インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

続・農家の活路

2010-10-31 19:37:25 | 考えるインディオ
  最近、スーパーに行くと米の値段に注目する。何かしら安く、北海道産の米が精米10キロ2500円程度で売られていたりする。ということは、自分(農家の一人息子)がさばいている値段より100円安いことになるが…、一体あんな値段でスーパーやら業者に儲けが出るのか?(としたら相当安く仕入れている)

 このブログでは何かしら米を売ってガボガボ儲けているようなイメージもあるかもしれないが(?)、あんまり美味しくはない。30キロにつき1000円程度で(運送&営業料?)、後は親が「やる気」になる程度に(?)還元している。米農家とはいえ、ほとんど出荷してあまり残っていないので、大量に売買できるわけでもない。ただ来年もあるので、固定客が付けば本格的になるかも(そうなると楽か。いや、つなぎ止めるために…)。

 どんな産業にしろ、機械も労働者も余っているから、生産は幾らでも増やせる。問題は売れるかどうか(値段を下げなくて)。デフレ経済で何もかもが下落している中、その点、主食(小麦も多いか?)は強いだろう。もっともコメは778%の関税に守られているのであるが。

 お人好しであり、JAに盲従していた百姓も、「これではやっていけんわい!」となっているため、悩んでいることだろう。が、農家はあーでもない、こーでもないと考えるより、都会に出て(ネットでもいいが)消費者を捕まえるべきである。

 人間は食べなければ生きていけないわけであり、都会人もできるだけ安くて安全で美味しいものをGETしたいわけである(そんな三拍子そろったものがスーパーにはない)。そう考えるなら、頭の良い都会人はドライブがてら田舎へ出て農家を捕まえているのかもしれない。それならば百姓も面倒な活動をすることも要らないし、双方得をする(JAは損をする)。

 究極な方法では、電話帳で農村地域を調べ(ここは美味そうな米が実りそうだ)

 「30キロ○千円で売ってください」(旅行の帰りにそちらに寄ります)

 「そんな高値で買ってくださるのですか」(あなたは神様です)

 …となるはずなのだが(シナリオ)、

 ひょっとしてオレオレ詐欺と間違われて通報されるかも知れんわい(やはり接触には何らかの伝が必要ですか)

農家の活路

2010-10-29 22:32:49 | 考えるインディオ
 最近思うに、農家は自分で営業したほうがいいような気がする。都会の(非農家の)人間とちょっとでも接点があれば、すぐに持って行ってくれるからだ。例えばこのブログでも、米が欲しいと思っている方がいらっしゃるかもしれないが、たぶん、提示する条件なら即買うと思われる(しかし物体が重たいので、関東とかまで運送料がかなりかかり、大問題となる)。基本は自分で持っていける範囲か。

 あまりやりすぎると、所得隠しとかになるが?、米農家の悲惨な状況からして皆色んな所でやっているのではないか(知り合いの伝とかで)。

 米は誰でも売れる。営業テクニックなど必要ない。そもそも営業というのは、スーパーとか小売に置いて売れないものを、人間を雇ったりテレビとかで宣伝して必要性を作り働きかけるわけであって、米は妥当な値段で置いていれば人々は勝手に買っていくわけである。

 「車の中に実家の米が○○キロ置いてありますよ」とちょこっと語るだけで、非農家は大いに関心を持つ(特に一日一升炊く主婦とか)。あとは値段という壁があるわけであるが、(激安でない)スーパーと同じくらいにすれば別に問題はないだろう(何か余っている野菜でも付け足せば相手も喜ぶ)。あんまり儲けようとは思っていないし、まあ、サウナ代でも稼ぐって感じか(?)。

 やはり農家も自分が作った米を、満足して食べてくれる姿を見たいわけで、「よし、来年も作るか!」っていう気になるだろう。ただ出荷してJAに委ねるというのでは、実感が湧かない。同じ米を食べていると、生き物と生き物がつながっているという感じがするし。

 問題は都会人と農家の接点(交流)がほとんどないということか。売ろうにも相手が全く分からないし、買おうにも相手が全く分からない。ただ何でも良いから色んな所に顔を出し、話しかけていると、見つかるであろう。

 中でも都会では圧倒的に非農家が多いので、都会に勤めている子供やら兄弟がいるなら、代理で彼らに売ってもらうのが一番いいのだろうと思う(まさに自分がコレ)。田舎者とはいえ、米ぐらいさばけないようでは今の厳しい世の中を生き抜くことは難しいのでは(極論すれば、自分が売れなくても米は売れる…)

将来の心配

2010-10-26 20:57:46 | 身の回り
    このブログの閲覧者もそうかもしれないが、心配事やら不安やらが色々過ぎることと思われる。「独りが気楽だ」とのん気に一人暮らしを続けていると、そのまま天涯孤独の老人になり、病気になったらどうするのか、どういう死に方をするのか、考えるだけでも恐ろしい(考えないようにしている)。

