インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

個人的な力

2014-07-23 21:56:35 | 考えるインディオ
  雅太は最近よく考えることがある。それも20代では全く思いもよらなかった考えである。子供の頃は、世の中は序列があり、社長やら先生といった上役の方が望ましいように思われたのであるが、実際はその逆なのではないかということである。

 世の中には雅太の想像を絶するような境遇で生きているような人々がいる。例えば飯場の、タコ部屋労働で働くような人々であり、ミキサー車などない時代で、北海道を開拓し、道路やらトンネルを設えたのは、彼らな訳である。むろん、今の社会でも、喘いでいる人々は無数にいるのであるが、タコ労働者に比べれば、大したことではない。

 そんな凄まじい境遇では、圧倒するような凄い人間が多々いたことであろう。一見して、こいつはただ者ではない、口先だけではなく何かやりそうだ、という感じで、大企業のエリートやら先生の類いとは、説得力、パワーが違うわけである。

 過酷な世界を体験し、生き延びてきた年配者は、やっぱし言葉の重みが違う。「修練とは、やりたくないことをやり、読みたくもないものを読まされることだ」というわけで、小暴君に屈することなく、意識を磨くということになるのだろうか。

 雅太はカスタネダの『未知の次元』を読み返すたびに、実生活で、個人的な力をつけるためには、自分自身がもっと抑圧される環境にあるべきなのではないかと思ったりするのである。むろん、今の仕事でも雅太は体のあちこちが痛く、必ずしもやりたいことをやっているわけではないのだが、シベリア抑留者やらタコ労働者に比べれば、まだまだ温い環境にあるに違いない。もっとも、雅太には、生きて帰れるかどうか分からないような身を委ねる根性がないのかもしれぬ。

 もっとも、どこにいても同じなのかもしれぬ。意識を磨くのは自分次第、ひねくれたり、マイナスに染まるのも、抑圧してくる相手を祈るのも、自分次第である。日常生活とは、意識の闘いなのであろう。

 個人的な力がついたかどうかは、何をおびき寄せたか、前兆、結果、目の前の出来事が、それを示しているのだろうか。

勝手に看板

2014-04-13 14:29:17 | 考えるインディオ
  4月は思えないくらい染みるほど寒く、雅太は毛布の中で震えて寝た。起きたら喉が痛い.ビタミンCが足らないのかもしれぬと、日曜日は食材を買いに店を渡り歩く.自炊というのは面倒だが、健康に直結するので、雅太は人一倍気をつかい、地産地消なネーブルやらキウイフルーツ、サツマイモやキャベツを切らさないようにしていた。出来ればカボチャとか欲しいところだが、季節外れでニュージーランド産しか無い。激安スーパーではなぜ安いのか不気味で、中国地方の魚、カレイやイワシを調達して、焼いて食べることにした。

 雅太が国道に車を転がしていると、新しい看板がやけに目立っているのに驚いた。時折スーパーの無料広告に空き不動産が出ているのチェックし、「ここに店を出したら」と雅太は妄想していたのだ、実際にドンピシャな場所に看板を出している強者が居て、感動したりする。

 モノがあふれている時代だが、金が回らず、仕事が少ない。だから地元を去る若者が多く、何としてでも地元に居続けたいのならば、それなりの勝算があれば、商売をするのも良いかもしれぬ。特に「仕事帰り、18時から20時あたり」が狙い目で、カラオケやら踊り場やら、面白そうなサービス業が狙い目なのかもしれぬ。とはいえ、若者が少ない地方だと、仕事が終わったら、疲れをとったり家庭へ戻るためにそんな集いに寄らぬかもしれぬ。

 大都会ならばクラブ以外も、英会話教室やらトレーニングジム、趣味の催しがあったりするが、「呪術の学校」なども、怪しげな宗教サークルみたいな感じで、存在するのかもしれぬ。

 雅太の今、手元にあるゲートウエイの教材であるが、これは自宅用だが、説明書にあるように「期待しないで下さい」というのが、正に的を得ていると思われる。ゲートウエイに期待してはならない.しかし期待しているからこそ、うん万円も払って購入するわけで、実に矛盾している。

