インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

第二回目、過去の発掘

2014-11-30 17:56:45 | 身の回り
  実家に戻った雅太は、3週間ぶりに、反復のための発掘をした。雅太の部屋は別の家(納屋?)にあるのだが、前回は母屋の二階の押入れの中を探った。今度はそこに入りきらなかった過去の遺物がある埃だらけの屋根裏にある箱を引っ張り出したのである。前回より重装備でマスクをし、埃除けをかぶって、塵の積もった箱を引っ張り出す。

 本来なら呪術の教科書通り、洞窟の中でも入り、首を左右にゆすりながら、思い起こす必要があるのだが、そんな悠長なことはしていられないし、第一思い出せるわけがないのだ。遺物を見るのが早いのである。

 箱を開ける雅太は、30年の時を超えたタイムカプセルを開けた思いだった。元旦のマラソン大会やら、小学校の運動会の記録とかが、ファイルに挟まれており、「町内の小学校五年生で幅跳びの記録が5位」というのは、当時としては上しか見ていなかったのでゴミ同然であったが、そこそこだったのではないのか、と感銘したりするのだ。雅太は中学受験を敢行したのであるが、参考書が出てきて文章題で「旅人算、和差算」とか目にして、そういえば、そんな奇妙な算数と格闘したなと唖然とするのである。

 それにしても、雅太が思い知らされるのは注意力があちこちに散らばっているという事実である。日本の教育システムが詰め込み方式だったので、仕方がない面もあるのだろうが、あれこれ手を出しすぎ、絶望的なまでに一貫していない。まさに、転職を繰り返したり、あれこれ書き殴っているこのブログをそのまま反映しているような、過去の遺物である。一体何を考えていたのであろうか。なんの戦略もないに違いない。

 全てが中途半端で終わっていることが判明した雅太は、このブログ、得体の知れない呪術、これをもっと戦略的に、基本に忠実に続けていこうと決意したのであった。
 

なぜブログを書くのか、雅太よ

2014-11-25 17:46:07 | 自己主張
  雅太は実家から大根や白菜を持って帰るたびに、煮物ばかりをこしらえて食べていた。ヤリイカやら半額の金目鯛やら、適当に放り込み、豆腐や卵を入れ、ポン酢で仕上げるわけである。冬は鍋であり、餅やら椎茸やら、いろんな具材を放り込めば良いので、飽きがこない。

 ただ満腹となったら頭が愚鈍になる。雅太も、今、一体何を書いているのか、何を書かんとしているのか、見当がつかず、ただ、そういえば、最近ブログを書いていないから何か書こうという程度だったりする。

 毎週決まった日に、決まった時刻にブログを書く人もいるだろう。中には取材とかして、念入りに準備し、連載作家のごとく、書きためたのをじわじわ出しているブロガーもいよう。

 しかし雅太は突発的で、合理的な書き主ではなかった。毎回毎回、カスタネダを題材にしているものの、一体自分が何を書いているのかわからず、それゆえに読み手も首を傾げることも多いだろう。「イーグルを伝えるのだ」という使命を掲げながらも、結局、自分が見て、自分が勝手に感じているだけなのである。

 どんなに美味い料理を作っても、写真だけで味わうことはできない。実際に、それぞれが食べるしかないのである。「世界は自分の意識である」がゆえに、本当に古代メキシコの呪術観念が正しいか否かは、それぞれの意識が体験するしかないのであろう。

 ここまで書いたとき、雅太はまだまだ壮絶な意識の体験が不足しているように思われるのであった。

 

『風のマジム』、ラム酒

2014-11-20 19:55:32 | 映画や小説、テレビなど
 雅太は、会社で事件を起こしたわけであるが、何とか収束したようにみえる。今のところ、何事も変わっていないが、来週あたり、何か起きそうである。全く会社、職場というものは色んな人間がいて、役職が分かれたり、馬が合う合わないがあったりして、ギスギスしているのだが、やはり、これもヤスリで擦られるような感じで、これが人生の修行なのだと思う。職場とは、人生の修行場なのだ。その結果、個人的な力がついたり、衝撃的な出来事が起こったりする。全く面白い。