 自分自身としては、出来るだけ健康でいるために、食事やらサウナやら、マジカルパスというかヨガというか睡眠前?に身体に栄養を与えたりしているわけであるが(ただの自己満足?)、それでもどうなるか分からない(すぐに風邪を引くし)。

 また両親は健全であるが、年も年だし、悪い病気にかかって面倒を見なくてはいけなくなるかもしれない(そうならないように食事やら指導?しているが)。もし親父が倒れたなら、新米を頂いて売ったり食べたりしている状況ではないだろう(野菜とかも)。

 田んぼも機械もあるので己でやらなければならないのだが、今年の売上とか見せてもらったが、あんな割に合わないものをやるのは躊躇する。毎月毎月の収入があるわけでもない。秋に一気に収穫があるわけだが、それまでの費用も一気に払うわけで(機械が壊れでもしたらマイナス)、買い叩くJAの口座で相殺され残らない。農地を他人に貸して、買って食べたほうが断然楽だろう。
 
 しかし今の給料が安いので、米を買うことになるとこれは負担が一気に増える。減農薬な玄米を買い続けるなら、食費で頭を悩ますことになるか(ふつうはコレだ)。せっかく基盤整備もしてあるし、やはりトラクターに乗って(あんまりでかくない)作るしかないのか。

 もちろん倒れた(勝手に仮定)親の面倒も見るわけで、これではもう「気楽な独り暮らし」とは全然いえない。ならば、どっかから嫁でももらって、手伝ってもらうしかないだろうが、こんな面倒な家庭に来る日本人嫁など普通いないから、タイとか中国辺りの女性ということになるか。

 しかしそういう国際結婚も言葉は通じないし文化が違う、しかもカネを要求されたりするし、近所でも失敗例が目立つ。だから農村では独身男性だらけなのだ。

 昔のように親戚やら地域が支えあう感じではないから、介護保険とか色んな制度が出来ているわけだが、赤の他人の世話となるとやはりカネが絡んでくるわけで、カネがないと終わりなのか…

 妄想にも近いことを、ぐだぐだ考えるが、今のうちに色々準備、覚悟はしておくべきだろうと思う。身近にそんな例が異常に多く見受けられるので、つい書いてしまった。

奄美大島に想う

2010-10-24 20:02:55 | 考えるインディオ
 田舎に戻ると、向日葵が消えた場所の近くに、カツミレが咲いていた。

 

 森林浴の場所に行ってみると、小川(というか、農業用水か?)に栗がぼとぼと落ちている。肩のそばに青い栗がかすめて落ちていく。

 

 今年は猛暑でドングリが実らず、熊が出没するようだ。この辺の山は熊など聞かないが、猪が良く出るようで、網やら電気ロープ?やら対策が練られている。

 これだけ豊かな自然が実家にあるのに、かつて沖縄やら奄美大島へ移住したいという願望があった。沖縄ブームがあったこともあるが、単なる南島文化への憧れ、現実逃避だったのかもしれない。4ヶ月前、生まれた場所には意味がある(南国詩人 平田氏)うんぬんの記事を書いたが、南島へ移住したからといって、自分らしく生きられるとは限らない。生まれた時からそこにある連中には敵わないのだ。

 そこで奄美大島の災害について。かつて、奄美大島でさすらいの旅?をしていた時もあり、何か他人事とは思われない。福岡市で生活していた頃で、かなり前になるが、名瀬市(奄美市)の安宿に滞在していた。そこで自転車を借りて、のん気に回っていたわけであるが、幻惑の「南の島」は切り開かれており、コンビにもスーパーも100均もそろっているし、住宅や道路網が整備され、単なる「日本の地方都市」であった。

 印象に残っているのは大浜海岸と金作原、ハブとマングースの決闘。金作原については他のブログにも沢山あるようだ→はじめての金作原(MT.FORTUNE)

 昔のケータイ写真が幾つか残っている。(そういえば、奄美大島付近で日蝕が…

 

 今は秋だから住用村のマングローブ原生林のカヤック・ツアーとか儲け時なのだが?、村中が水没し、トンネルが塞がれたのでそれどころではない(災害復興需要で雇用が発生するが、支援金などの救済策が必要)。知っている人には信じられないかもしれないが、我輩は名瀬の中心街から住用村(景色を見るため)までサイクリングした(しかも金作原の林道経由で)。朝戸トンネル(調べてみると3キロあるようだ)とかクソ長いトンネルが多く、不気味で恐ろしく、よくあんなトンネルを自転車で走ったものだ。

 船とか別の道で大回りするしかないだろうが(完全に孤立)、「これじゃあ、もう生活できねえぜ」と観光地の村を続々と抜け出る人が出てきそうだ(特に若い世帯が)。とんでもない惨事だが、失業の島に雇用が出来るし、「島を復活させよう!」なる運動が生まれるだろうから、改革のチャンスかもしれない。

 最大の恩恵は、今回の災害で、「奄美大島ってどこ?」って人が少なくなり(あれだけ長時間報道されれば当然か)、「行ってみたい!」ってな本土人が増え、観光業が盛んになる可能性もある。

