インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

3月半ば、見知らぬ味

2015-03-15 19:46:33 | 身の回り
  雅太は昨夜今日と、温泉やら買い物で散財し、冷蔵庫にあるものを利用して、夕食をこしらえる。じゃがいもに玉ねぎ、白菜に、平飼いの卵、割引の神石牛の少々あった。早速刻んで、鍋を作るもの、味ポン肉じゃがでは芸がない。そこで、「行列ができる博多ラーメン」の残った液体スープを入れてみることにした。

 こんな脂っこいものを入れて大丈夫なのだろうかと思いつつ、体に脂肪がついていないからいいだろうと、ヤケクソで入れてみる。なかなか複雑な味で食べたことがない。お代わりをしたということは美味かったのかもしれぬ。ただ、バカなことをした、味ポンの方が美味かったのではないか、という後悔も残る。

 先週は虫歯の親知らずを抜き、ようやく冷たいものを口に入れることができるようになった。怪しげな小説も快調に進み、今回はいい線を言っているのではないか、と思うも、世の中には凄い本がゴロゴロ転がっていて、それであんまし売れないわけである。最近、『見知らぬ心臓』なんてフランスのノンフィクションを読んでいるが、これも摩訶不思議な実体験、書いて人に伝えるべき面白い内容であろう。

 雅太自身も面白いから書くのであるが、読み手にとって面白いとは限らぬ。役に立つか、感動するか。面白いというのは当てはまるが、それだけでは空回りする。説得力を持つためには、読んでいる間に、不思議なことがバンバン起きるぐらいでないと、ダメなのだろう。著者からすれば、書いている間に。

 ここまで書いたとき、雅太の腹は、濃い脂分のためか、異様なものを食べたせいか、何か重苦しい感じがしたのであった。

雅太の叫び

2015-02-26 20:11:04 | 身の回り
  雅太は小説家を志望していたわけだが、最近、とんと興味は消えうせていた。不惑を過ぎてくると、さすがにフィクション小説という妄想の世界に浸ることに、抵抗が出てきたのかもしれぬ。できるだけノンフィクションに近い文章を志すようになる、つまりこのブログがその一例かもしれぬ。妄想よりも、リアルな夢の出来事をそのまま綴った方が、自分自身に忠実であるし、害は少ないし、自他ともに感動を引き寄せることができるのではなかろうか。

 というわけで、雅太は最近、等身大で特殊なテーマの物語を綴り始めた。完成していないから何とも言えぬが、もはや面白ければ何でもありなのである。材料はそろい、年数がたち、頭の中で発酵している。雅太は書きながら、自分自身を壊していく。ブレイキングバッドに影響されているのかもしれぬ。まさに化学教師宇ウォルター・ホワイトが、麻薬を作るがごとき感じで、雅太も原稿を書いているのだろうか。麻薬のクオリティーが高ければ、需要は伸びていくわけで、ひょっとしたら恐ろしいものを作らんとしているのかもしれぬ、と雅太は思うこともあった。

 たかが原稿だ、とはいえ、ある種の文章は、人間を揺さぶり、破壊していくだけの力を持ているかもしれぬ。強烈に、より強烈にインパクトのあることに、はまっているのは書き手なのだが、それに読み手が同化してしまうと、蟻地獄のごとき引きずり込まれていく。ふつうは拒絶するのであるが、テーマやら書き出し次第では、持て行かれてしまうのである。

 多くの本は、理性的な人間に働きかけているのだが、中にはカスタネダのように、もう一人の人間に働きかけているような本もある。それはうごめく芋虫たちに、蝶になるように誘っているのかもしれぬ。『コンセント』とかもある意味、主人公がそういう風に変化していくわけで、自分を壊すための原稿だったのかもしれぬ。カスタネダに言わせれば、集合点の移動、精霊の来訪、ナワールに触れた、ということになるのか。

 文章といえば、このブログはどうなのか。果たしてもう一人の自分に働きかけているのか。
 あなたよ、一体どこにいる? いや、あなたがこれを書かせているのか?
 ただ今、この瞬間、ちらっと現れた?

