インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

3月31日の夢

2011-03-31 03:33:46 | 潜在意識の世界
  夢の中で音楽が鳴っていた。それはゆったりとしたクラシックのようなもので、しかも、夢の中でさらに夢を見ていた(明晰夢)。女性が出てきて、「さあ、目覚めました。あなたはどんな夢を見ましたか」と問われ、我が輩は感動のあまり泣いていた。チャイコフスキーなダンスのメロディの中、大地の景色が、削られるように変わっていく。それは山であったものが、岩となり、さらに砂が散って大仏のような顔になる。また、女性というか、母体のようなものが風に吹かれてじわじわと大地に代わっていったり。別の夢で、記憶を甦らせるような瞬間、思い出の味を食べよう?ってのもあり、ある人はそれがストロベリーであったり、チョコミントであったり。今では食べたくもないバニラアイスとか出てきて、無理やり食べていた(冷たいとかは感じない)。それは与えられたものが刷り込まされたような味であった。それから妙な品物(子供用漫画)とかあり、本を開くと歌が出て心が共鳴した。確か内容の一部は得体の知れないルールのゲームが展開されており、主人公は必殺技で勝っていく。何かこれからの人生で重要なヒントであったような気もするが(ルール自体がおかしく、こんなのありか?!というような奴。四隅を利用しているような将棋)、ああ、もう書いている途中からどんどん忘れていく…。

 そういえば、一連の夢の後、また寝ているはずなのに天井の?景色が見え、何かパイプを繋いだ様な電球というか蛍光灯が上にあった。あの透明な円盤は電気が点くのかどうか不明だ。今度は冷静でじっと見てやろうと意識していたが、それは短くて消え、目が覚めた。頭が混乱し、とりあえず、ブログにでも書こうかとパソコンを立ち上げたわけである(備忘録、夢日記か)。夢の方は実にいい夢だったが…、あまりにも早いのでもうちょっと寝ます(また夢を見そうだわい)

新しい価値観、新しい商品・サービス

2011-03-30 20:31:46 | 聖なる木を創る、地域通貨
  夢日記のようなブログになってきたが、かえってアクセスが増えてきた(200人…)。ここで「インディオ組合を作る」「火山が爆発する」云々書いたところで、価値観は人それぞれだから?「アホか」ということになるのだが、夢とかの神秘的体験は「自分もそんなことがありました」と共感されるのだろうか。

  ネイティブ・アメリカンとかはキノコを食べたり、宗教的をしたり、神秘的な体験によって、人間同士がつながっていることは間違いない。東北の被災者のような壮絶な体験も、非日常的で奥深い人間の絆ができるように思われる。親族を奪われた悲しみ、絶望感、それでも生きようという意志、これまでとは違った価値観で生きざるを得ない。

 現代人は、多種多様な商品・サービスを消費し、それを繰り返して生活しているわけだが、カネを稼ぐため、生産者サイドに回らなければならない。資本に雇われるわけである。集まった人間の価値観がどんなにかけ離れていようとも(だからストレスがたまる?)、カネになるからルールに従い、協力し合って仕事を成し遂げる。カネにならねばすぐに分散である。価値観が合った仲間同士では、仕事を超えてずっと仲間でいられるかも。

 しかし集団になれば個々人が主義主張をしまくって収拾がつかない。得体のしれぬ力学が働き、自分の重要性が高まる方へと動く。当たり前である。自己中心性をとにかく抑えさせなければ、社会の秩序は維持できない。どうすればいいのか。「カネを稼がねば生きていけない」システムが一番いいということなのだろう。

 資本主義も民主主義と同じで、多数決で選ばれた商品だけが残る。「カネ=票」である。「あなたは何をすればいいのか?」 それは「市場に出してみて、たくさん票が獲れるような商品を作ればいい」、ということになるのである。ただ個人ではパソコンとか車とか作れないから、小説とかゲームソフトとか作ることになるのであろう。そういえばアルファポリスでも、一票クリックとかになっており、ずば抜けて得票されれば「出版化決定!」ということになっているはずで、それを励みにカネにならなくてもせっせと書いている輩も多い(我が輩もそうか?)。

 しかし朝から晩までカネにもならない小説やらブログを書いていては生活できないので、現実ではカネになることにエネルギーを注いでいる。そこでは、あんまし自分というものを主張しないし、まさか我が輩がこんなブログを書いているとは思いもよるまい。人それぞれだから、自分とて大した個性でもないのかもしれないし、世の中にはカネになることで自己実現をしている人も大勢いるだろう(?)。