 というか、体外離脱とて、大したことではなく、単なる夢の一部に過ぎないと言ってしまえばそれまでで、「体外離脱に期待してはならない」というのが雅太の本音だろうか.ただ、浮遊霊となって、色んな場所へ行ったり色んなことを知ったり(遠隔透視)出来るようなレベルに達すれば、マクモニーグルのように「遠隔透視をビジネスに応用して、コンサルティング会社を起こしてみてはどうか」と考えるかもしれぬ。

 ただそれば出来れば客が殺到するので看板など出す必要も無く(裏を返せば客が見つからないから看板を出しているということ)、逆に人から逃れるような生活をしなければならないのかもしれぬ。

 妄想がそこまで発展したとき、雅太は頭が混乱し、ブログを書くのを止めるのであった。

つらつら思うに、、

2013-05-16 07:05:28 | 考えるインディオ
  久々にインターネットを見てみると、新鮮味があって面白い。

 もともとテレビは観ないし、新聞もとっていない。

 為替レートが102円になり、いつの間にか交流戦でカープが連勝していた(しかしかなり負け越している!)、

 どうでもいいことかもしれない。

 ぐだぐだと考えること自体に疲れてきた。

 ぐだぐだした文章を読むのも、何となく避けたいところだ(が、未だにカスタネダとかモンローとか読んでいる)。

 夢を見ている間が一番楽しい。

 夢見をするには、今が一番いい季節だったり(暑くもなく、快適です)
 

現実の評価;印税以前

2013-05-05 07:56:23 | 考えるインディオ
  さっきも少し小説を書いていた。小説の中に夢の要素がどんどん混じってきており、構想の枠をはみ出している(生命体になってきたか)

 それにしても、この小説が完成したら、まずはどこかの新人賞にでも投げてみるべきかな、と思い始めたりする。それでダメならば、WEB無料公開(ほとんど読まれないが)が筋というところか。

 最近ガソリンも高いし、そろそろJAFやら軽自動車税やらオイル交換が必要になり、カネが消えていくわけで、1000円でも印税が欲しいというのが本音である。しかしながら、無名人の小説というのは、売れない商品であり、出版社はまず扱わない(自費出版なら別だが)。

 まだ「体外離脱をしました」体験談、とか、「カスタネダ解説本」(原書で英語教材も兼ねる)とかの方が、まだマシだろうが、オカルト系になれば、「信者」を抱えていないと、確実に売れるかどうかも未定で、扱うのもためらうかもしれない。

 出版社側は、売れた本を書いた作家の原稿が、欲しいのである(経営上仕方がない)。

 これは売れますよ(お勧めします)、ではなく、「実際に売れたか」どうかが、問題なのである。

 映画や小説でも、「会話で表現する」よりも、「行動で見せる」というのが重んじられている。

 現実でもそうかもしれない。

 「彼は金持ちだ」と言われるだけでは、「本当かな」で終わるけれど、「彼が新型ベンツに乗っている姿を見た」なら、反論はない。

 同様に、「彼はとても面白い小説を書いた」と言われても、そんなに読む気はしないだろう。「新人賞」でも獲って、新聞の書評などで絶賛されたら、少しは信じて、興味を持つかもしれないが(小説は趣味の世界だから、その程度だろう)。

 アルファポリスならば、前もってインターネットでの評価も参考になるかもしれない。

 だが、吾輩が出版社を経営しているとしたら、、

 無名人の小説など恐ろしくて出版する気にもなれんのだわい(200万分、宝くじを買います)

 

世捨て人になりたい心理

2013-04-17 19:19:30 | 考えるインディオ
  鞄の中身を見れば、その人が分かる(部屋でも、車でも?)。心配性は余計なものをたくさん抱えており、鞄が重たくなってしまう。