 みんな自分の知覚の壁を壊すために、酒を飲んだり、本を読んだり、踊ったり、音楽をガンガン聞いたりするわけで、
 雅太にとっては書くことがその一環なのかもしれぬ。キーボードをたたくその姿は、まさに芋虫が蠢いているのだ!
 いつか蝶にならんと蠢く、指先がもがき、「おお、イーグルよ!」と天に向かって叫んでいるのである。

 イーグルが雅太に見せているのは、今、8年目にして、ブログがこんなになってしまったということだった。

ネズミ、部屋の模様替え

2015-02-08 19:58:34 | 身の回り
  雅太は昨日の朝食中、とんでもないものを目撃した。本棚や机で込み入った部屋の角で、ネズミを発見したのだ。7年近く同じ場所に住んでいるのだが、ゴキブリすら滅多に目撃していない。雅太は昇天し、しばらく身動きが取れなかった。ワンルームに一人暮らしているはずなのだが、別の生き物が棲息していたのだ。さっそく夕方にネズミの粘着シートを仕掛け、朝起きて調べてみたのだが、かかっていない。雅太は乱雑な部屋の構造自体に問題があるのではと考え、机やら本棚などのレイアウトを変えることにした。ナフコへ行き、2段の本棚を一つ買って、7年間で溜まった反復やら夢見のノートを収納することにした。無論、ネズミの罠も毒の餌やらハウス式のやらと、巧妙なのを買う。

 買い物から帰ってみると、雅太は粘着シートに横たわっているネズミを発見した。哀れなネズミは、腹をへこませては膨らませ、金切り声をあげて、暴れていた。無論、脱出できるわけがない。カーペットに溢れた玄米やらエビオスなどを食べていたせいか、色艶の良い、丸々としたネズミであった。これで今晩から安心して眠れるだろう。しかし大丈夫なのかと、部屋の大掃除をしながら、模様替えを始める。所々糞があったので、掃除機で吸い込みながら、不在の時に窓が開いていたからそこに入ってきたのだろうと勘ぐる。窓を家具で少し隠していたのが悪く、やはり、窓際には何も置くべきではないのであろう。

 かくして雅太は新しい環境でブログを書き始めた。心残りはネズミにトドメをさしていないことであろう。生きながら粘着シートに挟まれたまま悲鳴を上げている、しかし何とも出来ぬのである。ブレイキングバッドの主人公も、最初の殺人は最初は抵抗があったが、最後は恐ろしいことになっていた。人間だからといって、ネズミの境遇にならぬとも限らぬし、むしろ癌やらの病気、大地震の下敷きでああならぬとも限らぬわけである。しかし共存はできぬわけで、雅太が平和に生きるためには仕方がないことか。

 そう思いつつ、雅太は夢見のために、風呂に入ってさっさと寝ようとブログを終えるのであった。

2015年、あすなろ戦士たちよ、いざ

2015-01-08 19:44:46 | 身の回り
  雅太は実家が雪で動けず、初詣はしていなかった。厄年であるため、厄払いをしなければならぬのだが、それどころではない。車が動かず、バッテリー交換したり、米を売りに走ったり、果てまた一人暮らしのため、買い物やら食事作りをしたりせねばならぬ。最近では、雅太は英語で呪術師たちの本を読まんとしたり、一方でライフワークの小説の構想を練ったり、あれやこれやと神経を消耗させていく。

 夢見の一方で、反復もしているのだが、やはり努力の割には結果が出ないという、要領の悪い方向に行きかけているような気もする。2014年はまさに、そんな感じだったかもしれぬ。反復にしろ、夢見にしろ、時間がかかるとはいえ、「時間をかければ呪術が身につくというものではない」わけで、やっぱし、雑事にエネルギーを奪われているのが根本問題なのかもしれぬ。

 全てをコンパクトでシンプルにする必要がある。
 夢にしろ、英語にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、インターネットにしろ、全てを呪術に結びつける必要があるわけだ。
 音楽はヘミシング系を聴き、英語は呪術師の書いた英文を読む。眼球を動かす。ブログの内容は、無論、これまで以上に、呪術の色に染める。

 その姿は、受験生が鉢巻をして片手参考書に、入試に合格しようとしているのと似ているのかもしれない。
 
 だが、「小学生が、高校の教科書を読んで、東大に合格するだろうか?」と考えたとき、無謀なことをしようとしているのかもしれぬと思ったりする。確かに8年前は、教科書に何が書いているか皆目わからなかった。さすがに最近は分かるようにはなったが、自由自在に応用が利くようになるには、教科書を見下ろすレベルでないとダメなのだ。