 しかしながら(またネガティブな冒頭であるが)、そういう人々も、自分を抑え、多数に支持されそうなこと(カネになりそうなこと)を行っているのが現実ではなかろうか。やはり主義主張については人それぞれで、「自分はこれが正しいと信じている」としても、他人は「いや、ちょっと待った…」ということだらけなのである。

 それでも神秘的体験の世界になると、ごちゃごちゃした理屈、表面的な意識を超えるように思われる。まるで『フラッシュフォワード』(人類が同時刻に意識を失い、未来の同時刻のヴィジョンを見る)の世界であり、強烈な不思議さというのは一生付きまとう。それによって、人間の意識なんて簡単に変わるのである。価値観の多様性とはいえ、我々の価値観の深さというのはその程度のものなのかもしれない。といっても、習慣が意識を作っているのかもしれないが。

 神秘体験をする人間がどんどん増えると、これまでの価値観がバカらしくなって、きっと消費行動も変わってくるだろう。だんだん何を書いているのか分からなくなってきたが、新しい価値観と新しい商品、サービスが必要であるということか 

不思議な絵

2011-03-29 06:25:28 | 潜在意識の世界
 明け方、妙な現象が起きた。眠っているはずなのに、まるで目を開けているように光景が見えたのである。最初は天井のような模様であり、次は無数の糸で釣ってある黒い頭と白い体の人形であった(たぶん)。いつものごとく夢をずっと見ていたのだが、途中で目が覚めて、何か妙な「絵」を眺めていたのである。怖くなって、「おかしい、おかしい」と言い聞かせ、それは消えた。

 体験した方もいると思われるが、我が輩には何が何だかさっぱりわからない。そういえば、二十歳ごろに何度かこういう目覚めていないのに何か見ている体験をしたことがある。その時も理解不能な「絵柄」?であった。最近は長々とミステリー小説のような?夢を見ていて、その後に起こったのだから、はたして何か関係あるのかと思わされる。

 一夜の夢といっても、見るのは複数の夢である。複数の潜在意識が現れたのか、何なのか、理解しがたい。給油中、勝手に車が走り出したり、田舎都市が物凄い大渋滞になったり。あとは震災の影響だろうか、両親が死んで温もりを失った子供が出てきたり、逆に園児が死んでその弁当箱が出てきたり、あと自衛隊が長いパイプのようなカッター付の器具を大型車で運んだり(何か騒乱があったようだ)、脳ミソがついていかないところに、あんな不思議な現象が起こったのである。

 やはりカスタネダの影響やら大きいのかもしれないが、最近、仙道の本を読んで「練丹法」を少し意識しているから、ますます妙なことが起こり始めたのかもしれない。無意識の恐怖さえ取り除けば、もっと違う世界を楽しめるのかもしれない。

すべてカネで買えるか

2011-03-28 19:12:42 | 考えるインディオ
  最近、このブログも終末論モードになってきたが、もともとこの日本には希望がないので、滅びるのが早くなるだけなのかもしれない(暗い)。被災地ボランティアした方に聞くと、冷凍庫のような東北沿岸地域は、若者はほとんどいなくて高齢者ばかりという(なぜか子供は多かったようだ)。つまり東北の沿岸に家があっても、仕事がなければ居ても仕方がなく(カネにならん)、必然的に年金生活者が大多数を占めることになるのである。ましてや、家がなくなった今、地元に居続ける道理はない。関東の方へ出ていくわけである。

 復興するといっても、資本主義システムの下では、復興需要があるかもしれないが(政府がカネをだし強制的に職業人を向かわせるようだ)、その後は一斉に去っていくような気もするし、やはり根本的に過疎化対策なくしては復活はあり得ない。道路を直し、スーパーを建て直しても、住民に購買力がなければ意味がない。

 そういえば、ヨーグルトとかのスーパーの棚がガラガラであった。災害と関係がありそうで、水とかは全国的に爆発で売れているようだ。災害が極度にひどいと、カネがあっても何も買えないという事態になりかねない。それならば、一体何のために働いているのだ?ということになろう。それではまるでボランティア活動であり、みんな考え方を変えるであろう。カネだけ持っていても意味がないと。

 マンホールチルドレンの少女が「生きることは難しい」と呟いていたように、本来、生きるということはかなり難しいのかもしれない。それが分業と協業で、助け合って資本主義という絶妙なシステムで共存できるようになった。

 しかし歴史的に見て人類は奪い合いをしてきたわけで、今でも貧富の差は激しい。いい椅子につけば権力やらカネが手に入るが(ストレスも尋常ではないが)、手に入れるためには前任者に椅子をどいてもらわなければならない(椅子取りゲーム)。譲ってあげようというようなお人好しな人間は出世しないだろう。