 そのためにも、ハブやら金策ばる、海などの散らばった観光地を、何かしら壮大な体系にまとめる、物語のようなものがあればいいのでは(例えばアニメ、もののけ姫→屋久島的なもの)。

 そういえば奄美パーク(奄美の郷)に色々リアルに展示してあり、あそこは南国文化を感じさせられた。せっかくあれだけ独自の世界があるわけだから、島へ来たとたん、「ここはどこだ」ってなトリップを感じたいものだ。何かしら本土に忠実で真面目すぎるようなきらいがある。災害復興もそんな感じで独創的な工夫があれば良い。

 あまみFMとか「観光の島に復興させよう!」と音頭をとっても、鞆の浦の開発と同じで、実生活と観光は別物かもしれないし、やはり何はともあれ、島の若者が失業しないように地に足がついた仕事が優先されるか。それでも、本土から観光客が「円」を持ってきてくれないと、島の経済は成り立たないから、何か面白いアニメか何かが契機になれば…(あーでもない、こーでもない)

 まずは「ゆるキャラ」でも作りますか(アマミノクロウサギの子供にネクタイをさせて瞳をうるうると)

 それでハブに出くわして「僕を食べないで下さい」と哀願するのですね(売れそうにない誰かの童話ですね)

米価の夢

2010-10-23 04:59:14 | 考えるインディオ
  昨夜、長々とコメについて記述したせいか、夢にまで出できた。そこでは農家がやっていける?値段までが、くっきりと浮かび上がった。ズバリ30キロ9700円。(う~ん、かもしれないが、8000円ぐらいでないと悪いような…)

 消費者は日本の良質なコメを食べたい。しかし農業はボランティア活動ではない(どころか借金をして生産活動…)。日本人が作った、「日本産」としてどうしても譲れない価格が存在する(それが、10キロ3233円、流通保管営業経費が込んで4000円台か??)。

 昔はともかく、今は消費者の財布は細り、安い小麦粉へシフトする。日本のコメを避けるのは当然か。服(一年前の下着の記事)にしても、日本産はかなり性能がいいことが分かったが、高いから次を買う気になれない。

 日本人(人件費)が日本(賃借料、税金等)で作る限り無理だ。しかも1ドル80円の世界。絶対に輸入品の方が割がいい。

 ただ食料には農薬問題やら、安全保障の問題があり、日本のがいい(それをいうと、工業製品でも雇用の問題、産業の空洞化の問題から日本産を使用すべき、となるか)。それが今のデフレ不況では難しい、日本人なのに日本のコメ(まともなの)が食べられない所が全ての問題の根底だ。

 資本主義社会は人間関係を全てカネに変え、希薄なものにした。本来、モノとモノ(カネ)の交換は、極めて人間的なもので、相手の顔が見えるべきもの。とりわけ食品になると信頼関係が必要。商売のために、産地偽装やら偽表示などよくあることだから?農家の顔写真を入れたり、権威のお墨付きを頂いたりしている、それでもかえって

 疑いを解いたり、JAとかに流通諸経費をたっぷりかけるより、ネット情報とかで、すぐ近所に行って農家から買えば良いような気もするのだが…、大都会と農村地域はあまりにも離れすぎているか。今のシステムが一番合理的か。やりたい人は勝手にやっているだろうし、一番いいのは都会の人間が休日農業をやって自分の食料を作ることだろう。

 家庭菜園をしている人は、農業の大変さが分かるだろうし、「こんな面倒で割に合わないことをやるくらいなら、あの値段でも仕方がないかな」となるのかもしれない(実際そんな感じで買ってくれた!)。

 安い輸入品は、大手穀物メジャーがカネに換えたいために作らせるわけで(自分では食べなかったり)、やはり外国の農民達も悲鳴を上げている(昔読んだ、種子支配『GMO』)。それが日本の農民達も苦しませるわけで(消費者には救いになるが)、この円高で、製造業だけでなく、農業もボロボロになっているのが現状ではなかろうか。

 関税が高くできないなら、日本産の購買運動でもやるしかないであろう(しかしカネがないであろう)。
  

日本のコメ農業

2010-10-22 20:31:04 | 経済
  奄美大島災害について書きたいところだが、どうしても農民としては米の価格やら農業の現状が気になって仕方がない。米を買って食べる人(見込み客?)に妥当な値段で売っているわけであるが、話しているうちに消費者はスーパーとかにかなり不満があるようだ(だからまた売れた)。

 消費者は安くて美味しい米を食べたいわけであるが(当然)、価格競争で勝たねばならないスーパーは全農の米(広島なら「いーねくん」の奴)とかは高いので仕入れられないから(?)、得体の知れない米を流すことになる。「くず米」も大量にブレンドされることは必須で、消費者は「しまった、ケチるのではなかった」ということになるのである→ (くず米 充実貧乏生活

