インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

激動の一日を振り返る。

2014-08-27 22:22:54 | 実用書
  雅太は朦朧としながら時計を見つめた。22時25分。二倍生きたような一日だった。
  何のことはない、発端は、職場が終わった18時、さあ、帰ろう、その前に温泉サウナによろうと思った時、財布が消えていたのである。ロッカーを漁ったがどこにもない。そういえば、朝電話したので、きっと車に違いないと思い、血眼になって捜索したが、財布は見当たらなかった。

 雅太は青ざめた。現金の5000円はともかく、免許証、保険証、銀行カード、さらにはETCカードなど、ごっそりと放り込まれているのだ。おいおい、これだけなくて生活できるのか。溜まったポイントカード群よりも、免許証だ、ETCのストップだ。

 もしやと雅太は今朝の行動を思い出した。確か、明日実家に戻るために、尾道の特産であるイチジクを直接農家から1000円分購入したのを思い出す。出勤直前、冷蔵庫にもって上がった時、ばたばたしていたので、何かの拍子で落としたのかも知れぬ。そう思い、雅太はアパートに戻って、ポスト(良心的な誰かが入れてくれたかも)、玄関、冷蔵庫界隈を漁った。が、ない。絶望的な気分になった雅太は、開き直って、通帳はあるのだ、まず金を下ろして、と玄米むすびでも揉みながら、温泉で気分転換しようと思った。

 が、車に乗った途端、温泉に行く前に、再び会社へ戻って、ロッカーやらを徹底的に漁ったのである。が、ないので、会社の落とし物が届いていないか、いや、財布なら必ず本人に連絡がつくのではと思いつつも、担当者に繋いでみると、なじみの上司が出てきた。財布を落としたのかと一連の問答が続く。どうやら届いていない。「イチジクと一緒に冷蔵庫の中に入っているのでは」「いえ、そんなはずはないでしょう」「ロッカーに鍵はかかっていましたか」「ええ」雅太は盗まれてはないのだと思った。ロッカーに鍵をかけ忘れても、盗まれた試しはなかったからだ。雅太は「駐車場辺りで金を抜かれ、捨てられてゴミ箱にでも放り投げられてしまっているのかもしれませんね」と投げやりになる。

 温泉に行く時、上司から連絡がかかった。一緒に東京まで出張した思い出があるからか知らぬが、ゴミ箱を漁って見てくれたらしい。こういう時に人間の本性が現れるものだ。雅太は大いに感謝し、諦めますと行った矢先、車の中にあったちっぽけな入れ物を揺すってみると、財布が飛び出してきた。懐かしい代物が降って湧いて出てきた感じだった。朝電話しているとき、何かの拍子で入ったのだろうか。雅太は天にも昇る気持ちで、温泉へ行き、サウナでカープとヤクルトの試合を観戦したりした。延長戦を闘い、あげくカープがサヨナラ勝ちしたようだ。その後、元々なかったカネだと、雅太はガソリンを満タンにしたのであった。実に恐ろしい独り相撲を回想し、己の本質が、こういうものだと思い知らされる。

呪術の参考書

2014-08-21 20:09:46 | 身の回り
  休日だった雅太は、日差しが強かったこともあり、逃げるように実家に戻った。スイカやメロンなどを土産に家に入ると、広島市の土石流災害のテレビ放送が耳に入る。そのまま森林浴をしに山に向かい、早速小川に足を浸ける。

 水気が抜けたのかICレコーダーが直ったこともあり、雅太は『呪術師の飛翔』を朗読し始めた。自由になるためには、過去を徹底的に反復しなければならない、それも呼吸法を、大地の力を利用して。

 反復では、「一体なんで己はこんな呪術の本を読んでいるのか?」とふと根本的な思いがよぎったりする。精霊が導いたと言えばそれまでだが、カスタネダの本にしろ、案外、受験やら資格なんかの参考書の延長なのかも知れないな、と思ったりするのである。

 思い返せば、小学校6年生ぐらいから、学習参考書などが雅太の部屋には賑わっていた。受験勉強など縁のない親が、インテリグッズとして奨励したこともあるのだろうが、本来一教科一冊あれば十分なのに、中学校時代とかは、問題集やら参考書の他、塾のテキスト、塾の推薦した参考書など机の上一杯に並んでいたわけである。もちろん、隅から隅まで読むわけもなく、そもそも参考書を読む読解力がないという致命的な欠陥を抱えていたので、自己満足で終わっていた。それがその後にも続くことになるのである。

 今、本棚に並んだカスタネダのシリーズを眺めながら、「人生は同じことを繰り返しているのではないか?」と勘ぐったりする。もっとも、テストやら志望校への合格やらで、実力を判定するわけもなく、日常生活で、それが判定されるということになるのだろうか。

 成功すれば、集合点が動く、つまり、精霊が来訪するわけである。ただそうなってしまえば、人生の連続性が断たれ、破壊点の到来、つまり、雅太が昨年末にしでかしたような、辞表の提出、ということになるのだろうが、一体次はどのようになるのか分からない不安が待ち受けている。もっと凄い小暴君がいるところで、修行する運命が待ち受けているのか、有り金が尽きるまで反復をして、悩むことなく動けるようにするのか、皆目見当もつかぬ。