 欲しいものを手に入れようと、主婦でさえスーパーで壮絶な買占めをしている。100人にパンが100個あれば、みんな一個ずつ買えば上手くいくが(100人ともカネを持っている仮定で、買い占めねば)、50個しかなければ、どう考えても50人は買えない。パニックだと買い占めるから、余りに大勢が買えなくなり、もはや資本主義を捨てて、社会統制でもするしかない(配給制か)。

 それでも農家とか生産者が隠したり、流通過程でどっか強い奴らの方に流れたりして、結局は弱者には回ってこない(半分分けてください)。 戦前の日本とか崩壊したソ連とかがそうだったわけで、やはり「奪い合い」はなくならないのである。

 この資本主義は「カネを出せば何でも買える」というフィクションで成り立っており、そのためにみんなカネの争奪戦をやっているが、本来、カネを出しても、コメやら魚などの自然の恵みは手に入るものではない。「食べ物があって当然」といい、飽食の限りを尽くして捨てまくっていた我々現代人の報いが、そろそろ起こってもおかしくないのではないか。大災害の被災者にでもなれば、身を持って思い知らされることになるだろう。

 そろそろ神々に感謝してらなければならないような…(しかし踊狂現象が広まると大地震が起こるらしい

『ダンテズ・ピーク』

2011-03-27 19:25:31 | 映画や小説、テレビなど
  小説『死都日本』を、よりリアルにイメージするために、火山噴火の映画『ダンテズ・ピーク』を観る。これは1997年アメリカのパニック映画で、主人公のハリー(火山調査員)が、女性町長の観光地でドラマを繰り広げるのである。霧島観光地を髣髴させるが(?)、歴史的に大爆発を繰り返し原形をとどめていないので、むしろ富士山界隈に近いか。

 ここでも噴火の予兆が現れた後、「いつ非難すべきか」が大問題となる。空振りしたケースもあるし、「ここで生まれてここで結婚して…」と住民の思いやら、利害関係が絡み、そう簡単ではない。警告を出すと、住民は逃げるし、地価は大暴落するし、せっかく築き上げた町が壊れる。

 「もう少し冷静に科学的データに基づき判断を下すべきだ」となるが、ハリーは「火山は変わりやすい」と反対する。大噴火してしまえば、「ここは一分と持たない」わけである。もういいだろうと、思った矢先、水道水に二酸化硫黄が混じり、コーヒー色に。「この山は時限爆弾だ!」って、こんな映画を観たら、タダでも今の霧島温泉郷へ行きたくなくなるだろう。

 いざ噴火してしまえば、もはや車でも逃げれないとわかる(当然か)。地震で道路寸断、落石、大混雑。そして何より衝撃的だったのは、先が見えないほど灰が降り、辺り一面真っ暗闇であるということだ。灰が機械のエンジンに積もり、空の救援も不可能。湖は酸性になり、何もかも溶かしていく。

 その中で、ハリーとヒロイン町長は生き延びるわけであるが(相当無理すぎる!)、最後の最後までみせるドラマであった。

 過去に何度も起こったことは、必ず再び起こるわけで、それがまさに今回の大津波である。ある特定の場所で起こる確率は非常に低いかもしれないが、そういう場所がこの日本には沢山ありすぎるので、これから何か起こるのではないか。特に火山の大噴火が。(あって欲しくはないが)

 どうやら大津波とは比較にならないほど被害のスケールは凄まじいようで、なってしまったら、社会のルールも経済システムも、ぶっ壊れてしまうだろう。火山灰の散った地域だけでなく、太陽が出ないので作物が実らず、飢えて寒い。何千万人もの被災者を、一体誰が助けてくれるのだろう。十万人単位でも大変なのに。

 あんまり酷い大噴火が起こると生き延びた後も悲惨だから、そのまま大火砕流(その前に火砕サージか)に飲まれた方が…、とはならないか。

 

 

次は破局的噴火か? 『死都日本』を読む

2011-03-26 19:33:10 | 映画や小説、テレビなど
  東日本が現在とんでもないことになっていて、これからも南関東大震災やら東海大地震があるのではと震えているが、かといって西日本が安全かといえば、そうとも言い切れない。火の災害があり得るからである。

  原発やら津波の被害の凄まじさで忘れ去られているが、九州南部の霧島火山(新燃岳)が噴火している。ちっぽけな現象に思えるが(?)、これはとんでもなく不気味な火山活動であり、それは現在読んでいる大長編小説『死都日本』(石黒耀)を読めば、霧島温泉郷には近づけまい(というか、宮崎とかも)。