「今さらこんなことが書いてあるの? そんなの当たり前じゃない」と読みこなす生徒こそが、難関を突破する戦士なのだろう。

 つまり幼少から刷り込まされているのが即なる戦士で、今さら本を読んで頑張ろうとするのは「あすなろ戦士」で、いつなるかわからない部類の戦士なのだ(なる=見るもの)。

 こう考えてみると、雅太はやる前に全てが決まっているのではないかと思ったりするのであった。


 

食べ物の「一覧表」

2014-12-21 11:23:48 | 身の回り
  雅太は、買い物から帰ると野菜たっぷりのイカの煮付けを作り、煮込んでいる間、ブログでも書くことにした。寒波の影響で実家に戻らず、アパートに引きこもる日曜日は、傾向として、お決まりの「買いだめ」巡りを行うのであった。雅太の「一覧表」には、お決まりの品物や店が並び、魚はどこで買うか、野菜や果物はどこか、壁画のごとく刻まれていたのである。

 近場に「ええじゃん尾道」というJA主催の、地産地消の野菜売り場で、ミカンやらキウイフルーツ、椎茸やらサツマイモなどを調達する。ビタミンCを補うのである。卵などは平飼いの卵(一個25円と安い)10個入りのを買っておく。鍋に放り込むため、よもぎ餅なども買うのは、雅太が食いしん坊なところであろう。

 激安スーパーでは「味ポン」やら「ヨーグルト」、さらにはなぜか充実している地産地消な魚を調達するのである。イカの類、煮付けに適した魚、さらにはエイなども買って冷蔵庫に放り込んでおくことにした。

 お菓子コーナーでは、とんがりコーンやらピックアップなどを懐かしむものの、食指が動かない。フライ類や砂糖は体に悪いとかあるが、実際に食べていると気分が悪くなるからだ。その中でも、麻薬ともいえる「チョコレート」のコーナーだけ、雅太は気になっていた。唯一買う商品は「チョコレート効果86%」であった。砂糖が少ないこととポリフェノールがどうのこうのが、雅太の唇を釣り針に引っ掛けたのである。74%は甘いし、95%は冷凍庫にあるが減りが少ない。

 菓子パンに至っては、腐らない「ヤ○○キパン」などは、ここ1年めっきり食べていない。実家が農家で、主食を玄米としているので、パンの代わりに、せっせと、むすびを作っているわけである。その割には、餅類には釣り針に引っかかり、おはぎだとか、砂糖が多いくせに、好んでいる矛盾もあった。

 書いているうちに時間が経ち、鍋が煮えており、味ポンと卵、よもぎ餅を二つほど放り込む。酒を少し入れ、食欲をそそる香りが、部屋に充満し始めた。そろそろ食べるか、と雅太はブログを終えるのであった。

第二回目、過去の発掘

2014-11-30 17:56:45 | 身の回り
  実家に戻った雅太は、3週間ぶりに、反復のための発掘をした。雅太の部屋は別の家(納屋?)にあるのだが、前回は母屋の二階の押入れの中を探った。今度はそこに入りきらなかった過去の遺物がある埃だらけの屋根裏にある箱を引っ張り出したのである。前回より重装備でマスクをし、埃除けをかぶって、塵の積もった箱を引っ張り出す。

 本来なら呪術の教科書通り、洞窟の中でも入り、首を左右にゆすりながら、思い起こす必要があるのだが、そんな悠長なことはしていられないし、第一思い出せるわけがないのだ。遺物を見るのが早いのである。

 箱を開ける雅太は、30年の時を超えたタイムカプセルを開けた思いだった。元旦のマラソン大会やら、小学校の運動会の記録とかが、ファイルに挟まれており、「町内の小学校五年生で幅跳びの記録が5位」というのは、当時としては上しか見ていなかったのでゴミ同然であったが、そこそこだったのではないのか、と感銘したりするのだ。雅太は中学受験を敢行したのであるが、参考書が出てきて文章題で「旅人算、和差算」とか目にして、そういえば、そんな奇妙な算数と格闘したなと唖然とするのである。

 それにしても、雅太が思い知らされるのは注意力があちこちに散らばっているという事実である。日本の教育システムが詰め込み方式だったので、仕方がない面もあるのだろうが、あれこれ手を出しすぎ、絶望的なまでに一貫していない。まさに、転職を繰り返したり、あれこれ書き殴っているこのブログをそのまま反映しているような、過去の遺物である。一体何を考えていたのであろうか。なんの戦略もないに違いない。