 さて、昼休憩に読書をしていたのが『風のマジム』という、南大東島で、ラム酒のベンチャーを立ち上げる女性の物語である。これはどうやら実話のようで雅太がネットで調べると実際にそんなサイトがあった。グレイスラム サトウキビ畑が風に揺れる大平原が彷彿される文章。純国産の美味いラム酒を作らんとする志。おばあ、頭の切れる上司、沖縄的な人情味ある仲間、純文学的で面白い小説だった。

 主人公マジムは、「ラム酒」を社内ベンチャーに応募して、通ったのであるが(その辺はかなりリアルである)、これもまた、人生修行の場の結果であり、その人物の「個人的な力」のなせる技なのであろう。夢をおびき寄せた、彼女はある意味、呪術師かもしれず、拍手を送りたいものだ。

 小説を読んだため、雅太は「COR COR AGRICOLE (アグリコール)」なるものを注文したい衝動に襲われた。ただ720mlで四千円を越えるようだ。

 本を味わい、酒で味わう。

風のマジム 講談社文庫
原田マハ
講談社


 それはカスタネダとかの本も同じかもしれぬ。
 本で味わい、現実で味わう。
 
 世界が神秘的で、底知れぬものであるということ、目の前に現れているのは、すべて意志が、お前に見せているものだということ。それは動物だったり、前兆だったり、死だったり。雅太は、カスタネダの作品の中で一番味わい深いのが『力の話(未知の次元)』なのではないのか、と思うのであった。

なるようになる。

2014-11-13 17:54:41 | 身の回り
  反復を深めていく雅太には、衝撃的なことが次々に起こっていく。会社で揉め事を起こし、予期せぬ展開になっていったりする。それは現在展開中であるゆえに、書くことはできぬが、場合によっては「辞表」を出すか、「異動」になるかもしれぬし、まだ選択肢はある。10年後から見れば、「ああいったこともあったな」と多分なっているだろうが、今は夜も眠れぬほど内的対話やら葛藤が続く。ここ二日、夢も見ていないのである。

 とはいえ、休日の雅太は、バッサリと髪を切り、海岸沿いの温泉サウナに入り、海と青空を眺めながら「なるようになるさ」と、楽天的になる、いや、なろうとする。明日は一体どうなるのだろうか、と思いつつ、今日は早めに寝よう、その前に心境でも綴っておくか、とキーボードを叩く。

 雅太も来年は厄年と言うわけで、不安がないわけがない。温泉に入る間も、エレベーターの貼り紙をみながら、「我が車も車上荒らしが・・・」とよぎるも、確率的にほとんど起こらない。そういったものを貼ること、目撃することこそ、不安を煽る原因かもしれぬ。会社でも40過ぎれば職が、と皆んな口を出す。そういった行為がさらに不安を煽り、そういった雰囲気が日本を、世界を、席巻するのだろう。

 どうなるかはわからない。どうなるかは、その人の「個人的な力」ということになろうか。明日、雅太がどうなるかも、雅太の個人的な力の結果なのである。コインはその通り出る。裏と出れば、それに従うしかない。環境というのは人知の力を超えている。今日は青空で鳥が自由に羽ばたいていた。それは一体どういう前兆なのだろうか。

 そう思いながら、雅太は昔書きくさしたノートを取り出す。大昔「数列」というタイトルで10頁しか使っていなかったりする残りを、雅太は罪滅ぼしで利用するわけである。甘酒を飲んで早く寝ようと思うのであった。

発掘活動をしながら

2014-11-09 16:57:34 | 身の回り
  昨日どころか、さっき何をどこにしまったか忘れる雅太にとって、「反復」は骨の折れる作業であった。これまでの日誌やら手帳、利用した本やら音楽などを手掛かりに、時系列的に思い起こしているのであるが、高校時代やら中学時代ともなると、さすがに当時の物体が手元にない。そこで雅太は実家に戻り、マスクをし、ビニールの服をかぶり、二階の押入れを漁り始めた。ちょうど両親が不在なこともあり、「二階でクマが暴れている」というクレームはない。

 ダンボールをはぐってみると、出るわ出るわ、半分いや、ほとんど未使用のノートやら参考書、問題集の類が。雅太は、よくぞまあ、こんな勿体無い、業の深いことをやりまくったと、あっけにとられる。雅太は特に中学校時代、理科が苦手だったこともあるが、理科の教材がざくざく出た。不得意だから、参考書が増えたのかと思いきや、比較的得意だった英語も、かなりある。なるほど、これが今のゲートウエイエクスペリエンスに続いているのだわい、と思いながら、発掘して、大移動し、雅太の部屋に陳列する。高校時代はバブル景気のこともあったのか、収拾がつかないほど教材を買いまくっていた。