 この小説自体は10年近く前に書かれたもので、2002年の9月に講談社メフィスト賞受賞作として出版されたものである(確か、昔、我が輩が「死神の教義」を送り付けた頃、菓子折り付きで段ボールに入っていた?大掛かりな原稿だったようだ。そういえば、そのめちゃくちゃな原稿が絶賛?されたため、調子に乗って書き続け、それが現在アルファポリスに陳列されてある次第である毎度一票有難うございます)

 この『死都日本』、まだ200ページぐらいしか読んでいないので何とも言えないが(それでも三分の一)、新燃岳も出てくるし(総理大臣は行政改革新政権の「菅原」だし)、もうすぐ噴火する火山講義、実況中継のような予感すらする。噴火といえば富士山がイメージされるが、九州・火の国には過去の大爆発でもはや形になっていないカルデラ(ポルトガル語で「大鍋」)が沢山あり(集合火山)、火口底が高原みたいになっており、そこに多くの住民が普通に?暮らしている。

 これが噴火すると(破局的噴火)、火の津波が怒涛のように襲ってくるわけで(火砕流)、都市が跡形もなく飲み込まれてしまう(人間は火砕流の前に火砕サージ、つまり熱風ガスで死ぬ)。距離的に離れていても関係ないわけがなく、火山の冬が来て、食糧危機、寒さに襲われるわけだ。

 本書によると、一般の人は

 火砕流というのは、雲仙普賢岳の「大」火砕流のように、谷底に沿って一方向へ流れていく物ではないのか? …霧島火山の火砕流は、この広い警報区域のどこへ流れていこうとしているのだろう?

 …日本人の多くは噴煙柱崩壊型・全方位火砕流などというとんでもない災厄があることさえ知らなかった。


 火砕流は「時速100キロ、厚さ500メートル、温度700度」で、高速高温のジェット粉体流で川も山も軽々と越えてくるようで、「自治体の指示に従って、落ち着いて行動し」ても何の効果もないわけである。

 ハザードマップ(災害予測地図)が役に立たないのは、今の福島原発の同心円状のあれがそうなのと同じなのかもしれない。放射性物質は風に乗ったらどこでもやってくるわけだから、もっと大勢を避難させるべきなのだが、それをやってしまったら大パニックになる。「噴火現象が起きてから避難したのではぜんぜん間に合いません」というのは、容器にまだ収まっている核物質に何となく似ているような気もする。

 もっとも逃げたからといって、毎日の生活は一体どうなるのか、その辺が全く分からない。避難命令を出す自治体は、責任を持てるのか? 津波で家を失うのと同様、放射能汚染で避難させられたりしたら、ある種のホームレスになるわけだから、生きるのはかなり厳しくなる。仕事さえあれば、何とか立ち直れるかもしれないが。

 何かもっと明るいことを書かねばならないのだが、「大地震と津波」「放射能汚染」といった何か夢でも見ているようなことが次々に起こると、次は「大噴火」があるのでは、と想像するのであった。

人間は夢をみるために生きている

2011-03-25 05:49:56 | 潜在意識の世界
  昔からそうなのだが、明け方の今頃が、一番不思議な夢をみる。我が輩はまるで何かのリポーターのようにカメラを手に、被災地の海辺を歩きながら、被災者と話をしていた。真夜中であったが、不気味に明るかった。海辺の白い小道に並び、自転車を押す。アスファルトではなくて土ぼこりがたっており、被災者は鬼気迫る形相で体験を話す。地震津波の前、縦長の魚が一斉に踊っていた、と。小高い場所に家があり、そこへ行くと、桜が咲き乱れていた。夜なのに月明かりを超えて、一面が真っ白に光り輝いており、桃色の光景が燃えていた。まるで死者の魂が夜を昼に変えているかのようだった。我が輩はパシャパシャと不思議な光景をカメラに収めた。やはり霊の光か、と。家の中には熊の絵柄のエプロンが飾ってあった。そんな日常の些細なものや、光る空や、ありとあらゆるものを写していた…。

 もっと奥深かったような気もするが、良く覚えていない。細かい点も思い出せればいいのだが。そういえば、昨晩、『フラッシュフォワード』なる米国のテレビドラマを観て寝たが、それに関係あるのかもしれない。「ある日、地球上の全人類が同時刻に気を失った」とするもので、未来が成就していく。まだ最初の方なのでよく分からないが(2話終了)、なかなか面白そうだ。MOSAIC掲示板で、「やがて来るであろう未来」を繋ぎ合せていくのである(多分)。