 全てが中途半端で終わっていることが判明した雅太は、このブログ、得体の知れない呪術、これをもっと戦略的に、基本に忠実に続けていこうと決意したのであった。
 

なるようになる。

2014-11-13 17:54:41 | 身の回り
  反復を深めていく雅太には、衝撃的なことが次々に起こっていく。会社で揉め事を起こし、予期せぬ展開になっていったりする。それは現在展開中であるゆえに、書くことはできぬが、場合によっては「辞表」を出すか、「異動」になるかもしれぬし、まだ選択肢はある。10年後から見れば、「ああいったこともあったな」と多分なっているだろうが、今は夜も眠れぬほど内的対話やら葛藤が続く。ここ二日、夢も見ていないのである。

 とはいえ、休日の雅太は、バッサリと髪を切り、海岸沿いの温泉サウナに入り、海と青空を眺めながら「なるようになるさ」と、楽天的になる、いや、なろうとする。明日は一体どうなるのだろうか、と思いつつ、今日は早めに寝よう、その前に心境でも綴っておくか、とキーボードを叩く。

 雅太も来年は厄年と言うわけで、不安がないわけがない。温泉に入る間も、エレベーターの貼り紙をみながら、「我が車も車上荒らしが・・・」とよぎるも、確率的にほとんど起こらない。そういったものを貼ること、目撃することこそ、不安を煽る原因かもしれぬ。会社でも40過ぎれば職が、と皆んな口を出す。そういった行為がさらに不安を煽り、そういった雰囲気が日本を、世界を、席巻するのだろう。

 どうなるかはわからない。どうなるかは、その人の「個人的な力」ということになろうか。明日、雅太がどうなるかも、雅太の個人的な力の結果なのである。コインはその通り出る。裏と出れば、それに従うしかない。環境というのは人知の力を超えている。今日は青空で鳥が自由に羽ばたいていた。それは一体どういう前兆なのだろうか。

 そう思いながら、雅太は昔書きくさしたノートを取り出す。大昔「数列」というタイトルで10頁しか使っていなかったりする残りを、雅太は罪滅ぼしで利用するわけである。甘酒を飲んで早く寝ようと思うのであった。

発掘活動をしながら

2014-11-09 16:57:34 | 身の回り
  昨日どころか、さっき何をどこにしまったか忘れる雅太にとって、「反復」は骨の折れる作業であった。これまでの日誌やら手帳、利用した本やら音楽などを手掛かりに、時系列的に思い起こしているのであるが、高校時代やら中学時代ともなると、さすがに当時の物体が手元にない。そこで雅太は実家に戻り、マスクをし、ビニールの服をかぶり、二階の押入れを漁り始めた。ちょうど両親が不在なこともあり、「二階でクマが暴れている」というクレームはない。

 ダンボールをはぐってみると、出るわ出るわ、半分いや、ほとんど未使用のノートやら参考書、問題集の類が。雅太は、よくぞまあ、こんな勿体無い、業の深いことをやりまくったと、あっけにとられる。雅太は特に中学校時代、理科が苦手だったこともあるが、理科の教材がざくざく出た。不得意だから、参考書が増えたのかと思いきや、比較的得意だった英語も、かなりある。なるほど、これが今のゲートウエイエクスペリエンスに続いているのだわい、と思いながら、発掘して、大移動し、雅太の部屋に陳列する。高校時代はバブル景気のこともあったのか、収拾がつかないほど教材を買いまくっていた。

 今でも役に立つのはあるのか。カスタネダを読むための英語と、小説を書くための小論文やら国語ぐらいか。「英文法」なんてものは、意識したほうがいいのか。第一、雅太は活字を読むとき、日本語の文法を意識していない。内容を吸収することが一番なのであり、結局、英語力とは「個人的な力」なのかもしれぬ、と思ったりする。

 参考書の表紙を一つ一つ拭いているうち、雅太の過去がふつふつと蘇る。それは何も考えていない、周囲に操られてたような、無邪気な頃であった。すぐに怒り、感動すればすぐに泣く。風見鶏のように流された。新しいものが湧いては消えた。それはアニメなどのテレビ番組や音楽CDから、お菓子やゲーム、服、いろんな商品であり、そちらはゴミと化し、「本」ぐらいが雅太の家では遺跡として残されていたのである。

