インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

我々の知らない世界

2011-04-22 21:28:12 | カスタネダ『呪術の実践』 !
 無名の個人ブログの割にはアクセスが多いかもしれないが(昨日も200人弱が…)、それも震災での不安やらテレビでJINが再スタートしたからかもしれない。ほとんどは一期一会で終わってしまうだろうが(?)、内容がマニアックだから仕方もあるまい。今、酒をちびっと飲みながら、意識を変え、何やら普通でないことを書こうとしているところである。

 このブログではカルロス・カスタネダの本が頻繁に出てくるわけだが、結構怪しい部分もある。しかし、これはもはや信じるか、信じないかの問題で、もちろんこのブログでは信じる立場に立つわけである。「ナワールに対する絶対的な信頼」があったからこそ、カスタネダは意識の旅をすることができたのであろう。酒を飲まずに、意識を変えることができれば(すんなりと)、大勢が支持するには違いない。

 しかしそこに至るまでには多大な努力、エネルギーが必要であり、我々現代人は些末な日常生活やら目の前の事柄で、意識、エネルギーを奪われている。資本主義社会であるからして仕方がないわけで、ほとんどの人間は働かなければ食べていけない(ある意味奴隷だ)。カネがあれば別だが、それでも世間体やら社会関係上、システムの中で機能しなければならない。その意味では、みんな奴隷なのかもしれない。

 しかし現代社会では休日があるし、こんなネットとかで情報は飛び交っているし、ちょっとした自由さがある(独身であれば特に)。そこで、本とかの情報を頼りに、自分で自分を啓蒙していくわけだが、何か頼りない。外に出れば、現代文明の具体的事物であふれていて、その中に溶け込み、ついついカネを使い、モノを消費する。如何に役に立つ商品を仕入れて、快適な生活をするか、楽しく暮らすか、ということしか考えていない。ただ皆、心の奥底では「何かおかしい」という不満を抱えていて、意識を変えようと酒を飲んだりするわけである(そこで、ちょっと一口)。

 時には、「自分は何てナンセンスなことをしているのだろう」と思うことはたまにある。「エネルギーをエネルギーのまま純粋に知覚する」なんてことは、意味不明であり、わけがわからないからである。古代メキシコの呪術師は、支配階級であり、自分で洗濯やら飯を作るわけでもなく、ただひたすら夢見やら内的沈黙とか、得体の知れないことに全エネルギーを向けて励んでいたわけで、凄まじいパワーがあったには違いない。まさに陰陽師のごとき、呪術を武器として、闘っていたわけである。その点、ドン・ファンなどの末裔、すなわち「新しい見る者」は、別に支配階級であったわけではなく、自分で何かして生計を立てていたわけで、自由な考え方を持っていたわけだ。しかも、自分で何もかもやるわけだから、エネルギーはそこに奪われるけれども、「知恵」がある。その知恵が、いろいろ分別ある行動をうむわけで、恐ろしい生贄の儀式など、拒絶するわけである。

 マヤの王族やら神官がやっていた自己供儀とかも、ひょっとしてエネルギーを知覚するための手段なのではないかと思え始めた。人間という存在は、まず、自分の内臓を目で知覚することは出来ない。しかし痛みが伴えば、その存在をもろに知覚することができる。体調がいい時は、それもエネルギーが増大していることを知覚するわけであるが、別に血液の流れとか気にしているわけでもない。呼吸と同じよう勝手に行われる行為で、これはもう自分の意識を離れ、川の流れやら天体の動きと同じように、宇宙の流れである。雨が肌に当たっても、水で冷たくぬれるだけで、痛くもないが、血が流れると激しく痛い。同じ宇宙の原理に従っているわけだが、目に見えていないはずの、自分の体の方が、より深く認識しているに違いない。

  古代メキシコの呪術な世界にとっては、血と水は、体の内と外との違いにすぎず、何て言ったらいいのか、彼らは外界を自分の体と同じように知覚しようとしたのではなかろうか。もちろん、それは無茶な話なのではあるが、人間というものは、痛みを伴う「肉体」とは別に第二の体、「エネルギー体」なるものがあり(以前書いたように、非有機的存在といったもの)、そのエネルギー体が、大宇宙の世界、エネルギーを知覚するというものである。

 ということで、呪術の世界では、意識を「エネルギー体」に移行させなければならない。しかしそれは「肉体」のエネルギーレベルに左右されるので、エネルギーを取り込み(やはりエネルギーなものを食べるのか?)、得体の知れないりをやってスイッチを押し、いろいろな点に「注意力」を向けるわけである。

 我々現代人は何も知らないわけで…、とりあえず酒でも飲んで、夢でも見て想像するしかないか(もちろん書物も漁ります)