 それから連想するに、今回の東北関東大震災も、多分、ビジョンをみた人では、何らか予知されていたと思われる。それはデジャブかもしれないし、夢かもしれないし、「そういえばあの時あんな現象が…」ということかもしれない。宇宙の偉大なる存在というか、カスタネダ風に言えば無限、それは確実に何か手がかりを与えている。日常生活の雑多なことに神経を使い、見逃すということがほとんどか。

 とにかくカネを稼ぎ、消費するというのにエネルギーを注がされるのが現代人であるから、肝心なところが抜けているのか。そんなわけのわからぬことをしている暇はない?というわけであるが、それでもカネは命の次ぐらいに重いわけで?、死んでしまえば何の意味もない。死者や被災者の多くは、1年前は美味しいものを食べ、フツーに現代日本人の暮らしをしていたのだが、実は「命の洗濯」をしていたわけで、それを知るすべもない。それは全く我が輩も同じ立場で、1年後はどうなっているか全く見当もつかない。2012年の末も近づいているし、何が起こっても不思議ではない(∞掲示板をつくるべきか)。

 些細な夢でもバカバカしいと片づけるのをやめ、むしろ、夢の世界こそが一番重要なのではないか、と考えた方がいいのかもしれない。小説にしろ、映画にしろ、リアルな人生にしろ、人間は夢を見て生きたい生き物なのだろう。

経験について

2011-03-24 06:13:02 | 考えるインディオ
今朝もえらい寒い(9.2度)。やはり被災者のことを想うわけで、ボランティアから戻った知り合いによると、「言葉にできない光景」だったらしい。テレビとかで見るのとは全然違うようで、喋るときの顔つきが強張っていた。「耳が千切れるほど寒かった」らしく、「集まって肩を寄せて体温を維持していた」という。何か彼の様子が荒れていて、何かが確実に変わっていた。

 やはり人間は人生経験だから、実際にその場へ行って体験してみなければダメだろう。安全地帯にいて、新聞やらテレビ、ネットなどで幾ら情報を取り入れようと、所詮、「百聞は一見にしかず」か。想像力である程度補えるかもしれないが、やはり現実での経験が想像力をあれこれと膨らませるわけで、やはり人生は経験だ。

 「やる前から結果はわかる」けれども(?)、失敗してもそれはそれで人生に深く刻み込まれる。マイナス思考になるも、プラス思考になるも、本人次第。自分の宝であるのに、実は金庫の奥深くに眠ったままになっているのも多いのでは。

 ひょっとしてその金庫の鍵を開けるために、このブログ主はいろんな呪術を実践しようとしているのかもしれない。「反復」とかそうか。カスタネダによれば、魂の琴線に触れるような経験は、人生のアルバムに残しておくというべきだという。それは単なる個人的な魂の叫びにとどまらないもののようだ。

「気」を増やすブログを!

2011-03-23 06:42:36 | 考えるインディオ
  もうすぐ四月になろうというのにえらい寒い(10.4度)。これだけ寒いと被災地はという発想になるのだが、どうしようもない。もっとも自分が生きるのに精いっぱいだし、リアルな問題、そういう人間はテレビを見たりして心を奪われるよりも、「自分自身」に「己の内部」にエネルギーを注ぐべきだろう。

  仙道の本にもあるが、人間の体は「気」で出来ているわけで、四六時中気を減らそうとする勢力と戦っているわけである。テレビを見て気が入ってこないなら消すのがベストで、ネットとかもそうか。

 このブログも「閲覧者の気を増やしている」とは言い難く、何かしら「現実は厳しい(苦しい)」とかマイナスな表現も散りばめられているので、あんまし体には良くないかもしれない(気をつけねば)。海や山の写真とかは良いかもしれない。早く夏になればいいのだが…、と思ったら、そういえば、福島の原発が壊れたので、東京界隈は電力供給の問題で、冷房が制限されそうだ(また悪い話題が…)。

 しかし冷房は体に良くない。で、昨年の猛暑、我が輩はほとんど冷房なしでレオパを過ごした。最上階の角であるため(しかも海辺…)、暑さが半端ではなかった。思い返せば水風呂に入って、体を冷まして過ごしたものだ。今年はエルニーニョ現象?ではないから、そこまで暑くならないらしいが、それでもヒートアイランド現象で厳しいか(また、マイナスな表現が…)。