 その残留思念の塊を手に、雅太は回想した。そして、今、手にしているカスタネダのシリーズさえ、10年後には壮烈な思念の篭った遺物として、発掘されることになるのであろうか。(古代アメリカの遺物をメキシコの征服者がことごとく焼き捨てたのも、きっと想像を絶する恐怖からだろう)。

 死後、雅太が幽霊となって現れるとしたら、まさに実家であるに違いないと思ったりする。そうでなくとも、体外離脱のスタート地点は、実家であるわけだ。ただ次第に、それはこのアパートに移動し、長くなれば、ひょっとして、ここが第二の地点になるのではないかとほくそ笑んだりする。こうして考えてみると「借家は怖い」と思ったりするのであった。

特製のパンを作りながら

2014-10-30 13:07:50 | 身の回り
  厄年を迎えた雅太は、青空の中、買い物ドライブしながら、一体自分の将来はどうなるのであろうか、という不安が過ったりする。40過ぎて独身であり、大した蓄えもなければ、自然にわき起こる感情であろう。休日の雅太は、買い物をし終えた後、玄米と煮付けの類いばかりでは飽きが来たということで、ネギとモヤシを刻み、博多ラーメンを2人前平らげ、さらに、小麦粉にドラーイーストやら牛乳、卵、蜂蜜を混ぜ合わせ、パンを作ってみることにした。

 店で売っているのは小麦粉の由来からして怪しいと雅太は常々思っていた。Y社のパンなど賞味期限は過ぎても一週間ぐらいは腐らないという噂があったりする。何事も実験だと、原材料や設備があるが故に、イチジクとかも練り込み、オリジナルなパンを制作するのである。パンなど作った経験が無いので、食べられるかどうかは未知数である。

 パンなど100円か200円ばかり出して買った方が、容易いには違いない。調理時間も温度も不明で、厚底のフライパンに蓋をして良いのかどうかすら定かでない料理人が、美味いパンが出来るかどうかは疑わしい。

 ふと雅太は仕事とかも同じではないかと思ったりする。お金を手に入れるのも、与えられた仕事を指図通りこなす方が楽であろう。お金が入るかどうか分からない自営業やるなんて、経験がないならば全く危険極まりない行為かも知れぬ。

 と、思いながら、ある程度時間が経ったので、雅太はふたを開けてみた。全然膨らんでいない。ドライイーストの時間が短い。発酵していないのだ! なんてお前は馬鹿なのだと、ネチャネチャしたパンを味わいながら、まあ、これでも食べれないことはない、ホットケーキだわい、と無理矢理自分を納得させる。胃袋の中に入れば、こちらの方が栄養素が高いのだとさえ、こじつけて見たりするのだった。

 が、本音は美味くない。砂糖が少ないのか、牛乳が少ないのか、密度が濃い。両面はクッキーのようでまずまず食べれるのだが、間が酷すぎる。今の雅太は、食パンで耳ばかり食べている感じか。カリカリした耳の味力でクレープ状の中を食べる、まさにパンの煮付けである。

 これは売り物にならない。かつて書き連ねた小説と同じかも知れぬ、と思いながら、雅太はある種の満足感を覚えるのであった。

 

 


甘酒を飲みながら

2014-10-28 20:16:56 | 身の回り
  甘酒を煮込んでいる間、雅太はブログでも書くことにした。卵や豆腐などの入ったイカの煮付け、玄米、柿やイチジクを食べた後、甘酒で締めるのである。昼間の肉体を酷使する仕事が、雅太に飢餓感を覚えさせたのだろうか。柚ぽんの旨味が食欲をそそらせたとことも大きい。

 ただ、これほど腹が満杯になれば、日課である「夢見」に影響するかも知れぬ、と雅太は腹を叩きながら後悔する。

 朝方になれば、雅太はいつもリアルな夢を体験するのだが、どれも象徴的でミステリーで、一体なんであんな夢を見たのか分からない。

 たまに全身が震え、体外離脱とおぼしき夢を見ることもあった。雅太は「どこかにいるのか?」とか深いことは思わず、熟した柿があればもいで食べてみたりする。実際にフルーテリーな味がすることを確認し、女を見つければ、追い回してみたりするのであった。夢の中の女性からすれば、雅太は吸血鬼以外の何者でもないであろう。そんな自由奔放な夢見の雅太も、そのエネルギーがつきかける頃、本当にやらねばならぬのは、一番愛すべき自分を、寝ている自分を目撃すべきことだと、気がついたりする。

