インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

発掘活動をしながら

2014-11-09 16:57:34 | 身の回り
  昨日どころか、さっき何をどこにしまったか忘れる雅太にとって、「反復」は骨の折れる作業であった。これまでの日誌やら手帳、利用した本やら音楽などを手掛かりに、時系列的に思い起こしているのであるが、高校時代やら中学時代ともなると、さすがに当時の物体が手元にない。そこで雅太は実家に戻り、マスクをし、ビニールの服をかぶり、二階の押入れを漁り始めた。ちょうど両親が不在なこともあり、「二階でクマが暴れている」というクレームはない。

 ダンボールをはぐってみると、出るわ出るわ、半分いや、ほとんど未使用のノートやら参考書、問題集の類が。雅太は、よくぞまあ、こんな勿体無い、業の深いことをやりまくったと、あっけにとられる。雅太は特に中学校時代、理科が苦手だったこともあるが、理科の教材がざくざく出た。不得意だから、参考書が増えたのかと思いきや、比較的得意だった英語も、かなりある。なるほど、これが今のゲートウエイエクスペリエンスに続いているのだわい、と思いながら、発掘して、大移動し、雅太の部屋に陳列する。高校時代はバブル景気のこともあったのか、収拾がつかないほど教材を買いまくっていた。

 今でも役に立つのはあるのか。カスタネダを読むための英語と、小説を書くための小論文やら国語ぐらいか。「英文法」なんてものは、意識したほうがいいのか。第一、雅太は活字を読むとき、日本語の文法を意識していない。内容を吸収することが一番なのであり、結局、英語力とは「個人的な力」なのかもしれぬ、と思ったりする。

 参考書の表紙を一つ一つ拭いているうち、雅太の過去がふつふつと蘇る。それは何も考えていない、周囲に操られてたような、無邪気な頃であった。すぐに怒り、感動すればすぐに泣く。風見鶏のように流された。新しいものが湧いては消えた。それはアニメなどのテレビ番組や音楽CDから、お菓子やゲーム、服、いろんな商品であり、そちらはゴミと化し、「本」ぐらいが雅太の家では遺跡として残されていたのである。

 その残留思念の塊を手に、雅太は回想した。そして、今、手にしているカスタネダのシリーズさえ、10年後には壮烈な思念の篭った遺物として、発掘されることになるのであろうか。(古代アメリカの遺物をメキシコの征服者がことごとく焼き捨てたのも、きっと想像を絶する恐怖からだろう)。

 死後、雅太が幽霊となって現れるとしたら、まさに実家であるに違いないと思ったりする。そうでなくとも、体外離脱のスタート地点は、実家であるわけだ。ただ次第に、それはこのアパートに移動し、長くなれば、ひょっとして、ここが第二の地点になるのではないかとほくそ笑んだりする。こうして考えてみると「借家は怖い」と思ったりするのであった。

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