 何事もなるようにしかならないわけで、やはり将来の不安とかより、今の自分の気を充実させるべきか。

仙道の本も読んでみる。

2011-03-21 06:43:53 | 思想・宗教
 週末実家に帰ると、ストーブも要らなくなり、梅も咲いており、春の雰囲気を感じた。スピリチュアル関係?の書物を集めるコレクションをしているせいか、田舎の部屋にはぎっちりと本があり、岡本天明の日月神示(『ノウイング』&岡本天明)やら予言な書物をぱらぱらめくり、日本列島はやばいのではないかと思わされた。

 ある本には「放射性物質が大地にばら撒かれると、地球の浄化作用が働き、火山の噴火が起こる」なんて不気味なことが書かれてあるし、最強占い師オニ三郎は火の雨が降ると予言しているから、三千年に一度の大洗濯が行われるのか。

 2012年も近づいているし、もう少し修行?をしなければいかんかと、この辺最大の大型書店へ行きカスタネダの本を探したが、そんなものを探す輩はこの辺にはいないためか、全くない(広島市内へ行けば少しはあるかも)。な本がたくさん並んでいるコーナーがあり、別のカスタネダに固執する必要もないのではと物色していると、仙道の分厚い本を発見した。調べてみると、「カスタネダが書いたのではないか?」と思われる個所も多いほど、酷似しているところも多く、値段は高かったが(3500円!)思い切って買ってしまった。

現代仙道百科―心身改革の秘法体系 白揚社

 なんかいろんな行法が書かれており、タオな呪術の実践である。修行する上での日常生活の注意事項やら、細かく体系的に書かれており、これはカスタネダ『呪術の実践』より、実践的である。古代メキシコの呪術師の世界では、「宇宙を流れるエネルギーを見る」わけであるが、古代中国の呪術師の世界では(エネルギー=気)、さらに「人体を流れる気を見る」わけで、それを鍛錬し、気力を充実させ、何にもない空っぽな人間、タオの境地へと至るのか。

 この本によると、こんなブログをグダグダ書いていればエネルギーが流出するのでよくなく(少なく考え、少なく食べ、少なくしゃべる)、この辺でやめようと思うのであった。

GOODSONGを歌う夢を見た

2011-03-18 04:40:17 | 潜在意識の世界
今朝も寒く、被災地はもう地獄であろう。(体を寄せ合っても)寝られないはずで、早く「風呂に入ってぐっすり寝る」ことをしないと(栄養ある食事も)病気になって当然か。

 『癒しの風』のアドバイスのように、淡々と眺めることができない。どうしても感情が入ってしまい、目を閉じれば「助けてください」悲痛な叫びが聞こえる。涙も枯れ果て、絶望で覆われ、「一体どうすれば…」という思いか。

 そういえば、さっき夢を見た。アニメソング・グランプリみたいな歌のコンクールで10年に一度か何かの賞を獲ったのである。「これは素人ではない」と絶賛されたわけで(夢で)、しかし現実、本人にそんな願望があるわけもなく、何であんな夢を見たのだろうかと、考える。

 こういう時こそ、音楽の力が必要なのか(?)。感情を鎮めるために、川のせせらぎとかイルカやクジラの音、癒しのCDが流れればいいのだが、電源もCDもないだろうし、逆に子供の泣き声やら聞こえるか。いや、歌う代わりに「何か書け」ということなのか。10年に一度の凄い文章を(自分にとって、だろう)。

 それにしても原発は制御できず(関東で停電)、株価も下落し、為替も1ドル76円まで上昇する。ただでさえ不況で、被災者でなくとも、苦しんでいる人は大勢いるはず。

 カスタネダの本に、「人間は意思決定する能力を持ってなくて、それが故に社会秩序をつくり出した」というのがある。「決定の中心」の回復をすれば、悩むことなく、物事がスムーズに決定できるらしい。それを維持するために、禅僧のように「内的沈黙」に励み、己の解釈系統を遮断するわけである。つまり、こうやってぐだぐだ文章を書いているから、「何一つ大事なことが見えてこない」のである。

 すべての癒しの根源は、自分の中、自分の意識にあると思われる。被災地とかものすごく寒い中に置かれているわけで、ああいう限界状況に置かれれば、感情の炎も消え、物凄く冷静になれる場合もあるのではないか。言語を絶したレベルで物事を判断できるわけである。潜在能力が発揮されている方々も多いのでは。

 人間、「苦しい!」と感情を入れれば余計苦しいわけであって、逆に力を抜けば、かなり楽になるものである。古代メキシコの呪術師たちが到達したレベルがどんなものか、未だよくわからないが、かなり力を抜き、冷めていた状態であったには違いない。肉体で世界を見ているのではなく、もうひとりの自分の体、エネルギー体(アストラル体か?)で宇宙からのエネルギーを見ているわけである。