 甘酒を啜りながら雅太は別のことを考える。こうやってリアルに生きている自分でさえ、実のところ、夢を見させられているのではなかろうか。社会のルールに従って生きている故に、明日の朝、またルーチンワークに行かねばならぬのだが、本当にやらねばならぬことは、他にあり、最後になって気がつく、しかし時遅し、ということになるのか。

 全ては幻であり、借り物なのかも知れぬ。

 雅太は今、強固な先入観に囚われている。だから現実世界でも、夢の世界でも、自由に動けないのかもしれぬ。これが現実だと考えている自分は一体何なのだろう。これまであちこちから叩き込まれた意識。煮込まれたスープなのであろう。

 スープを味わっている、このドロドロした甘酒、人生の中で見たり感じたことの素材が、くまなく混ざり合っている。それを雅太は味わっている。過去を振り返る、徹底的に反復することは、この甘酒を飲み干すことなのではなかろうか。

 それがタブル、幽体を目覚めさせるための秘薬なのだろう。

 今年最大の収穫本『呪術師の飛翔』にて、クララの台詞を思い出す。

 呪術師とは、鍛錬と不屈の努力によって、通常の知覚を破る人をいうのよ。

 

 

小暴君が消える

2014-10-19 15:36:51 | 身の回り
  10月半ばの日曜日は、天候も良く、室内は27度を超え、雅太のチェック模様な服は汗ばんでいた。今月、会社の「小暴君」が辞めたという事件があり、5年という月日の長さをひとしお噛み締めてみる。

 雅太はカルロス・カスタネダの著作物を4年近く読み耽っているわけであるが、実践が重要なのであり、それは「夢見」やら「マジカルパス」に限らず、こてんぱんに自分を叩き伏せてくれるような「小暴君」が必要であるらしい(『意識への回帰』)。

 現代だからこそ、暴力や刑罰は行われぬも、出来るだけ法に触れぬ範囲内で、社内の人(上司でさえ)圧迫するような存在が、雅太の会社には存在していた。背が高く、目つきが並でなく、逆らいがたいオーラを放っていたわけである。同じ部署であった時には、非情な命令やら理不尽な叱責を受けたり、それで辞めた同僚を多く見てきた。雅太も「どうしようもない野郎だ」と心の中が煮えくり返っていたわけであるが、何とか耐え抜いてきたわけである。だが、時が経つに連れ、そういったやり方が会社には合わなくなったせいか、クレームが多かったせいか、辞職に追い込まれたようだ。

 そういった小暴君とも、雅太は時が経つに連れ、接触するようになった。同じ立場に回ったわけではないが、ちょくちょく話をするようになった。部署が変わったということもあろう。小暴君はその立場が故に孤独なのかもしれぬ。

 雅太は彼を見るたびに、時代こそ違えば、織田信長といった名だたる戦国武将になったのかも知れぬ、と考えたりした。現代社会、株式会社は利益を上げなければならないと同時に、労働者は保護されなければならない、ので、戦国時代のルールは通用しないから仕方がない。

 そんな小暴君であるが、最後には雅太の実家の米を大量に購入してくれた。雅太も彼も来年はどうなっているか分からぬが、また米を渡す時には言葉を交わすことになるのだろう。私生活では案外、実家思いで、愛妻家、別の側面を見たりする。とりとめの無い話をし、別れ際に「一番ためになりました。良い修行になりました」と雅太が頭を下げたとき、彼の眼差しに薄ら笑みが見られたような気がした。
 
 5年前には思いもしなかったことであるが、滅多に会えないような貴重な人物であったような気がするのであった。
 

呪術の参考書

2014-08-21 20:09:46 | 身の回り
  休日だった雅太は、日差しが強かったこともあり、逃げるように実家に戻った。スイカやメロンなどを土産に家に入ると、広島市の土石流災害のテレビ放送が耳に入る。そのまま森林浴をしに山に向かい、早速小川に足を浸ける。