 品質という点でも、評価が難しい。我が家も毎年一等米であったが、今年は二等に下げられ(ニュースにあるように今年は猛暑でどこも恐ろしいことになっている)、親父は怒っていた(現場を実地で見ろ)。しかし二等だからといって、別に一等よりまずいわけではない。ただ極僅か多く虫が齧ったりしているだけである。傷が入っているのだが、農作物は工業製品と違う。農薬だらけでピカピカの作物と、虫が食べてボロボロだが農薬があんまりない作物では、どちらが評価されるべきか。ネットで調べても色んな記事がある。佐渡島の酒ブログ 1等米と2等米の違いとか、農薬耐性とか、植物自身の持っている毒素とか、  お店ばたけ 週刊ウンチク第184回(2004.9.16)「カメムシ歓迎!堂々の2等米、三つ星の3等米」

 また欧米のように、「大規模農業で経営の合理化を!」と言われても、日本は狭く、一気に刈り取れそうな平地のいいところは大都市と化している。オーストラリアとかから見れば、日本全体が棚田みたいなものか。

 大型機械を買っても毎月のローンが払えないし(収穫まで収入0円…)、そもそも活かす場所が少ない(いや、北海道辺りは別格か?)。日本の農業政策も、大規模な専業農家を支援するようだし(個別補償政策)、「作れば作るほど赤字になる」という現状を打開しようとしているのだろうが、作物があれだけの低価格では、どれだけ効率的な経営、合理化を進めようと、日本では高が知れているのではないのか。

 それでも消費者の方では「日本産は高い!」と思っているわけで、もっと値下げが望まれるわけであるが、生産者の方では「あんな値段では作れるか!(廃業して買ったほうがましだ!)」と、思っているのである。実際、この資本主義システムの中で、日本の農業(特にコメ)が維持できているのは、ほとんどが兼業だからであって、それ以外の何ものでもない。

 一番いいのは、自分たち(or 適正価格で予約を入れてくれている人)が食べる分だけ作る方法で、中途半端に余計な田んぼを持っていても、苦労するだけだ(我が家のケースも20年前と比べて収穫を半分に減らしている。基盤整備もあったが)。

 ということで、今年はバカ安いJAへの売値(概算金という)になっているから、「もう、作るのや~めた」ってな兼業農家が続出するのではないか。専業農家がそれらを引き継いでやって行けるかといえば、政府が税金をジャブジャブ出して支えなければ無理だが、米の値段は下がらない、財政赤字は増える…、あんまし意味がないような気がする。

 産業が空洞化して、第二次産業から第一次産業へ雇用がシフト、なんて、上手い具合に行くとも思えない。やはり食べ物なんて、人間の身体に影響を与えるものだから、新しい仕組みが必要であるに違いない。

 玄米とか、減農薬とか、食べるだけで医療費とか大幅に減ると思うのだが…(あまりにも多くの人がカップラーメンとか菓子とか買いすぎているような…それで経済が回っているのだろうが…)

宙に浮く夢

2010-10-19 21:11:02 | 自己主張
  色々な夢を見るが、昨夜は日常生活で突如「浮かんだ」夢を見た。シッチュエーションは忘れたが、何人かの知り合いと話をしている?うちに、ふっと体が浮いて、自由自在に宙を回った。自分も相手も驚き、大騒ぎしていたが、とても心地が良かった。それがとてもリアルな夢で、醒めてもまだ夢だという実感が湧かない。

 夢判断の本で調べると、「四次元世界への目ざめ」とかある。なるほど、確かに何か自分の中で飛ぶためのきっかけを掴んだのかもしれない。

 このブログでも色々気高いこと?霊的なことを書き、それでも現実はそこに届くわけもなくて、ただ霊的世界のヒヨコがバタバタいていたわけであるが、何かしらついに変化が現れたのか(??)

 今、我らが感じていて楽しい世界とは、全然違う面白い、素晴らしい世界があることは確かなようだ。それに夢中になれるならば、俗世を捨てて出家する価値はあるのかもしれない(いや、受け入れ先がないから、乞食になるだけか? いや、運も凄くなるようだから、案外、作家とかとして成功し、大金持ちになったり)。

 我々は、身も心も資本主義の奴隷であるから、ある種の囚人のようなものである。逃げようとしてもそこから逃げ出すことは出来ないし、理想的な新しいシステムを導入しようとすれば、かえって混乱するだろう。地域通貨を導入した所で、そんなもので家賃やら電気ガス代は払えないし、農家は米を売ってくれないだろうし、せいぜいボランティアかなイベントの招待券になるくらいのものか

 プリズンの掟にしたがって、マネー神に忠実なる看守に、カネを差し出さなければならない。会社を辞め、脱走したとしても、自由になれるというわけでもなく、ただ路頭に迷うだけである。

 人間は誰しも、社会というプリズンの中に落とされていると思う。それは平安時代、江戸時代とか、ローマ帝国とかアステカ王国とか、沢山あるわけで、それは誰にも選べない。そこへ放り込まれたら、もはやその秩序に従わざるを得ない(もちろん、プリズンが変革する時代、過渡期に落とされる場合もあるのだろうが)。