 感情的であるということは、肉体に固執するということであり、それで苦しみを深めてしまう。「より冷静に、より無感動に」なるしかないのではないか。

 感情のこもった歌の中に、感情をリリースさせ、消してしまうような、不思議な個所があれば。新しい感覚が世界を変えるのかもしれない。

寒さに想う

2011-03-17 07:02:07 | 苦しみを分かち合う
  昨夜はこの辺でもかなり寒かったので、被災者はさぞ寒かったことだろうと思う。あの状態で放り出されるわけだからどう考えても限界状況で、理性的には耐えているのだろうが、不平不満でいっぱいだと思われる。このブログは原始的なブログであるからこういう時にはアクセスが異常に増え、「何か書け」ということなのだろうか。

 大規模な火種は昔から「革命」や「戦争」の火種であった。何もかも奪われて無くなってしまったら、奪い返す権利があるのだ(とういか、そうしなければ生きていけない究極状況)、となるのかもしれない。安全地帯にいて、ぬくぬくと食べて眺めているだけでは、こういう心境は全然理解できない。自分たちはこのままの生活でいい、しかし被災者たちは辛いだろうけれどもこれまでと同じルールに従ってもらいたい、と考えている(都合がいい)。

 被災者は、少なくとも「僕たちは苦しいんだ!」と大きな声で叫ぶ権利はあるだろう。今の世の中は(でなくとも)、主張したり行動したりするもののみが、浮かばれるわけで、日本人の美徳のように思われている黙って耐えているだけでは、変わらない。周りは口だけだ。

 かくいう我が輩もボランティアに行くわけでもなく、口だけかもしれない。予備自衛官の知り合いが、岩手の方へ志願して行くらしいが、実に立派なことである。働くけれども、全然給料が出るわけでもない(むしろ集合場所まで行くのにカネを払うらしい)。「苦しんでいる人を助けてあげたい。ありがとう、と言ってくれる声が聞きたい」「子供にお菓子でもあげたい」とこの寒さの中、出発する。立派だと思う。

災害映像に思うこと

2011-03-15 06:09:29 | 苦しみを分かち合う
  テレビをつけると、地震津波や福島の原発のニュースが流れている。被災者が「これから先、いったいどうやって生きていったらよいのか不安だ」と語るのを聞き、何もない状態に投げられたわけであるから、まったくヴィジョンが浮かばないだろう。「独りぼっちになった~」と大泣きしている映像が心に残っており、絶望した人々の間で自殺者が増えるだろうと思われる。

 ある日突然、強制的にすべてを没収され、「何もかも捨ててたく鉢する坊主になりなさい」と宣告され、「はい、わかりました」とはならないだろう。「幸せ」というのは美味しい食べ物を食べたり、家族と楽しく過ごしたり、買い物したり自由に遊んだりすることとなっており、座禅をして悟るのが幸せだと思っている人はほとんどいないだろう。「これは意識をレベルアップし、見えないものが見えるようになるためのチャンスである!」と覚醒への旅を志す人もいるだろが、なかなか行法が分からないし(古代メキシコの呪術師の場合、五つの関心ごとか)、飢えやら寒さで逆に人間が荒れ狂うかもしれない。

 関東地方のように停電があるわけでもなく、安全地帯でぬくぬくと安定生活?をしている男に、いったい何がわかるというのか。いっそのこと仕事を辞め、レオネット生活もやめ、何もかも売り払って、自分を極限状態に追い込んで、試しにやってみろというのだ。

 昨日は「同情はネガティブエネルギーである」とかあったが、今は被災者はとてつもなく寒いと思う。放浪な車中泊を続けた経験からして、10℃を下回れば寒くて寒くて寝られない。ストーブや防寒衣類がないのなら、アルミホイルなシートで包まっても、東北の今の時期はとてつもなく恐怖の震えが襲い、寝られないのではないか? もちろん、カロリーが消費するから異常に腹が減るだろう。一週間も続ければ、きっと体はぼろぼろになり、病気になる人が増えるのではないか。

 映像では伝わらないが、被災者は極限状態に追い込まれているに違いない。『マンホールチルドレン』ほどではないかもしれないけれど。

東日本大地震に際し、精神状態を保つには? ~『癒しの風』より~

2011-03-14 06:43:07 | レイキ、サネヤ・ロウマン
テレビをつけると全チャンネルで災害情報が流れている。壮絶な映像に感情が高ぶり、体調を崩している方も多いと思われる。我が輩も、寝たのに重たい感じがし、胸が苦しい。こういう時にこそ、スピリチュアルな本が役に立つと、本棚を一瞥する。そういえば、『癒しの風』に役に立ちそうなQ&Aがあるのを思い出す。

