寒暖の差が激しい。夕方は20℃を超えていたのに、朝は11℃だった。今朝は被災地は軒並み氷点下を超えているらしく、過酷である。古代メキシコの呪術師とかも、ストレスやら空腹・疲れの酷い状況で、集合点を移動させるのに成功し、『夢見の技法』をつくり出したようだ。我が輩も全身が冷たくて空腹で疲れていたような精神状態を体験したことがあるが(少しだけ)、物凄く直感が研ぎ澄まされ、最強なAIの将棋相手にいともたやすく勝った経験がある(試しにとはいえ、何てつまらんことをしたのだ!)。しかし風呂に入り、食べてぐっすり眠ったら、なまくらな元の状態に戻っちまったわい(今朝も朝飯をたっぷり食べています)
それにしても、夢を見ている最中、自分の手を見ることが、本当にできるのか。今朝も夢は見たのだが、それは流れるままに任せるような夢で、手をじっと眺めるような余裕というか状況などなかったような気がする。夢の中では確かに意識はするのだが、そんなに深く考える間もない、ぼんやりとした意識で、「おや、そういえば…」という間もなく、いきなり思い切ったことを叫んでいたりする。現実では頭では考えても黙っているし、考えただけで行動しないことの方がはるかに多い。いろいろ計算するわけである。その上で最悪の結果にならないように行動するわけだ。
夢の中でも一応理性があるのだが、こちらも相手もストレートな世界で、喧嘩したり泣いたり、状況は動きまくる。じっと手を見るとしたら、かなり冷静な行為だ。夢の経験をいくつも積み重ね、もはや『クロッシング』に出てきたリチャード・ギア警官のように、「夢でのドタバタなら幾らでもあるさ」と超然としていなければならないだろう。夢の主催者?は、確実に夢見るものを振り回したがっている。
現実世界もそうなのかもしれない。「エネルギーの蓄積と呪術な修練に努める」ことによって変わってくるのは、夢だけではないかも。
それにしても、夢を見ている最中、自分の手を見ることが、本当にできるのか。今朝も夢は見たのだが、それは流れるままに任せるような夢で、手をじっと眺めるような余裕というか状況などなかったような気がする。夢の中では確かに意識はするのだが、そんなに深く考える間もない、ぼんやりとした意識で、「おや、そういえば…」という間もなく、いきなり思い切ったことを叫んでいたりする。現実では頭では考えても黙っているし、考えただけで行動しないことの方がはるかに多い。いろいろ計算するわけである。その上で最悪の結果にならないように行動するわけだ。
夢の中でも一応理性があるのだが、こちらも相手もストレートな世界で、喧嘩したり泣いたり、状況は動きまくる。じっと手を見るとしたら、かなり冷静な行為だ。夢の経験をいくつも積み重ね、もはや『クロッシング』に出てきたリチャード・ギア警官のように、「夢でのドタバタなら幾らでもあるさ」と超然としていなければならないだろう。夢の主催者?は、確実に夢見るものを振り回したがっている。
現実世界もそうなのかもしれない。「エネルギーの蓄積と呪術な修練に努める」ことによって変わってくるのは、夢だけではないかも。
冷静なコメントにただ者ならぬ気配を感じますが、やはり本格的な夢日記は必要なようですね(細部まで細かく思い出すための。絵とかも書けるような)。自分も「手を見よう」だけでなく「思い出そう」と念じながら眠ることにします。
それにしても、「3年で300の夢をつけ」、「手を見て」30年経った、ということは、現在はかなりのところまで行っておられるということでしょうか。
自分は経験浅く、いい加減な部分もあり、大先輩を前にして、聞きたいことが沢山あります(ひょっとして我が輩のような人が何人か見ていたり…)。
やはりマジカルパスを厳密に実践することが重要なのでしょうか。
カスタネダシリーズで(まだ読んでいない巻もあり)、これが決定的に重要だが、あれはそうではない、とかいうのはあるのでしょうか。
ドンファンのような人を見たことはあるのでしょうか。魑魅魍魎な非有機的存在について。
刺激になりました。夢日記ノートを独立させ、もっと徹底的に本に書いてあることに励んでみようと思います。どうも有り難うございました。
ただ、そうしたことから少し離れて暮らせる年齢になってきたので、実践を少し進めたいと思ったところです。そんなおりに、こちらのホームページを見たのです。
カスタネダについては、多くの人が興味関心を持って言及しているのですが、実践についての知見は無いに等しくて、結局カスタネダの本しかテキストが無い状態と思っています。また、体験も見かけますが、この後を読んでもらえば分かりますが、ちょっと伝わりきらないものになりがちのように思います。
