インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

本物の「おのれ」☆ハイアーセルフ☆超人

2009-03-14 23:59:14 | ニーチェ
  皆?「聖なる木」に関心があるのか、アクセス反応が異常である。特に、昨日のを見ると、UPした後一時間で、すぐに57人が訪問している。

 まあ、他のブログでこんなことを企んでいたら、インディオも訪問したくなるわい(もっともっと喜ばしてくれ)

 ところで、さっき偶然、『天使のくれた時間』を観た。たぶん、3度目になるだろうか。
 大金を動かす社長だったニコラス・ケイジ(主人公ジャック)が、クリスマスの夜だけ、もし13年前、恋人と結婚していたらマイホームパパだったという体験を、夢の中?でするわけである。

 昔頑固だったので、「あの時、ああしていたら…」今、こんなイカレタ?ゴホゴホ通信は書いていないだろう。子供と遊んでいるか??と思う。まあ、身軽な人間だから、こんな発想が湧いて出るのだろうが。

 最近、鮮明な夢ばかり見て(ノートを見ると)、大リーガー(ペドロイア?)やら、ニュースキャスター鳥越さんやら、先生やら編集者やら色んな人が一杯出てくる。「何かが働きかけている。何かが逃げろと囁いている」(逃げよう)といったシリアスな映画のような夢もある。

 起きた時でも、まだ夢の中にいるのではないかと疑う。確かに肉体を有してはいるが、この肉体とて永遠の存在ではないわけで、死んだとき、やっと醒めるのか??

 生活している最中でも、はっと覚醒することがあり、それは恐ろしく冷静な瞬間で、全てを悟った?境地に陥るが、すぐに元の鈍らなインディオに戻る。

 いま、こうやってグダグダ考えている「わたし」というのは偽者の自分かもしれない。意識している「わたし」はただ、ただ、混沌としている。それを「本物のわたし」が、ハイアーセルフのような高いところから、その様子を伺っているのかもしれない。

 ニーチェの『ツアラトゥストラはかく語りき』の、ある文章を思い出す。

 身体とは一つの大きな理性だ。ひとつの意味を持った複雑である。戦争であり、平和である。畜群であり牧者である。

 あなたが「精神」と呼んでいるあなたの小さな理性も、あなたの身体の道具なのだ。わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。

「わたし」とあなたは言い、この言葉を誇りとしている。しかし、もっと大きなものは、――それをあなたは信じようとしないが――あなたの身体であり、その大きな理性である。それは「わたし」と言わないで、「わたし」において働いている。

 感覚は感じ、精神は認識する。それらのものは決してそれ自体で完結していない。ところが感覚も精神も、自分たちが全てのものの限界であるように、あなた方を説得したがる。彼らはそれほどまでに虚栄的なのだ。

 感覚も精神も、道具であり、玩具なのだ。それらの背後にはなお本物の「おのれ」がある。この本物の「おのれ」が、感覚の眼を持って尋ねている。精神の耳をもって聞いているのである。

 この本物の「おのれ」は常に聞いたり、尋ねたりしている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する。それは「わたし」の支配者でもある。

 わが兄弟たちよ、あなたの思想と感情の背後には、強力な支配者、知られざる賢者がひかえている、――それが本物の「おのれ」というものなのだ。あなたの身体の中に、かれは住んでいる。あなたの身体は、かれなのだ。

 あなたの最善の知恵の中よりも、あなたの身体の中に、より多くの理性があるのだ。そして、あなたの身体が何の目的で、あなたの最善の知恵を必要とするのか、誰がそれを知っているだろう?

 あなたの本物の「おのれ」はあなたの「わたし」を笑い、その高慢な小躍りを笑う。「こうして思考が踊ったり跳ねたりしているのは何の意味だろう」と、「おのれ」は独り言をいう…


 ニーチェがいった本物の「おのれ」とは、ハイアーセルフのことであり、

 ニーチェの唱える「超人」というのも「光であるハイアーセルフ」であるとしたら、

 ニーチェの思想も、サネヤ・ロウマンに近いのではないか。

 サネヤ・ロウマンが光のオリンをチャネリングしたのなら、

 ニーチェは光の教祖ゾロアスターをチャネリングしたのか…。

 ニーチェの本は「苦しみ」、「戦争」、「破壊」、「悪」、「死」といったマイナスな言葉が多すぎます(あれでは間違った読み方をされますね)

打ち砕きなさい、「善くて義しい人」たちを!