 それゆえに、動きにくいし、余計な労力を使う。たとえば、折り畳みの傘とか携帯のバッテリーとか本とか水筒とか。

 それも必要なのであるが、水筒を2本、本も3冊、バッテリーもたっぷり入ったもの、というように、「いざという時」「まさかのため」に準備しておくわけである。

 実家に戻るときなどは、余計なものだらけで三分の一も利用していない。

 そんな具合だから、吾輩のアパートは要らないものだらけかもしれない(ポメラ、本、服…)

 それでも昔よりはましになっている。しかしどんどん買い込んでいるかもしれない(邪馬台国の本など)。

 読書や執筆活動もそれなりに楽しいが、夢見はさらに楽しい。面白い冒険をした夢を見た後は、インターネットも、パソコンも、何もなくても幸せだ、とさえ思われる。とにかくもう一度、面白い冒険をしたいのである。

 夢見の注意力は、第二の注意力への道。そこは肉体ではなく、夢見の体(エネルギー体)で動き回る。

 もちろん、日常生活での意識がベースになっている。しかし普通の夢では流されるけれど、夢見では積極的に動けるわけだ。

 こんな面白いことが出来るなら、もっと早く知ればよかったと思うが、誰も教えてくれないから仕方がない(カスタネダ以外)。

 この楽しみを覚えたら、もう、俗世から離れて暮らしてもいいかな、と思うようになるし、実際、そう考えている。

 朝から晩まで働けば、夢見どころか、普通の夢すら見れなくなり、ストレスが溜まり、飲んだり食ったりリアルな快楽に走ることになるのだろう。

 俗世から離れて暮らすための生活の手段が問題となるのであるが……

  夢見で体験したり、研究したりした報告書を執筆したりするのが理想かも知れないわい(作家になることか)

  ナワール・エリアスのように夢見の体で治療師になるのがいいですね(え? そんなことが出来るわけない?)

自我意識との戦い

2013-02-17 17:18:22 | 考えるインディオ
  体調が悪くて、眠っていた。ここ一ヶ月、健康状態がすっきりしないが、それも色々考え事をしているからかもしれない。

 「戦士の闘いとは、人間から力を奪う、自我意識との戦いである」というわけであるが、人生を「反復」したりする時に、当時の音楽を聴くのだが、自我意識がメラメラと燃え上がってしまう。

 たとえば、「作家になろうと投稿していた時期」は、頭が妄想モードになっていたのであるが、それが甦ってきたりする。音楽というのは、自我意識を掻き立てる代物なのかもしれない。そしてもちろん、執筆というのは、自我意識を書き連ねる行為であり、自我意識が肥大化していき、勝手に自己陶酔したりするわけである。

 面白ければ読者は付いてくるだろうが、書き手の精神状態は異常をきたしてくるだろう。文筆業というものはそういうものかもしれない。自殺者も多いし。

 こうやってブログを書いているのも、「自我意識=自惚れや自己憐憫」がまだまだ残っているからであろう。単なる備忘録でなく、誰かが読んでくれるのを期待している。他人のブログなど、長文ならば飛ばして読むのが普通だが。

 「面白いことを書け」「何かで笑わしてくれ」というのが、読み手の本音なのであろう。そして、自分もそれを目指していたのであるが、何か趣向が変わってきた。

 「ガツンと意識を変えさせてくれ」「この太った自我意識を何とかしてくれ」というのが、今の我輩の本音である。

  カルロス・カスタネダやドン・ミゲル・ルイスなどがそれに応えてくれている。

  吾輩の意識を例えるならば、大地を這っている巨大なイモムシのようなものであったのだが、カスタネダの本の重みによって、ぶちっと、潰されてしまったのである。

  イーグルの圧力が、意志の力が、イモムシの動きを止めた。つまり、妄想小説が書けなくなったのかもしれない。
  
  踊りや神々、音楽、芸術といったものは、より高いものと接続するときの、ほんのカケラに過ぎない。

  これからは、「沈黙の中で書かれた文章」を尊重していこうと思う。

  夢の出来事か、神秘体験か、カスタネダの文章の援用か。このブログ自体が「自我意識との戦い」なのだわい(この猫は「自惚れ」の象徴ですね)

  では僕は「自己憐憫」の象徴なのですか(そろそろ消されるのですね)