 今の世の中は色々悪く言われているけれども、「21世紀の日本」というプリズンは相当心地の良い場所で、人間が囚人である(生=苦?)とは到底思われない(しかしどっかの国は完全にプリズンだ)。ただカネがなければ相当に苦しいわけで、一体何のために生きているのか、家主や金貸しに貢ぐために生きているのではないか、看守から逃れて自由になりたい!と思うわけである。しかし家主も金貸しも囚われの身であり、他に貢いでいて、それでシステムが回っている。

 ある意味、能力がある所にカネが集まるわけだから、極めて公平な世界で、封建社会と違い、己の能力を磨くことでシステムの中で上に行ける、看守役になれるわけだ。出世したい=看守になりたい、というわけだが、このシステムもそんなに甘くなく、上に行けば行くほど、きつい看守役に叩かれるわけである。

 やはり囚人状態から逃れるために看守を目指すというのもおかしいわけで、まずは諦めるということが肝要である(何という説法だ!)。肉体を持ってこの世に生きるということは、飢えやら病気やら苦しみから逃れることは出来ないわけで、囚人なのであるから、自由になれることはない(死ねば解放される)。

 社会やら肉体という監獄から自由になれるのは、寝たり瞑想したりしてトリップしている時だけ、そういうのを暗示していた夢だったのかもしれない。

 魂が自由になれば、快活で楽しい、しかしそれを我々は知らない。

 ただそれは一方で、プリズン、社会やら肉体と深く関わっている…、

 言葉を変えるなら、社会はサンクチュアリであり、肉体は神殿である。

 何を書いているのかよく分からない…。

米の収穫

2010-10-17 17:50:31 | 身の回り
 ヒマワリは跡形もなくなり、ツバメも南国へ消え、紅葉の季節になった。広島の実家では、米の収穫が終わり、出荷に向けての準備が進められていた。 

 

  こんな写真を掲載すると、
 
 一袋分けてください(デフレ不況で死にそうです)

 …と都会人に哀願されそうだが、農家など時給300円以下(推定。自営業だから関係ないか)で作っているわけで、機械設備のローンのある農家など、もっと酷いだろう。

 この辺の多くの生産農家はJA(農協)に広島米を売るわけであるが、スーパーで売られている精米に比べて格段に安い。悪魔のようなあのJAの買い取り価格では、米の生産だけでは到底生活できないだろう(自分で売れば別か?)。

 逆に言えば、米を買っている大都会の人々は、農家から直接購入すれば、滅茶苦茶安く済むであろう(スーパーのは精米してあるが、10キロ100円でコイン精米できる。ただ送料の問題が発生する)。

 スーパーでは色々ブランド米とかあるが、生産場所や作者によってかなり代わるので、やはり値段が基準になるのか。東北の米が美味いと言われているが、たまに魚沼産の白米とか食べてみると、「うまい」というより「かたい」という印象を受ける。

 冷涼な高地の方がコシヒカリに適しているが、中国山地は立派にコシヒカリが適しているし、うちは「アキロマン」なるコシヒカリと中生新千本の合いの子であり農薬も少なく、玄米で食べるものの感想としては、コシヒカリと比較し噛んでいて、もちもちしていてなかなか美味い。うちの場合、山水がいいのかも(『7月は森林浴』の水)。

 それでも出荷に関してはJAの基準によって一律に扱われるようで、広島の場合、何やらおかしな米の化け物の絵柄が米袋のパッケージにある(いーねくん;米の妖精)。

 

 このいーねくんであるが、実になのでネットで調べてみると…、

 独自の村までこしらえてあった→ いーねくんののんびり村 、しかも専門の音楽まであったひろしま米って、いーねの歌

 かつてこの米の妖精、TVチャンピオンにも出ていたらしくこれには大爆笑したわい(ついでにYouTubeも発見しました)

 ゆるキャラ日本一決定戦50m走(い〜ねくん)2/2 です(何となく僕に似ていますね)

たまゆら ~アニメでまちおこし?!~

2010-10-11 19:10:02 | 身の回り
 昨日、20代の知り合いが、竹原市のイベントに行ってきたようで、何やら今、「たまゆら」なるアニメの舞台である竹原市が熱いようだ(一部のマニアの間で)。

 全然知らないのでネットで調べているが、10月の竹原市の広報誌にもなっているようだ→ うるるんロギー(うるうるでは)

 竹原市は、失礼であるが、相当寂れた市である。それがあんなアニメごときで(?)盛り上がるのか…。

 それにしても、福山市の鞆の浦でもポニョやら龍馬やら喧伝され、経済効果が凄そうだし、この尾道市にしても今、「てっぱん」なる連続テレビ小説ドラマがあってバスとかでも宣伝しているし(しかし舞台はすぐ大阪に移る)、やはりどの地域も躍起になっているのか。

 「たまゆら」は、のほほんとした女子高生(写真好き)の物語のようである。主人公がカメラのシャッターを押しまくるので、当然、竹原市の古き街並みとかも収まり…、ということは、これは計算されて制作されたのか。