2007-12-16 09:44:35 | ニーチェ
  ニーチェも正義の味方が気に食わんらしい。
  ツアラトゥストラでかく語る、(岩波の下巻p122)

 おお、わが兄妹たちよ!どういう人のところに、人間の未来を脅かす最大の危険がひそんでいるのか?それは「善くて義しい人」たちのもとにではなかろうか?
「我々は何が善であり、何が正義かをとっくに知っている。そして実際にそれを身につけている。いまだそうしたものを探し求める者は、わざわいなるかな!」こう彼らは言い、心中に感じている。
 悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。また、現世の誹謗者がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。
 おお、わが兄妹たちよ、その昔、「彼らはパリサイ人だ」と述べた人は、「善くて義しい者」の本心を見ぬいた人であった。しかし、人々はかの人を理解しなかった。
「善くて義しい人」たち自身が、彼を理解するわけもなかった。彼らの精神は、その安らかな良心のなかに囚えられているからだ。善人たちの愚かさは、究めがたく利口にできている。
 しかし、真実のところはこうである。善人たちはいやでもパリサイ人たらざるをえないということ。――かれらには選択の余地がない!
 善人たちは、独自の道徳を創りだす者を十字架にかけざるをえない!これが真実なのである!
 かれらの国、つまり「善くて義しい人」たちの生国と性根と風土を発見した
もう一人の者、その第二の者は、つぎのように尋ねた。「彼らは誰を最も憎むのか?」
 彼らは、”創造する者”をこそ、最も憎悪するのである。石の板を壊し、古い価値を壊す者、破壊する者を――彼らは犯罪者と呼ぶ。
 というのは、善人は創造できないからである。かれらは常に「終りのはじまり」である――
 ――かれらは新しい価値を新しい板に描く者を十字架に掛ける。かれらは”おのれのため”に未来を犠牲にする。――かれらは一切の人類の未来を十字架にかけてしまう!
 善人たち――かれらは常に「終りのはじまり」であった。――


 インディオなりに解釈するに、現代人(=善人?)は創造できないが、古代人(=悪人?)は創造できた、ってか。独自の道徳を(とんでもない道徳だが…)。


処世の術!

2007-12-15 05:10:20 | ニーチェ
「さて、わたしの第三の処世の術は、こうである。あなた方が悪人に対して抱く恐怖心など、わたしには問題にならない。わたしは悪人たちを見るのを喜ぶ。
 わたしは灼熱の太陽が生み出した奇跡、虎や椰子やがらがら蛇などを見るのが、きわめて楽しい。
 人間の中にも、灼熱の太陽が生み出した美しい種族がおり、まことに驚嘆すべき悪人たちがいる…」(ツアラツゥストラはかく語りき;岩波の上巻p250)。

 読めば読むほど、古代アメリカ人のこととしか思われん。

「あなた方の魂は、偉大なものをあまりにも知らない。だからあなたがたは、超人がやさしさを見せたときにも、さぞ恐ろしいと思うことだろう! …」

 どうも、生贄の儀式が連想されてならん。

 古代アメリカの研究をしながらニーチェを読み、インディオ通信を書く。

 頭がいかれるための最短コースである。


 

12月11日…神は死んだ。

2007-12-11 20:50:40 | ニーチェ
ニーチェは反キリスト教者(…なら、悪魔崇拝者か?!)
神は死んだ→ 昔、神は生きていた→ その神とは、古代ギリシアの神々(ニーチェはディオニュソスの大ファンだった)→ 理性的ではない(狂っている)(ニーチェも狂って死んだ)。

アステカがスペインに滅ぼされた時、アステカの神々は死んだ。
血を欲する神は、慈悲深い神になった。当たり前に人間に物を与える。

生き物の中で,人間は殿様か?