夢見こそ、最高の娯楽なり

2013-02-10 10:49:22 | 考えるインディオ
  昨夜は体外離脱はしなかったが、面白い夢を見ることができた。夢を見たら頭がすっきりする。

  悪いものを排出した、頭が浄化された感じ。

  「夢を見る」というのが最高のストレス解消法であるということに、最近ようやく気づいた。


  「読書をする」というのは、本の種類にもよるのだろうが、カスタネダ・シリーズとかは理解するまでにはストレスがたまる。

  このブログにしても、そのカスタネダ関係をかいつまんでいたりするので、な呪術用語でストレスがたまるかも。

  そうなると、大勢に読まれるわけがないが、

  このブログはかなり個人的な事柄もあり、そうなっては困る部分もあるので…(それでいいかも)。


  でもUPすれば、未だに訪問者が一気に増え、

  誰かが、ひょっとして吾輩の知っている誰かが、閲覧しているわけである(見てますよ)

  「本を読む」「音楽を聴く」「映画を観る」といった、ありふれたストレス解消法は、

 「夢を見る」ことの代償行為に思われてならない。

  カスタネダ用語でいえば(ストレスが溜まる?)、それらは「集合点の移動」を試みようとすることか。

  良い夢を見れたら、代償行為はあまり必要ない。体外離脱ができたら、爽快で、もう何もいらない。

  そのためには、自分の過去を「反復する」ことが必要だ。

  その過程で、底知れぬ虚しさを感じたり、涙が流れたり、感情がボロボロになったりするわけだ(人生によって異なる)。

  今夜も面白い夢が見たいものだわい(やはり夢は未明に多いですね)

  

  

現実逃避する場所は…

2013-02-09 12:12:30 | 考えるインディオ
今日の瀬戸内地方は寒く、田舎には戻らない。しばらく人生を反復していたら、何か虚しい気分に襲われた。

 こうやってインターネットをやる、映画を観る、音楽を聴く、はてまた酒を飲んだりする、多くの行為は、「現実逃避」である。

 と、同時に、堅苦しい「理性」の鎧を脱ぎ捨てようと従っているのかもしれない。


 ついさっきまで読んでいたのだが(カスタネダの『意識の回帰』)、世界は矛盾だらけで、「相反する命題」から成り立っているようだ。

 つまり、「見る者」は、「秩序だった理性的な者、冷静さの権化でなければならない」と同時に、「存在の不思議と謎に対して開かれているように、そうした性質を避けなければならない」。

 日常生活の意識(第一の注意力)を輝かせ、さらに夢や得体の知れない次元の意識(第二の注意力)も輝かせなければならない。

 正気と狂気を両立させなければならないのである。


 狂気の触りが、音楽やら踊りやら酒やら麻薬ということになるのだろうが、第二の注意力は「もうひとつの正気」であるから、ちょっと次元が違うのであろう。

 前者に従って行動すれば結果はかなり怪しいが、「夢」やら「直観」を参考にすれば、未知の状況で上手く立ち回れたり…。



 そもそも今の社会状況、フリーター、非正規、失業者の低所得者だらけ。

 吾輩とて、将来のことを考えると、現実逃避したくなる。

 それでな世界にはまっているのかもしれない。

 そういう閲覧者も多いだろう。

 しかし逃げるわけには行かず、状況からして、むしろ積極的に「未知なこと」にチャレンジしなければならないのだ。

 しかし理性がそれにストップをかける。

 「既知のこと」に焦点を合わせさせ、「未知のこと」を遮断する。

 可能性はすぐそこにあるのだが、導いてくれる何かがないので、怖いのである。
 


 そもそも「意識」とは何か?

