、大自然は「お前はただの生き物の一つに過ぎない」と力を見せつけているわけである。「人間は違う!」と叫んでも、放射能汚染が広がる現状ではあんまし説得力もない。

 朝っぱらからこんなブログを書いて時間とエネルギーを消耗しているのも、単なる自己満足から来るのかもしれないが、やはり人間はそんな生き物なのである。

「知的に、冷静に、芸術的に」生きようとする人間を、頭で押さえつける力が存在するわけで、さらに麦踏されても直立するだけの生命力があるかどうか、試されるのかもしれない。まあ、プライドのないブログだと踏みつける気も起らんか(我が輩はインディオです)

自力の困難

2011-04-12 06:37:50 | 考えるインディオ
  疲れが酷いと熟睡し、夢を見ても覚えていない。眠りが浅い方が鮮明であるような気がする。夢見を発達させたいのだが、本を読むだけでは難しく、ナワールが必要なのか(ナワーリズムか)。呪術?に限らず、何事も自力でというのは困難を伴う。

 カネを稼ぐのも自力で10万稼ぐのは、勤めて稼ぐのよりも何倍も難しいだろう。会社という組織は、リアルに資金とか販売網とか設備とか持っているわけで、今すぐ個人が仕入れて客を見つけて売り上げるのも出来ないことはないだろうが、生活できるだけのカネにはなるまい。必要なものは既に市場にあるわけだし、得体のしれないな輩から買う理由もない。あるとしたら、農家直売のコメとかか(小遣いになる程度)。皆、経済システムの流れの中で、一つの点として食い込ませているのである。

 タイミングとしては、東北地方が自然災害にあい、福島の放射能汚染も収まっていないので、「田舎移住ビジネス」とかが流行りそうな気もする(自家発電とかもか?)。実際、被災者は我が輩の田舎の実家界隈の市?営住宅(ガラガラ)にも来ているようだが、如何せん、空いている理由は「住んでも職がないから利用価値がない」わけであり、基本、田舎は年金生活者ばかりである。「よそ者」は相当好奇な目で見られるだろうし、タイミングはいいのだろうが、色々ストレスがたまる。ある程度資金があるならば、沖縄とかが良いのかもしれない。

 収入さえ確保できれば、何処にでも住めるものだ。
 ただ、リーマンショック以降の日本で、その難題をいかにクリアするか…。逆に復興需要を目指して東北沿岸部に集中したり…。