 水気が抜けたのかICレコーダーが直ったこともあり、雅太は『呪術師の飛翔』を朗読し始めた。自由になるためには、過去を徹底的に反復しなければならない、それも呼吸法を、大地の力を利用して。

 反復では、「一体なんで己はこんな呪術の本を読んでいるのか?」とふと根本的な思いがよぎったりする。精霊が導いたと言えばそれまでだが、カスタネダの本にしろ、案外、受験やら資格なんかの参考書の延長なのかも知れないな、と思ったりするのである。

 思い返せば、小学校6年生ぐらいから、学習参考書などが雅太の部屋には賑わっていた。受験勉強など縁のない親が、インテリグッズとして奨励したこともあるのだろうが、本来一教科一冊あれば十分なのに、中学校時代とかは、問題集やら参考書の他、塾のテキスト、塾の推薦した参考書など机の上一杯に並んでいたわけである。もちろん、隅から隅まで読むわけもなく、そもそも参考書を読む読解力がないという致命的な欠陥を抱えていたので、自己満足で終わっていた。それがその後にも続くことになるのである。

 今、本棚に並んだカスタネダのシリーズを眺めながら、「人生は同じことを繰り返しているのではないか?」と勘ぐったりする。もっとも、テストやら志望校への合格やらで、実力を判定するわけもなく、日常生活で、それが判定されるということになるのだろうか。

 成功すれば、集合点が動く、つまり、精霊が来訪するわけである。ただそうなってしまえば、人生の連続性が断たれ、破壊点の到来、つまり、雅太が昨年末にしでかしたような、辞表の提出、ということになるのだろうが、一体次はどのようになるのか分からない不安が待ち受けている。もっと凄い小暴君がいるところで、修行する運命が待ち受けているのか、有り金が尽きるまで反復をして、悩むことなく動けるようにするのか、皆目見当もつかぬ。

 案外、人は毎日仕事に出ることによって、余計な妄想から逃れ、精神的に安定を保てるのではなかろうか。雅太にしても、明日が仕事だから22時には寝る、7時までには起きようとするのであって、タイシャ・エイブラーのように朝起きて、反復するために一人で洞窟へ行く、ような環境にあれば、…。

 人間の行動はパターンによって成り立っているだけなのかも知れぬ。雅太は森林浴をした後、海沿いの温泉サウナによったのだが、その前に、ぷかぷかと海に浮かびながら青空を眺めた。この前と比べて、海水が少し冷たい。大地のエネルギーとやらを体に集めようと意図する。洞窟はなくとも、こうやって車であちこち移動して自然とふれあうことが出来れば十分かも知れぬ。車の中では、カスタネダではなく、雅太にとっての懐メロを流しながら、当時を反復する。テレビドラマの主題歌やら心を励ますために聞いた歌が、窓を全開にした雅太の車から流れている。青い空。外は田園風景、地方都市、海岸沿い。日差しが雅太の腕を焦がす。

 呪術の参考書の言わんとていることは。空にしなけりゃならんのだ、と雅太は受け取った。詰め込み教育の逆が、ここにある。その前に、坊主と同じように、多くの経文を覚えねばならぬのか。やはり基本は膨大な知識という土台があってのこと。雅太は人生で同じようなことを繰り返しているような気もした。運命は変えられぬのか。本は語る。

 「だがな、お前は時間を無駄にしているんだよ。過去は過去、今は今だからだ。そして、今には自由のための時間しか存在しないんだ」

海で泳ぐ、そして、

2014-08-18 20:21:55 | 身の回り
  今年の夏は天候に恵まれないためか、海のイメージがわかない。たまたま休日だった雅太はスイカを食べ、『セールスマンの死』(アーサーミラー)を読み終え、昼寝をしたら汗だくになり、空を見上げる。まだらな雲が青空を泳いでおり、雅太を海に誘っているようだった。

 思い起こせば、30代は良く泳いだものだ。雅太は「反復」なる過去を振り返るための修行をしているのだが、「洞窟」がないので、サウナだったり、温泉だったり、車の中だったり、至る所で思い起こしをしていた。海で思い起こしをすれば、カッパのように泳いでいた当時が思い起こせるのではと、ちょこっと車を走らせ、向島の海岸で塩水を浴びるのだった。濁っているが温かく気持ちがよい。