質問のマジカルパスですが、私も本は持っていますが、太極拳やヨガにある数種類のポーズを使って、体のゆがみ調整や疲労回復などに役立てているので、マジカルパスは何もしてません。
何回も読んでいるのは呪術と夢見、沈黙の力でしょうか。
夢見のできる状態を作るためには内的対話を止めることが最重要なのですが。そのための訓練について触れた2つの部分、先にも書いた視点の移動と月夜に草原を走るなどの訓練。もう一つは、思い出すというキーワードで語られる「今日一日の体験とそれ伴う感情と思考の詳細をすべて思い出す」という訓練。この2つのどちらかを実践してみることです。
内的対話を止めることと思い出すことは、ともに夢を見せる側の働きを弱めるものです。言い方を変えれば、フロイトやユングがいう無意識が働いて作り出す夢を弱めることができると思われます。つまり、生まれてこのかた内的対話をしたことのない人間は、夜に夢を見るだろうか。
昼間の情動の揺らめきを解決する要請が少なくなった夢の中では、夢に引きずられないで自らの意識が夢の中で目覚める可能性が高まり、手を見ることを思い出せることになる。そうすれば手は見ることができる。
一日を思い出すも同様な効果があります。今朝起きて、窓の明るいカーテンを見て、次に時計を見て、階下からの妻の呼ぶ声がして・・・、昼間に会社では、上司に新たな仕事を命じられ、お茶を運んでくれた同僚女性にありがとうと言った・・・
これはほんの一部ですが、それらのシーンの全てに感情や思考や内的対話が付随しています。その付随するものをすべて思い出すのです。思い出すだけです。これも、夜見る夢の側の見せる力を弱めるものになります。これをドンファンは生まれてから今までの全てを思い出せと言っていたと思います。ともかく、いっぺんにはできないので、実践を積み重ねて行くことで解きほぐれてくると思いますよ。
ドンファンのような人は会ったことも見たことも無いですね。
非有機的存在ですね。あります。眼前30センチの至近距離で、浮いている鬼のような顔だけ。画像的にはハイビジョンのように鮮明でした。怖くて悲鳴を上げました。こんど遭遇したら恐怖に負けないように対処しようと思っています。
また、青の使徒とも呼ばれてませんでしたか。私たちが内的対話を行うために使うエネルギーを捕食するではなかったと記憶しています。つまり、私たちに感情を持たせ、夢を見させる張本人(黒子?)。
さて、内的対話を止めることは、だれにでもいとも簡単にできることです。それをカスタネダは書きました。視点の移動です。「眼球を動かす」です。
たとえば、やってみてもらうと分かりますが、あなたが今ここのパソコン又はiPadのような端末のディスプレイを見ているとして、あなたの後ろにある何かの物体に振り向いてそれを見てください。
振り向いて、その物体を認識(色->形->名前)するまでの間、特に目が空間を横切って対象の物体を捉えるまでの間、何も考えることができないはずです。つまり内的対話が止まっているのです。
物体を捉えて、物体の名前まで認識すると思考が、内的対話が騒がしく始まるでしょう。
止めることは簡単ですが、停止の持続がともて難しい。
「内的対話を止めること」「思い出すこと」で、夢を見せる側の働きを弱め、自らの意識が夢の中で目覚める(手が見られる)、というわけですので、
何とか、グダグダ考えるのをストップさせたいのですが、自分の場合も(?)それは息を止める如く、難しいです。
「一日を詳細に思い出したり」「視線を動かしたり」して、とにかく夢見の努力をしてみることにします。確か、ドン・ファンは「頭をゆっくりと左右に動かしながら、過去について詳しく思い出せ」とカスタネダに言っていましたが、まさに反復と視線移動を兼ねていた訓練なのでしょうね。
非有機的存在を、自力で見られたようですが、実にすごい体験だと思われます。長い年月様は、きっとエネルギーが二重構造になっておられるのではないでしょうか(ナワールですね)。
そういえば、「わしにはエネルギーが見えるのだ」とドン・ファンが言っていましたが、「内的沈黙で、世界が止まると、実際にエネルギーが見える」ものなのでしょうか(もちろん、目で見るわけではないのでしょうが)。
目で見ていないはずなのに、モノが見えるという体験を、我が輩も夢の中ではするのですが、何かエネルギーというより、変てこなものなので、やはり次元が違うのでしょうね(?)