 カスタネダによると、人間は自ら意識しているのではなく、「意識させられている」という。

 すなわち、意識の起源は、自己の内部ではなく、自己の外部にある。

 宇宙の根源的な力(イーグル、意志、精霊、抽象、▽)が、外側から、そのイーグルの一部である人間(エネルギーの塊)に圧力をかけるから、意識が発生するというわけである。

 なるほど、周囲の状況が変われば、人間の意識は驚くほど変わってしまうのである。

 いや、周囲の状況が変わらなくても、イーグルは、果てしない「意識の暗い海」であるからして、

 これまでの全人生の潜在意識(過去世もあるかも)が、人間を勝手に、操り人形のように動かすのか。

 

 何を書いているのかわからなくなったが、

 第二の注意力という、日常生活とはかけ離れた意識に逃避?して、

 それを現実生活の未知の解決に導きたいということか(結局は、「直観力を鍛える」を遠まわしに言っただけだったり)

 

 

直観

2013-02-06 07:33:45 | 考えるインディオ
 毎日毎日、聖書のようにカスタネダを読んでいるのであるが、つまるところ、呪術というのは「直観力を磨く」ということに尽きるのかもしれない。

 その手段が、忍び寄りであり、夢見であり、内的沈黙である(カスタネダな呪術専門用語)。

 人間は、イーグルの放射物の一部であり、精霊のひとかけらである。宇宙にあまねく存在する偉大な力、イーグル、精霊の、単なる通り道である。

 しかし雑念が多すぎて、それで電波妨害されているわけである。

 いや、人間が新しい電波を発信し、それを受け取って、わかったような気になっているだけなのかもしれない。

「話し言葉」が世の中に無数にあって、それが飛び交っている。そのうち、いくつかを受け取って、参考にして、自分で考え始めるわけであろう。

 それが「内的対話」となって、「自分は物事を分かっているのだ、物知りなのだ」とか、逆に「勉強不足だ、だからダメなのだ」とか、グダグダと勝手に自己満足に浸ったり、自分を責めるのだろう。

 いくら勉強しても、運がなければ成功しないし、「運も実力のうち」である。

 直観が磨かれているというわけだ。

 つまり、精霊が発する「沈黙の言葉」を聴くだけの力がある。

 我輩などカスタネダのな専門用語を理解しようとしているが、

 「必要なのはエネルギーをためることだけで、学ぶことなど本当は何もない」

 というのが、本当のところなのかもしれない。



 

時は過ぎていく…

2013-02-02 19:44:41 | 考えるインディオ
  今日は暖かく過ごしやすかった。どうも体調がかんばしくなく、今日も何か熱っぽい。

 「反復」なる想起をしながら、昔の出来事を世相とともに思い返していた。10年なんて、一昔であり、あっという間の出来事である。時間感覚が変わってきているのか、小学生の頃の一週間が、今の一ヶ月のようなものなのかもしれない。

  1995年というのは、病気で、体力的にきつかった時期である。阪神大震災や地下鉄サリン事件とかもあり、世の中も暗かった。

  しかもモーツアルトの『レクイエム』を聴いていて過ごした。翌年は快調になったが。

  1年はたったの12ヶ月しかなく、1ヶ月は、今も着々と過ぎている。特に2000年に死んだ祖母の口癖「2月は逃げる、3月は去る」であり、あっという間に4月になっているだろう。

  20歳の頃は、40歳なんて全く考えられなかったが、時間は人間を「何処かへ」運んでいくわけである。

  50歳、60歳と、生きていればの話であるが、「ある状態へ」運ばれていくのだろう。

  人間、本来無一物で生まれてきて、何も持たずに死んでいく。

  ばりばり働かねばならない年齢であるが、「この状態は」…。

  60歳とか、70歳とか、死ぬ直前になって、ああすれば良かった、とならないようにしたいものだ。

  そういえば、昨年の四月に「人生という旅」という記事を書いたっけ。別府へ癒しに行ったのを思い出すが、今年もどこか、大自然に癒しを求めに行きたいものだ。

  まだ首輪がついており、自己憐憫に満ちている。まだまだ理性の力にすがろうとしている。

  今年は、集合点を固定させたいものだ(憐れみのない場所へ)。

  すると、目が輝き始めるのですね(今年こそ、覚醒してください)

高橋容疑者とカスタネダ

2012-12-18 05:49:54 | 考えるインディオ
 ぐっすり寝たので風邪気味だったがだいぶ良くなった。また妙にリアルな夢を見たのだが、意図的に何度も瞬きをし、まつ毛で目に痛みを覚えたほどだった。

 さて、今更であるが、何でカスタネダ経由のアクセスが多かったのか最近わかった。多分、これだろう。

 オウム高橋が愛読した“呪術本”の中身…書店に注文殺到!