 今でも役に立つのはあるのか。カスタネダを読むための英語と、小説を書くための小論文やら国語ぐらいか。「英文法」なんてものは、意識したほうがいいのか。第一、雅太は活字を読むとき、日本語の文法を意識していない。内容を吸収することが一番なのであり、結局、英語力とは「個人的な力」なのかもしれぬ、と思ったりする。

 参考書の表紙を一つ一つ拭いているうち、雅太の過去がふつふつと蘇る。それは何も考えていない、周囲に操られてたような、無邪気な頃であった。すぐに怒り、感動すればすぐに泣く。風見鶏のように流された。新しいものが湧いては消えた。それはアニメなどのテレビ番組や音楽CDから、お菓子やゲーム、服、いろんな商品であり、そちらはゴミと化し、「本」ぐらいが雅太の家では遺跡として残されていたのである。

 その残留思念の塊を手に、雅太は回想した。そして、今、手にしているカスタネダのシリーズさえ、10年後には壮烈な思念の篭った遺物として、発掘されることになるのであろうか。(古代アメリカの遺物をメキシコの征服者がことごとく焼き捨てたのも、きっと想像を絶する恐怖からだろう)。

 死後、雅太が幽霊となって現れるとしたら、まさに実家であるに違いないと思ったりする。そうでなくとも、体外離脱のスタート地点は、実家であるわけだ。ただ次第に、それはこのアパートに移動し、長くなれば、ひょっとして、ここが第二の地点になるのではないかとほくそ笑んだりする。こうして考えてみると「借家は怖い」と思ったりするのであった。

来年こそゲートウエイ・エクスペリエンスを

2014-11-02 18:05:05 | 実用書
  雅太の頭の中は、常時カスタネダの文言が踊っている。全巻丸暗記するのを趣味とするくらい、刷り込んでいたわけである。
  雅太は人一倍「耽溺しやすい」性格なのかもしれず、どう考えても常識では考えられない内容を、真実であるに違いない、と洗脳していたわけである。日本の人口からして、100人以上はドン・ファンシリーズを聖書としているかもしれず、目指すところはダブルの開発ということになろう。

 現代は余計な情報が多いので、「戦士たち」は常に綱渡りをしているようにも思われる。資本主義社会の中で翻弄され、自由というより、奴隷な方向に、強い風が吹いている。雅太も全くそうで、日常生活のエネルギーの大半は、それに注がれてしまっているわけである。

 雅太の机のわきの本棚に、群青色のCDが束になって並んでいた。ちょうど3年前、2011年末に調達したゲートウエイ・エクスペリエンスである。調達前は大いに期待したわけであるが、今となっては睡眠音楽として、放置されたままとなっている。今でも、「これを聞けば、寝るだろうから…」と手を付けずにいる塩梅であった。体外離脱をするには、マジカルパスやらサウナ&コーヒーのほうがよほど効果があり、さらに「夢日記」を詳細につければ、だれでも可能であるとさえ思われてくる。ということは、ヘミシンクは別の効果が表れることになるのであろう。

 ただ、『呪術師の飛翔』でヘミシンクに似たような内容が登場するのは驚いた。「呪術師のマスター」の章で、「レゾナントチューニング」そのものの教えがエイブラーさんの口から語られているのである。雅太は、あの本はゲートウエイに対応しているではないかと思い、それならば、「ダブル開発のためにゲートウエイを有効活用できるのでは」と考えたりする。ネリダも「音が霊体を引き付ける強力な手段である」と語っている。

 現代の科学技術、音響効果は、ひょっとしたらダブルの開発を促進させるのではないか、と思ったりするのだ。そもそもこれだけの情報社会であるから、「これがいい」「あれがよかった」という感想が2チャンネルとかで飛び交っているはずである。面倒なので雅太は調べていないが、ゲートウエイ経由でもダブルは開発されうるのであろう。ロバート・モンローなんて、夢見の門をほとんど突破したのではないかと思ったりする。つまり、彼は非有機的存在へと姿を変えたのである。カスタネダによると、古代メキシコでは何千人もの呪術師が非有機的存在へと姿を変えたという話だが。

 毎年のことではあるが、雅太は戦略を変えてみようと思ったのであった。