さっそく『呪術と夢見』『沈黙の力』などネットで注文しました(全巻そろいます)。
親切丁寧なコメントに大いに感動しました。どうもありがとうございました。
草原を走るのは砂浜を走るのではまったく異なりますよ。砂浜ならば、二人でするんです。列になって歩くんです。先に歩く一人の足跡を一歩一歩、二人目のあなたが丁寧にトレースして歩くのです。これも内的対話が止まった感覚を会得する一つの方法です。
草原を走るのは、中沢新一の「虹の梯子」に出てくる風の行者と思います。また、ジョージ・レナードの「達人のサイエンス」のソフト・アイのことです。ソフト・アイで凸凹した草原を月夜に疾走するんです。その昔、家の隣にあった高校の草ボウボウの校庭で深夜に訓練したなあ。不審者と思われるんじゃないかと心配もしたもんです。
この世界、のめりこむと日常生活のリズムを崩すので、普段の生活しながらするのは、なかなか苦労すると思う。
内的対話を止めるための「月夜の草原を走る」に似た体験は、職人さん、スポーツマンなどは、さまざまな集中したシーンで行っているわけで、一般的にパチンコやゲームをしててもあるでしょうね。それとは気が付いてないだけで「無心」。
こうやってグダグダ書いていると、ドンファンがたびたびカスタネダにノートを取るのは止めろ、と言っていたことを思い出します。それにしてもTwitterやFacebookなど書くこと?が多くなったもんですね。
大変参考になります。草原で走るのと、砂浜でやるのとは違うのですね。「草原」が、見当たりませんが、芝生か何か見つけて走ってみます。
ジョージレナード、サイレント・パルス、ソフト・アイ…、どれも初めて耳にしますが、さっそく調べてみます。
無心になるために、集中している人間は、何かしら「目つき」が鋭いような気がしますね。夜中にロウソクの炎をじっと見つめるというのは…、目に良くないだけでしょうか(笑)。
便利なネットな社会は、ドンファンからしてみれば、どう感じられるのか、興味があります。「罠にかかったウサギ」ということになるのでしょうか。
3作目の「呪師に成る」に 力の足どり という項があります。昼間走るのと同じくらい速く、安全に走れるようになる と言っていますね。
そして、第4作の「未知の次元」の呪術師の戦略の項で、それが内部の対話を止める最も効果的な方法である と言っています。
密教と呪師に同じ修行が存在するということです。
こうやって読み返してみると、こんなもの読んでいたのかと驚きましたね。再認識する良い機会となりました。これで失礼します。
本棚にズラリと並んでいますが、おっしゃられたとおり、「実践」しなければ意味がないわけで、
しかしこんなブログをグダグダ書いていていいものかどうかジレンマに陥っています。内的会話が酷すぎますので。
とりあえず、夜中に、広い場所、駐車場とか公園で、しばらく走ってみることにします。
アドバイス、どうも有り難うございました。
まあ、危険すぎない場所かな。それは、カスタネダを読めば、気を抜けば転ぶような、石ころや草が茂る場所ってことです。決して駐車場や公園ではないでしょうね。荒れた河川敷とか手入れの生き届いてない広場。
「気を抜けば」とは「内的対話をした途端」ってことです。
ぼんやりと前方を見るってことも忘れないで。
体得を祈ります。