インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

breaking bad

2015-01-30 21:29:39 | 映画や小説、テレビなど
 この二週間、雅太は深夜まで映画を見続けていた。タイトルは「ブレイキング バッド」。そもそもの発端が、雅太の英語学習から始まった。昔の学習参考書など「反復」を兼ねておさらいしていたが、「生きた英語」とは言い難い。本来ならば渡米し、肌で感じるのが一番なのであろうが、そんな余裕はなく、「字幕で英語を見よう!」が脳裏をよぎったのだ。雅太はかなりの間、レンタルショップへ行っていなかった。そのせいか、見慣れぬ面白そうなのが多かった。その中で、とりわけ雅太の興味を引いたのが、「高校教師が癌になって、麻薬作りに走り、、」という筋書きのアメリカテレビドラマである。

 直感で面白そうだ。雅太はとりあえず、一話だけでも見てみることにした。面白すぎ、蟻地獄に転がり落ちた。麻薬作りがテーマの作品であるが、このテレビドラマ自体が、とんでもない麻薬だったのだ。

 観客を蛇の生殺し状態にして、一話一話を完結していくという、悪魔がこしらえたとしか思われない代物である。それは「プリズンブレイク」を超えており、それはあまりにも切実で、普通にあるような、リアルな世界が舞台だからであろう。普通の人間が抱えている問題、究極の選択を、ドラマで表現しているのである。

 主人公50歳、ウォルター・ホワイトは、ガン宣告をされたわけであるが、妻はまだ妊娠中だし、障害の息子もいて、「金を残さずには死ぬに死ねない」。本当は能力がずば抜けているのに、「才能を眠らせたまま終わろうとしている」。呪術師の観点からすれば、「死」の、忍び寄り効果で、主人公は大胆な行動に走りはじめた。「I am awake」

 かつての教え子の不良ジェシーと、キャンピングカーで科学製品(麻薬)を作り始めるのであった。そして類は友を呼ぶ、引き寄せの法則で、ぞろぞろと悪い奴らが、主人公の目の前に現れてくるわけである。

 雅太は聞き取れる範囲で解釈し、字幕を追った。「OUT!」という表現だけで、「ちょっと出かけてくる」とかいろんな意味を表しているのがわかった。主人公は最後、I was in alive(生きている実感があった)と燃え尽きて、後悔などしていなかったようだ。ラストまで観たら、考えさせられる人は多いのではなかろうか。主人公の最後の2年は、食うか食われるかの世界で、神懸かり状態だったとも言え、そういう時期を体験できただけでも幸せだったかもしれない。

 善悪を超えて、なんと素晴らしいモデルだ、ただ細く長く生きて何になるのだ、と雅太は思いつつも、やはり最後まで生に執着するのだろうな、と考えたりする。

 大半の人は、映画の主人公のように、いつかは自分の能力を開花させてやろうと思いつつ、自然とタイムアウトになってしまうのであろう。まさに雅太もその一人で、来年こそは、来年こそはと思いつつ、今の状態から脱出できていないでいる。多少は変化はあるのだが。

 それにしても、人間社会は麻薬作りをみんなしているのではないかと、雅太は思ったりする。なにせ、お菓子とかラーメン、ビール、タバコ、さらには映画やら音楽、小説に至るまで、「やめられない止まらない」状態に人間をはめよう、と会社組織は奮闘しているからである。

 ということは、精神世界も、坊主やら、古代の呪術世界も、そうなのではないか、と思ったりした。

 ということは・・・・ (幕は切れるのであった)

 

2015年、あすなろ戦士たちよ、いざ

2015-01-08 19:44:46 | 身の回り
  雅太は実家が雪で動けず、初詣はしていなかった。厄年であるため、厄払いをしなければならぬのだが、それどころではない。車が動かず、バッテリー交換したり、米を売りに走ったり、果てまた一人暮らしのため、買い物やら食事作りをしたりせねばならぬ。最近では、雅太は英語で呪術師たちの本を読まんとしたり、一方でライフワークの小説の構想を練ったり、あれやこれやと神経を消耗させていく。

 夢見の一方で、反復もしているのだが、やはり努力の割には結果が出ないという、要領の悪い方向に行きかけているような気もする。2014年はまさに、そんな感じだったかもしれぬ。反復にしろ、夢見にしろ、時間がかかるとはいえ、「時間をかければ呪術が身につくというものではない」わけで、やっぱし、雑事にエネルギーを奪われているのが根本問題なのかもしれぬ。

 全てをコンパクトでシンプルにする必要がある。
 夢にしろ、英語にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、インターネットにしろ、全てを呪術に結びつける必要があるわけだ。
 音楽はヘミシング系を聴き、英語は呪術師の書いた英文を読む。眼球を動かす。ブログの内容は、無論、これまで以上に、呪術の色に染める。

 その姿は、受験生が鉢巻をして片手参考書に、入試に合格しようとしているのと似ているのかもしれない。
 
 だが、「小学生が、高校の教科書を読んで、東大に合格するだろうか?」と考えたとき、無謀なことをしようとしているのかもしれぬと思ったりする。確かに8年前は、教科書に何が書いているか皆目わからなかった。さすがに最近は分かるようにはなったが、自由自在に応用が利くようになるには、教科書を見下ろすレベルでないとダメなのだ。

「今さらこんなことが書いてあるの? そんなの当たり前じゃない」と読みこなす生徒こそが、難関を突破する戦士なのだろう。

 つまり幼少から刷り込まされているのが即なる戦士で、今さら本を読んで頑張ろうとするのは「あすなろ戦士」で、いつなるかわからない部類の戦士なのだ(なる=見るもの)。

 こう考えてみると、雅太はやる前に全てが決まっているのではないかと思ったりするのであった。