 原作・監督の佐藤順一氏は、『セーラームーン』やら『ケロロ軍曹』やら多数手がけているようで、Wikipediaを読むと「本人曰く狙って泣かせようとコンテを切っているようだ」とある。なるほど、この「たまゆら」を鑑賞した若者はして竹原市にやってくるわけだ(コガネを持って)。

 宮崎駿の「もののけ姫」にしても、作者の創造力と屋久島の大自然が相まって生まれた物語りだし、やはり物語というのは、舞台設定のモデル、地域性が重要なのだだろう。あと、その地域に独特の慣習・風習とかあれば、これは物語に昇華しやすいだろう。

 今は地域住民も、資本主義社会に翻弄され、伝統どころではなくなっているから、こういった映画やらアニメを契機に、見直すのもいいのかもしれない(しかし誰が創作するのだ?)。

 そういう地域の必要性とか、出題の意図によって、地方の文学賞やらが色々あるのだから、それを逆手に取り、物語の奇抜性はともかく、「地域の伝統や文化のデータ」を要領よく書き込めば、受賞できないことはあるまい。

 昨夜、奄美大島文学賞とかほざいたが、沖縄には実際にあったのだわい

 →第五回 沖縄文学賞(先月で〆切られたようだ)

 売れそうな設定は、東京の女子高生が病気にかかって死にそうになった(原因不明の病気です)

 誰か彼女を助けてください(日本の中心で愛を叫びます)

 すると占い師が現れ、沖縄療法をすすめた(沖縄の伝統文化が彼女を救うだろう)

 彼女はカチャーシーを舞い、彼は太鼓を手にエイサー風にった…。

 … 

 今何を書いているのかよく分かりません(確か地域振興の記事を書いていたような…) 
 
 

あまみエフエム②

2010-10-10 17:51:00 | 考えるインディオ
 さっき、BSで先週の奄美のラジオ局の続きをやっていた。奄美大島出身者は、高校を出たらほとんど皆、東京やら大阪へ出るわけで(それで戻ってこないわけで)、ならば東京で奄美出身者のライブイベントをやったら、ということだ。

 六本木のミッドタウンで、奄美出身のアーティスト(ビッグなので元ちとせ)を集めてライブイベントやら島の商品を出したり、ラジオとかも紹介していたようだ。大島紬やらハブ革の商品やらで、昔から島にあるもので、新しいものをクリエイトし、見せていたようだ(イベントは中止されたようだ)。

 客から「島の魂は踊って楽しいことだけじゃないことを伝えてくれ~」とか主催者が言われたり、色々絡まれていたようだ(音楽で伝わらないなら、田中一村の画で…)

 この奄美のラジオ局が支援していたカサリンチュなるバンドが全国デビューしたようだ。調べてみるとあった→ カサリンチュ

 仕事の少ない島で働きながら音楽活動していたようで、島のライブで700人集めたとは大したものだ(やはり公共電波の力か)。もっとも、年配者を含めた多数は冷めていて、「それが自分とどのような関係にあるのか?」「ぜんぜん奄美っぽくない音楽だ、他人事だ」と考えているのかもしれない。

 やはり奄美大島にいる大多数のアリは、キリギリスが何を歌おうと、毎日の生活やら将来のことで手一杯。が、それが実生活の何かを変えてくれるのなら大いに関心を持ち、支持するだろう。これはもう、「島が自立していないから、個人が自立できない! 島の自立を目指そう!!」的な運動でもやるしかないわけであるが…、

 やはり皆、日本国の福沢諭吉が好きなのだわい(踊念仏交換券など要りません)

 とはいえ、奄美大島とかでも、地産地消の動きはあるし、カネが無いなら無いなりに店とかで買わず、知人からもらったり、安く買ったりしている(だからますますデフレ経済が進行する)。農産物はその典型か(ネットオークションもか?)。

 ただ石油とか工業製品とか、どう考えても島では手に入らないから、それを手に入れるためには現金が必要であり、付加価値が高いことをやらざるを得ない。

 奄美大島をゲームソフトやらアニメを作る拠点にするとか(ゲームオタク求む!) 

 観光客がぞろぞろ来るような映画の拠点にするしかない(『南島ダンスバトルロワイアル』)

 そんな博打に手を出す会社があるわけもなく、せいぜい沖縄のように経済特区とかで税制上の優遇をするぐらいだが、「自分達の力で何かしら付加価値の高い事業を立ち上げよう!」という地域運動が起こり、ボランティアが集まったら、面白いことが起こるような気もするのだが(そういうのをラジオ局が宣伝してブレーンを集める)…、

 まずはアイデア募集、とりわけ「奄美大島ファンタジー大賞」募集からか(売れそうな小説を送ってください)

  奄美大島の運命がかかっているのですね(応募要綱には、「ゲーム性があること」、「必ずを入れること」となります〔しかし変な宗教は入れてはいけません〕)
 