インディオは思う。

人間は大地の乞食である。神々への感謝が足りない。

6月27日 …ニーチェの言葉

2007-06-27 04:03:47 | ニーチェ
 ニーチェの問題発言。

 「すべての書かれたものの中で、私が愛するのは、血で書かれたものだけだ。血を持って書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。

 他人の血を理解するのは容易にできない。読書する暇つぶしを、私は憎む。

 読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者が続いていれば、――精神そのものが腐りだすだろう。

 誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。

 かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。今では賎民にまで成り下がった。

 血を持って箴言を書く者は、読まれることを求めない。暗証されることを望む…」


 インディオよ、血を持って書け!

(どうも「血生臭い文を書け!」って感じが…)

6月12日 …ニーチェは交霊術師か

2007-06-12 04:11:11 | ニーチェ
インディオが十代の終わりにハマッタ本。
 
『ツアラトゥストラはこう言った』
 ニーチェ著 氷上英廣訳
岩波文庫 上 ¥350 下 ¥520

ツアラトゥストラ=ゾロアスター教の教祖

ニーチェはゾロアスターではない(生まれ変わりか?)。

たとえるなら、高校野球の監督が『イチローはこう言った』と大勢の球児に指導しているようなものである。

イチローが知れば「俺はそんなこと言った覚えねーぞ!」と激怒するに違いない。

だからこれは…「私は狂いました」と宣言した本である。

しかし当時の大学教授の社会的地位は凄かったので、少しは売れた(死んでからは爆発的?に売れた)。

先日、『コンセント』で発狂者がシャーマン(呪術師)になる例が出たが、
正にこれこそシャーマンの書いた本である。

そもそもニーチェの念頭には古代ギリシア世界があった。

どうもディオニュソス(酒と踊りの神)崇拝をしていたような節がある。

それは深い身体性に沈んでいく世界であり、
本書にも、

「自我、それは、身体について語っている。・・・・・」
「この自我はますます誠実率直に語ることを、学ぶだろう。そしてそれが学べば学ぶほど、ますますそれは身体と大地を讃え、敬うようになるだろう・・・」
「あなたの身体の中に、より多くの理性があるのだ。・・・・」
「身体は、知識によって、自らを浄化する。知識を持って試みつつ、身体は自らを高める。・・・・」

パラパラ捲って読み返すと(昔読んだとき、沢山マーカーや傍線を引いている!)、
古代アメリカ世界のことを言っているように思われて仕方ない。

「愛することと破滅すること、これは永遠の昔から相伴うものだ。愛しようとする意志,それは、喜んで死のうとすることだ。あなたがた臆病者に、わたしはこれを言う!・・・」

「あなたは奪ってはならない! あなたは殺してはならない!」――そのような言葉を、人々はかつて神聖と考えた。その前に跪き、頭を垂れ、靴を脱いだ。
しかし、私はあなた方に尋ねる。そうした神聖な言葉以上の略奪者や殺害者が、かつてこの世にあったろうか?
 およそ生きること自体が――略奪と殺害を含んでいるのではなかろうか? そして、あのような言葉が神聖とされた時、〝真理〟そのものが――打ち殺されたのではなかろうか? ・・・・・

動物が、あなた(ツアラトゥストラ)はこう言うだろうと、語る言葉)
「あなたはこう言うでしょう『今、私は死んで行く。消滅する。一瞬のうちに無に帰する。魂も、身体と同じように、死をまぬかれない。
 だが、多くの原因を結びつけて私というものをつくり出している結び目――その結び目は、また私をつくり出すだろう! 私自身も永遠回帰の中のもろもろの原因の一つとなっている。
 私は再び来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。・・・・・・・・」

 鷲と蛇? これはもはやインディオの世界だ。
生け贄がどうの、大地を賛歌せよ、踊ることを学べとか…。

 この世には普通ではありえないことが起こることがある。

ニーチェは古代メキシコの呪術師と交信して、書いたのかもしれない。
でないとキーワードの共通がこれほど多いはずがない!?

危険なことばかり書いてあるがゆえに、この書物はナチスに悪用されたのであった。
ニーチェ参照。