 『呪術と夢見』『呪術の体験』である。吾輩は、『無限の本質』というラストから手をつけた変わった?読者のなので、この二冊よりも、『沈黙の力』『呪術の実践』『夢見の技法』『意識の回帰』の愛読者である。

 内容は重複しているわけで、まあ、この本には「自首しなさい」とか道徳的なことは書かれていない。悟れるかどうか(見るものになれるか)は、全てはエネルギーの問題であり、呪術師はエネルギーの節約方法に長けている、とかしかない。

 しかし監獄の中に入れられてしまえば、「集合点の操作」によって出られるとも思えないし、ただ夢見の中で?高橋容疑者は別の世界を生き続けるだろう。17年逃亡できたのは呪術の力によるものか(?)。

 ただ、最後には450万円以上持っていたらしいので、金を稼ぐことにエネルギーを使っていたように思われる。それと、ケチケチ生活をしていたのだろう、吾輩とは比較にならないくらい。「もっと使っておけばよかった」というのが本音か。

 吾輩も、過去の住民税から逃亡していたのだが、とうとう捕まってしまった。

 カスタネダ本を読む奴は取り締まったほうがいいのかもしれんわい(とんでもないアウトローだらけだったり)

 

 


思い出しの技を鍛えねば…

2012-12-15 18:57:10 | 考えるインディオ
 コタツの中からアクエリアスが出てきた!(2ℓのペットが)

 昨夜、冷たいものを飲むのが嫌で、温めていたのですね(自分のしたことを忘れないで)

 非常に忘れやすい人間である。と同時に、ちょっとしたことですぐに思い出す人間でもある。

 一人、バイキングを食べに温泉に行くと、高齢者の団体がたむろしており、カラオケが響いていた(20分ぐらい)。

 とんでもないバイキングだと思いながら、物色すると、欲しいモノがあまりなく、仕方なく特製?カレーを食べる。彼女がカレー好きだったのを思い出し、何か切なくなった。あんみつとかアイスとか、そんなのばかりで、ケーキとか無理やり胃袋に押し込み、サウナで粘ってきた。そして帰ってこれまでの人生を「反復」しているところである。

 一応、年表にしているのだが、まあ、ふらふらした人生である。この年表に沿って行動するならば、そろそろ仕事を辞めて、どこかに旅にでも行くことになるのだが、住民税が両手を広げて通せんぼしてきた(何かのサインに思える)。

 もう、理想を追い求める年齢でもなく、現実に、堅実に生きろというのかもしれない。

 「作家業」を志すにしても、働きながらやるべきなのだろう。

  無職で作家を目指すというのはあまりにも無謀すぎる。

 「呪術師」を目指すというのも、何か悪徳祈祷師か、胡散臭過ぎて、きっとそれは何か別の仕事にプラスアルファとして生かされるべきなのであろう。

 教師とか、営業マンとかでも、呪術師の訓練をすれば何らかのメリットがあるはずだし、作家とかもろにそうに違いない。

 毎日コツコツ考えて調べて書くという作業が文筆業なのであろうが、

 夢の中の物語をそのまま写すという作業をやってみたいものだわい(やってはいるのだが…)

 忘れやすさを克服するしかありませんね(夢の中を記憶する訓練をしてください)