希望のない世の中、救済する力はあるのか

2010-10-05 22:21:53 | 考えるインディオ
  何かさっき寝ていて変な夢を見た。福岡の都市部の方で、階段の多い寺で、住みついて寝ている夢であった。そして困っている人々に焼きソバとか振る舞い、太鼓を叩いていた。坊主にでもなったのか? 何かしら妙な夢であった。

 今、日本の雇用情勢やら、高齢化社会やら、デフレ経済での消費の停滞やらを考えるに、苦しんでいる人間は多いだろう。それでも何とか自分達でがんばっているのだろうが、ドル安による産業構造の転換とか、安くしても工夫しても売れないとか、人力を超えているように思われる。あたかも、日照りにより水がなくて作物が育たず、もうどうしようもない、それゆえに政府日銀もゼロ金利でカネを民間企業という田畑に流そうとしているのであるが、経済秩序があるわけで末端の零細企業には水が流れてこない。

 資本主義社会は弱肉強食の世界だから、それを政府の力で修正するのであるが、グローバル経済の中で、日本自体が生産性が低いとかドル安政策とかで食われていくと、これはもう政府の力すら超えているかもしれない。現に公共事業をやるにはあまりにも借金が多すぎるし、ゼロ金利政策にしろ、為替介入にしろ、あんまし効果がない。

 これはもう、民間のボランティアのような組織で、自発的に困った人を助けていくしかないのかもしれない。しかし表面的に助けたり、カネを与えればいいというわけでもなく、路頭に迷っている人間は、その人間自身に色々問題を抱えているわけで、政府がそれらを解決するというわけにも行くまい。やはりこんな恵まれた日本に生まれた以上、自己責任は問われても仕方ない。

 派遣村とかにしても、何とかしようとするボランティア組織だろうが、あんまし解決策にはなっていない(マスコミにアピールする程度か)。企業が悪い、政府が悪い、というのも一理あるのだが、やはり自己責任もあるわけで、深い所で、カルマの問題に行き着くのかもしれない。

 根本的なところを解決しない以上、金だけ与えたところで、また元のところに戻ってくる。まさに輪廻転生の世界か。そんな事柄は、やはりどっかの宗教に任せるしかないわけで、ボロボロになった人間は食べ物の施しでも受けながら、仏教とかに触れるのが一番いいのかもしれない。もちろん、自分で「気づく」しかないのであるが。

 ひょっとして坊主になるのではなく、さ迷って寺に行った夢だったのかも(潜在意識では既に家なき子…)。

 まあ、大都会にいたるところにある既存宗教の建物は、困って救いを求める人を助ける場所ではなく、カネがなければ近寄りがたい雰囲気が漂っている。大乗仏教ならば、今こそ使命を果たさなければならないような気もするのだが、国家同様、「どうしようもない」というのが現状か。

 世相は年々暗くなっていくし、希望の光が見えない。これはもう、どこぞの住職に、念仏りをやって頂くしかないであろう。それがネイティブ・アメリカンのゴーストにつながり(昔の記事、ゴーストダンス)、世の中を変えていく力となるのかもしれない。

 そういった場所が、地域通貨とか何とかを発行するのに適しているのかも知れぬ(裏書:この御札で念仏踊りと交換できます…)

 

タバコの値上げと商品価値

2010-10-04 18:54:39 | 考えるインディオ
たばこの値上げが始まり(セブンスターは300円から440円、マールボロは320円から440円に引き上げられているようだ)、喫煙家やら葉タバコ農家が悲鳴を上げることになった。

 うちの親父も吸っているが(これを契機に止めるといっているが)、440円というのは躊躇するような値段である。しかも将来的にはもっと高くなるようで、国家が「貧乏人はタバコを吸うな!」と強制しているようなものだ。

 資本主義社会は、値段を信号にして、需要と供給を考えて、自由にサービスやら物を作って売るシステムである。1000円で売れなければ、値段を下げ、どんどん下げ、限界まで下げるわけであるが、赤字になるケースも多い。そもそも売れるかどうか分からないものを生産するからだ(仕入れるからだ)。

 そこで経験を頼りに見込み生産をするわけであるが、今のように景気が悪いと何を手がけても売れないような気がする。その中でも、食料とか生活必需品、酒とかタバコとかの麻薬(砂糖たっぷりのカカオとかもそうか)なら売れそうだと、誰もが手がけたがる。が、法律の規制で、大麻とかはダメで、酒やタバコは税金がたっぷりかかっている。もし、タバコが100円ならニコチン中毒者だらけで、癌患者も増えるし、社会悪?を抑えるため、値段を上げ、ニコチン中毒者を減らすわけか(大麻はダメでタバコが良いのは、社会政策のようだ)。安価な「タバコをやめよう!グッズ」が売れそうだ。

 値段を上げても売れる商品はそんなにない。とりわけ、今のような経済環境では、みんな100円でも払うのを極端に嫌っているから、上げるというのは言語道断で喫煙者のストレスはたまるに違いない。「給料が下がっているのに、タバコを値上げするなんて…」それでも購入する人にとっては、タバコの価値は1000円ぐらいするというわけだ。それくらいタバコというのは換金価値があり、多分、天災パニックになって紙幣が相手にされなくなると、代わりに流通されるだろう(塩、ガソリンや酒より軽いし)。