 Q. 家族に不幸があった友人と話をしていたら、胸に塊を感じて頭痛がし始めました。このような場合、意識してシンクロしないようにする方法があるのでしょうか?

 A.情で受け止め、自分の内にある同じ波動とシンクロさせましたね。淡々と情を入れず、景色のように見てください。

  起きていることに意味も価値もありません。それは、ただそこで起きているだけです。

  たとえば、人が道端で倒れて死んでいるとします。あなたはきっと「かわいそう」「ひどい」「惨め」「大変だ」と思うでしょうし、そう思うことが当然だと思うことでしょう。

 でも実際は違います。そこには、「人が死んでいる」という状況があるだけで、意味も価値もありません。状況はニュートラルなのです。かわいそう、などという意味を与えているのは、あなたの観念であり、刷り込みです。他の角度からみたら、そのできごとは、喜ばしいことかもしれませんし、もっと違った意味合いがあるかもしれません。

 起きていることを、情や観念で判断せず、様々な角度から見て、本質に迫ることが大切です。それをすることによって、ヒーリングの相手にシンクロした時、同情したり、一緒にネガティブな気持ちにならずにすむのです。そして、本質を見ることで、相手のポジティブなポジティブなパワーを引出し、問題解決に繋がる光を見せてあげることができるのです。

 同情は美徳のように言われていますが、実際には相手のネガティブな部分を増幅してしまう、ネガティブなエネルギーの感情です。


 かなり冷めた意見である。「淡々と情を入れず、景色のようにテレビを見る」といっても、アナウンサーが情を入れているので「消音」するしかないが、カメラアングル自体にもある種の情があるので、なかなか難しい。また「本質を見ることで、相手のポジティブなポジティブなパワーを引出し、問題解決に繋がる光を見せてあげる」とは実にわかりにくいが、別の箇所にこういう文章があった。

 ・同情しないでください。

 人が何かことをなしているとき、そのことには必ずその人なりの意味があります。同情は、そのことにネガティブな意味を与え、増幅させます。同情せずにポジティブにとらえましょう。常に魂の強さを見るようにしましょう。
 

 我々は「魂の強さを見る」必要があるということか。

 

津波をマンダラ思考で考えると

2011-03-13 12:13:41 | 考えるインディオ
 いつどうなるか分からず、まったく考えもつかなかった立場に追いやられる。まさか一か月後、突如、大地震によって家族を失い、ホームレスになるとは想像もつかない。

 かつて、マンダラ思考~世界は相対的~で書いたことを引用するに、

 世の中には他者と無関係に独立して存在しているものなど何一つない、あなたの見方と関わり合い、つまりあなたとの関連性で、本来は実体のない「人や物」が「可愛い妻(夫からみて)」「憎い嫁(姑からみて)」「女主人(メイドから見て)」という実体を持ってあなたの前に出現したり、コップが「水飲み」「ペン立て」「凶器」となってあなたの前に出現するのです…

 我が輩も海辺に住んでいるが、穏やかな渚を見ていると心が安らぎ、とても幸せな気分になれる。浜辺を歩いていると、釣りでもしながら静かに余生を過ごせたらと思う(まだそんな段階ではないか?)。しかし嵐が来ると海は荒れるし、何百年かに一度?は巨大な津波が押し寄せ、何もかも押し流していく。海などの大自然は、別に人間のために存在しているのではなく、ただそこに存在しているだけなのである。


 ただ、大自然の脅威を知る機会が、なかなかない。山間部での集中豪雨とて滅多に起きず、噴火にしても霧島地方へいかないので肌に感じられない。その中で、海というのは、夏場とか暑中泳いでいたので、身近である。潮が高くなり逃げ場がなくなったり、小波にさらわれ溺れかけたりして、海の恐さを自分なりに感じていたのだが、テレビの映像とかを見て、さらにそれが増幅した。あんな津波にのまれて生き残れるわけがなく、丸太に掴まって助かったなら、それは奇跡であろう。街の惨状からして、10万人以上は亡くなられたのではないか?

 人間が大自然とうまくやっていくというのは傲慢で、やはり人間は大自然に生かさせて頂いている存在にすぎない。今回は、人間が自分たちは何でもできるというその自己中心性を、ぶち壊し、思い知らせたような津波である。

 ホームレスを見て「自分とは関係ない」とは言えないし、被災者を見て「自分は大丈夫だ」とは言い切れない。何かネガティブな雰囲気が漂っているが、あまり感情的にならず、物事を淡々と眺めているのが正しいのかもしれない。