物語を掘り起こす…

2012-11-14 07:17:52 | 考えるインディオ
 6時間熟睡し、目覚めたらちょっと寒かった(14.3℃)。

 そういえば最近、四か月間寝かせておいた(?)小説を再び書いている。

 物語というのはブログと違う表現手段であるが、別に自分の思想を表現するための道具でもない。

 しかし結構そういう色は自然に出るもので、物語全体が自分の人生・経験の「反復」になっていたりする。

 完全なフィクション・絵空事では説得力もないし、昔と違って、書いていて面白味を感じなくなった。

 ノンフィクションが一番だが、生きにくくなるので(有名になれば)、脚色、脚色、で叙述していくわけである。

 それでも、テーマや内容が吾輩の土俵?なので、このブログを読んでいる方は「が書いたのでは?」とすぐに判明するわけである(自意識過剰か)。

 まあ、物語を書くというのも、ブログや日記を書くのと同じように、当時の心境を鏡のように映し出しているので後々の「反復の材料」になるには違いない。

 実際にこれまでも未完の作品?が何本もあり、虚しいわけであるが、それでもそれを読めば当時の様子がふつふつと思い起こされたりして、ある意味、日記よりも格段に効果的である。

 勝手に熱中していた時期というのは、案外、空白を感じたりするのだわい(痛みほど記憶に残ります)

過ぎ去っていく列車

2012-11-13 06:42:09 | 考えるインディオ
 甘酒(しょうが&酒粕&ハチみつ)を飲んで熟睡(5時間程度)した後、そろそろブログを書かないとと、PCを立ち上げてみる。着込んでいるせいかコタツに足を突っ込んでいるせいか、16度で暖かく感じ、甘酒(残り全部)を飲むとまた眠気が襲ってきた。

 洗濯機が止まったので、洗濯物を干してまた書こう。干している間に、朝食のイワシ(鍋にある)とお湯を沸騰させ、さらにそれを食べながら、キーボードを叩くわけである。

 (中断)

 干している時、数十メートル先?に、朝の列車が通った。一瞬ではあるが、出勤するサラリーマンや学生などが窓際に座って、こちらの方を観ているのに気付いた。換気しながら、靴下とか干している吾輩に気づいただろうか? いや、考え事や音楽などの雑事、労働の疲れや、これからの拘束に備え、それどころではないだろう。

 吾輩とて、通勤時間を含めると、10時間ぐらいは仕事に拘束されるわけで、精神的にも肉体的にも周りの光景を見渡す余裕がないことぐらい想像がつく(いや、あるか)。ましてや、ITの時代で、列車の中でさえ、人々はiphoneやらスマートフォンを眺めまわし、何かを理解し、何か知ったような錯覚に陥っている。

 吾輩とて、windowsphoneで暇さえあれば、過去の出来事や一年前書いていた小説を読んだりして、勝手に一人の世界に浸っているわけである。そして今も、こうやってパソコンで…。

 時間は過ぎ、今炊きかけの玄米(四時間かかる玄米GABA増量モード)も出来上がるだろう。

 そしてさっき通った列車もほぼ同じ顔ぶれで、明日も過ぎ去るのだろう。

 そして吾輩はこうやって精密機器を凝視しているのだろう。

 意識がそこに固定されている限り。

 

11月1日、久々に書く。

2012-11-01 07:21:54 | 考えるインディオ
ついに11月になった。この寒い季節は、あまりヨロシイ思い出がないような気がする。さらに月が進めば、喉や頭が痛くなったり、歯が痛くなったり、果ては実家界隈の道路が凍結し恐ろしい目にあったりと、気をつけなければことだらけである(しょーもないような)。

 人間はなかなか変われず、同じ誤りを繰り返している。吾輩もそうで、反復しながら、「何で毎回毎回同じ罠に引っかかるの?」とか思ったりする。

 人生とは矛盾だらけなのかもしれない。

 たとえば「朝起きてネットでエネルギーを消耗する」という問題があったとしよう(毎朝スポーツやらニュースやら検索したりする癖がある)。

 立ち上げなければ、このブログが書けないため、更新できない。それに、スカイドライブなデータ・原稿が書けない。

 要は、ニュースや興味ある情報にタッチしなければ良いだけなのであるが、この種は芋づる式になっているので、無間地獄に陥りやすい。

 ケータイ電話は、ネット接続していないから大正解だったのを考え、

 パソコンもそれがいいのかもしれない。

 どうしても調べたいことがなければ、

 いっそのことケーブルを取ってしまうのがいいのかもしれんわい(送信するときだけ接続します)。