 売れるのが確実に分かっているから、タバコ農家も安心して生産でき、小売も安心して販売できたが、あまりにも高くなると不安になるか。タバコを吸わない青年に、「試しに一本どうですか?」といえないし。自分もそうであるが、吸わない人間は全くどうでもいい商品である。カネと一緒で、交換価値には興味があるが。


 体験した人にとって、タバコの価値は凄く高く、値段なんて後から取って付けたようなものである。本とか映画や音楽もそうで、実際に浸ってみなければ価値なんて分からない。極上の体験が出来れば1000円とかの値段なんて逆に安く感じるだろう。もっとも、ネット上でタダなのもゴロゴロあるわけであるが。

 思うに、サービス業とかでも値段は勝手に付けているようなもので(いや、広告、設備や人件費で原価計算できるか?)、周りを見て「これぐらいだろう」「これぐらいなら売れるだろう」と出しているのではないのか。

 未開人の人々が集ってる場合は、無論、カネなどかからないが、彼らにとっては物凄く価値が高いわけだ。葉っぱも木から取って吸うわけであるが、無論タダである。資本主義社会というのは、全てこれらをパッケージにして値段を付けて、取引するわけであるが…、

 未開人に言わせれば、「そこまで丁重に袋に包んだり、値段を定めたりする必要は、ねーんじゃねぇか?」

 ということになるのだろうが、現代人は「価値が高そうだという幻想を売っているのです」(箱の絵柄や入れ物がカネになるのです)

 ということになるのだろうか。実は資本主義はムダだらけだったり。

 もはやタバコの値上がりで溜まったストレスは、インディオダンスホールでも行ってって発散させるしかないであろう(場所代がかかりますので、ネット上でやりますか〔各自勝手に妄想を〕)。

あまみエフエム

2010-10-03 23:58:57 | 考えるインディオ
  夕方、NHKのBSを付けていてたまた『ONLY1』なる番組があり、「あまみFM」が取り上げられていた。(ネットで調べてみると、NPO法人ディ!なるホームページがあった)

 テレビでは、地域密着型の島ラジオということで、島口(奄美の言葉で、例えばカボチャ=トッブル、パパイア=まんじょまい)というローカルスタンダードを売り物にしているようだ。車社会の奄美で、擬似ナンバープレート「奄美77.7」をつけて、島口やら島唄を聞いたり、島の老人とかが出てくる出来事やら歴史を流したり、「自分達の地域を見直す、面白いことやら楽しいことを放送する」ようだ。

 ラジオはブログと違い、公器であるので、勝手に面白いことが出来にくい面もあるが、地元企業とかスポンサーがつくので成り立つようだ(一口3000円の出資?もあるようだ)。

 奄美大島は行ったことがあるので関心があるが、本土の瀬戸内地方に住む自分とはつながりはない。しかし南の島とか独自の文化とか良いなあと思う面もあり、それに関する記事やら報道に惹き付けられる。

 「つながり」ということを考えるに、地域的なつながり、職場のつながり、色々あるわけであるが、このブログを読んでくれている方々とは何かの繋がりがあるのかもしれない。

 この希望なき日本で、何かやってくれるのではないかと期待されているのかもしれないが?? やはり個々人が何とかして自立しなければならない。

 人のためになるようなサービスやら商品を開発したりして、何でもいいからそれが売れるのなら自立できるのであるが…、

 今は人々がカネを出し惜しみしているから非常に自立しにくいわけである。NPO法人とかも自立の一つの手法であろうが、世の中は冷めているので、下手なやり方だと失敗する可能性も高い。ボランティアの組織は、あんまし日本では根付いていないし。

 奄美大島の島人の本音は、生活苦で、楽しいラジオ放送を聞くどころではなく(いや、関係ないか?)、雇用環境を良くするようなニュースを聞きたいのかもしれない。奄美の中には「明日どうやって生活しようか。島を出て関東かどっかに出稼ぎに行こうか…」と酒でも飲みながら(空騒ぎしながら)悩んでいる人間が結構いると思う。

 大体、奄美大島には大した産業もないのに(いや、黒糖焼酎とかあるか?)日本円を回すのには無理があると思う。奄美通貨(Aとか)でも導入して(例の地域通貨)、自給自足な運動をすればかなり変化するのかもしれない。

 ただ、車を乗り回し(購買のほかガゾリンとか維持費が)、本土と同じような生活意識では難しいか。大多数がA(奄美通貨)を「信用」しなければ、結局、¥で取引されるわけか…。

 やはり地域通貨は共同体の宗教のごとき御札のようなものか。国家のナショナリズムが独立貨幣を必要とするがごとく、地域の自立が地域貨幣を必要とするのかもしれない。もっとも多様化した現代では、その地域の繋がりが薄れているのであるが。