 浮かびながら雅太はこれまでの人生、とくに夏のシーンを思い出すのだった。年をとったものだ。雅太は、5年、10年が、いかに早かったかを思い知らされるのである。こんなはずではなかったか。いや、もっと苦しい展開になっていたかも知れないし、せめて親元の近くに住んでいることは良かったかも知れぬ、とぐだぐだ考えていると、親子連れ、いや、その祖父母もろとも泳いでいる一家がいた。孫がいると、釣られて、親どころか、その親まで海で泳ぐのである。

 中年、一匹、虚しく海に漂う雅太の頭の中で、カスタネダの呪文がBGMとして流れた。それは『未知の次元』より。「何とみごとな前兆なんだろう! しかも全てがお前のためだ…」。雅太の真上は、果てしない空が広がっており、波紋が幾重にも広がる大海原の向こうには、島が、蜃気楼のように立っている。『沈黙の力』より。「この宇宙には測り知れない、言語に絶する力が存在しており、呪術師たちはそれを意志と呼ぶ。そして宇宙全体に存在する万物は例外なくある環によって意志に結びつけられている…」

 子供は親になり、親は祖父母になり、やがて死んで大地に戻って行く。雅太自身がこれほど年をとったこと、人生の儚さを感じているのだから、親はそれ以上だろう。全国大勢いる老いた親たちは、テレビやらケータイなどの画面を眺めながら、気を紛らわせているのか。動けなくなれば、老人ホームに入ったり、子供が面倒を見たりせねばならぬ。幸運なことに、田舎の雅太の親は二人とも元気であり、父は米作り野菜などの農業を、母にいたっては働きに出ているという状況である。

 海から出た雅太は、サウナに入って水風呂に浸かり、「親に感謝を表さねば」と『無限の本質』が脳内BGMとして流れる。「戦士・旅人は負債を未払いのまま済ますようなことはしない…」。払いきれるものではないが、今から少しずつ分割払い、ということになろうか。

 かくして、雅太は出来るだけ実家に帰ろうかと思うのであった。

  

色んな波動

2014-08-14 20:08:21 | 身の回り
 雅太の部屋は31.6度で、盆は蒸し暑かった。明日から仕事の雅太は、つかの間の休みを利用して、買い物や散髪に出かけた。東京へ行く寸前に切って以来、実に半年ぶりであった。伸びすぎた髪が目にかかり、容貌が女性的であればポニーテールでまとめたかも知れぬが、雅太は眉毛の上までばっさりと髪を切ってもらった。
 頭が一挙に涼しくなり、何か覆い被さっていた荷が消えた気がした。

 これで海に泳ぎにでも行きたいところだったが、暑いだけで、空は曇っており、雨がぱらついていた。料理をしたり、洗濯をしたり、身の回りを整理しながら、最近、音楽を全く聴いていなかったので、昔を思い出しながら懐メロを聞いていると、「歌手は皆自己陶酔している、ある意味狂っているのだなぁ」と波長を合わせる。雅太は昔は波長が合わなかった曲ですら、合わせることが出来るようになってきた。「どこが良いのだろう?」と思っていた黒人音楽ですら、「ええじゃんか」と陶酔したりする。ただ昔と違って、固執したりはしない。

 雅太は世界は波動で出来ているということを、徐々に体感し始めた。こんなインターネットですら、活字が波動となり、それと同調する何者かが、読む、受け取るわけである。雅太の波動は、それほど強いようにも思われぬが、いくらかこの情報社会に発散されているわけである。できれば、プラスの波動、読むものが幸福になるようなエネルギーが発散されれば好ましい。

 そう意図したところで、あんまりブログを書いていない故に、発散以前の問題かも知れぬ。世にはそういうことを試みて、宗教活動だの、スピリチュアルな本を書くだの、行動している人間がいるにはいるだろう。金儲けを志していなくても、結果として金は巡ってきて、それで自立できたりするのか。

 雅太の実家が行う米作りでさえ、昔は収穫祭やら感謝祭、作るものも食べるものも、プラスの波動に触れていたような気がする。今は金、金の世界で、そういう根本的なエネルギーが欠如しているのかも知れぬ。人間関係にしても、金さえ貰えればそれで良いとか。一期一会の精神こそ、プラスのパワーの原動力だったり。当たり前のように会っている人も、あと5年、10年したらどうなるのか分からぬ。

 そう考えたところで、雅太は、日曜日に墓参りに実家に戻らねばならぬか、と思ったりするのだった。