 案外、人は毎日仕事に出ることによって、余計な妄想から逃れ、精神的に安定を保てるのではなかろうか。雅太にしても、明日が仕事だから22時には寝る、7時までには起きようとするのであって、タイシャ・エイブラーのように朝起きて、反復するために一人で洞窟へ行く、ような環境にあれば、…。

 人間の行動はパターンによって成り立っているだけなのかも知れぬ。雅太は森林浴をした後、海沿いの温泉サウナによったのだが、その前に、ぷかぷかと海に浮かびながら青空を眺めた。この前と比べて、海水が少し冷たい。大地のエネルギーとやらを体に集めようと意図する。洞窟はなくとも、こうやって車であちこち移動して自然とふれあうことが出来れば十分かも知れぬ。車の中では、カスタネダではなく、雅太にとっての懐メロを流しながら、当時を反復する。テレビドラマの主題歌やら心を励ますために聞いた歌が、窓を全開にした雅太の車から流れている。青い空。外は田園風景、地方都市、海岸沿い。日差しが雅太の腕を焦がす。

 呪術の参考書の言わんとていることは。空にしなけりゃならんのだ、と雅太は受け取った。詰め込み教育の逆が、ここにある。その前に、坊主と同じように、多くの経文を覚えねばならぬのか。やはり基本は膨大な知識という土台があってのこと。雅太は人生で同じようなことを繰り返しているような気もした。運命は変えられぬのか。本は語る。

 「だがな、お前は時間を無駄にしているんだよ。過去は過去、今は今だからだ。そして、今には自由のための時間しか存在しないんだ」

海で泳ぐ、そして、

2014-08-18 20:21:55 | 身の回り
  今年の夏は天候に恵まれないためか、海のイメージがわかない。たまたま休日だった雅太はスイカを食べ、『セールスマンの死』(アーサーミラー)を読み終え、昼寝をしたら汗だくになり、空を見上げる。まだらな雲が青空を泳いでおり、雅太を海に誘っているようだった。

 思い起こせば、30代は良く泳いだものだ。雅太は「反復」なる過去を振り返るための修行をしているのだが、「洞窟」がないので、サウナだったり、温泉だったり、車の中だったり、至る所で思い起こしをしていた。海で思い起こしをすれば、カッパのように泳いでいた当時が思い起こせるのではと、ちょこっと車を走らせ、向島の海岸で塩水を浴びるのだった。濁っているが温かく気持ちがよい。

 浮かびながら雅太はこれまでの人生、とくに夏のシーンを思い出すのだった。年をとったものだ。雅太は、5年、10年が、いかに早かったかを思い知らされるのである。こんなはずではなかったか。いや、もっと苦しい展開になっていたかも知れないし、せめて親元の近くに住んでいることは良かったかも知れぬ、とぐだぐだ考えていると、親子連れ、いや、その祖父母もろとも泳いでいる一家がいた。孫がいると、釣られて、親どころか、その親まで海で泳ぐのである。

 中年、一匹、虚しく海に漂う雅太の頭の中で、カスタネダの呪文がBGMとして流れた。それは『未知の次元』より。「何とみごとな前兆なんだろう! しかも全てがお前のためだ…」。雅太の真上は、果てしない空が広がっており、波紋が幾重にも広がる大海原の向こうには、島が、蜃気楼のように立っている。『沈黙の力』より。「この宇宙には測り知れない、言語に絶する力が存在しており、呪術師たちはそれを意志と呼ぶ。そして宇宙全体に存在する万物は例外なくある環によって意志に結びつけられている…」

 子供は親になり、親は祖父母になり、やがて死んで大地に戻って行く。雅太自身がこれほど年をとったこと、人生の儚さを感じているのだから、親はそれ以上だろう。全国大勢いる老いた親たちは、テレビやらケータイなどの画面を眺めながら、気を紛らわせているのか。動けなくなれば、老人ホームに入ったり、子供が面倒を見たりせねばならぬ。幸運なことに、田舎の雅太の親は二人とも元気であり、父は米作り野菜などの農業を、母にいたっては働きに出ているという状況である。

 海から出た雅太は、サウナに入って水風呂に浸かり、「親に感謝を表さねば」と『無限の本質』が脳内BGMとして流れる。「戦士・旅人は負債を未払いのまま済ますようなことはしない…」。払いきれるものではないが、今から少しずつ分割払い、ということになろうか。

 かくして、雅太は出来るだけ実家に帰ろうかと思うのであった。

  

色んな波動

2014-08-14 20:08:21 | 身の回り
 雅太の部屋は31.6度で、盆は蒸し暑かった。明日から仕事の雅太は、つかの間の休みを利用して、買い物や散髪に出かけた。東京へ行く寸前に切って以来、実に半年ぶりであった。伸びすぎた髪が目にかかり、容貌が女性的であればポニーテールでまとめたかも知れぬが、雅太は眉毛の上までばっさりと髪を切ってもらった。
 頭が一挙に涼しくなり、何か覆い被さっていた荷が消えた気がした。

 これで海に泳ぎにでも行きたいところだったが、暑いだけで、空は曇っており、雨がぱらついていた。料理をしたり、洗濯をしたり、身の回りを整理しながら、最近、音楽を全く聴いていなかったので、昔を思い出しながら懐メロを聞いていると、「歌手は皆自己陶酔している、ある意味狂っているのだなぁ」と波長を合わせる。雅太は昔は波長が合わなかった曲ですら、合わせることが出来るようになってきた。「どこが良いのだろう?」と思っていた黒人音楽ですら、「ええじゃんか」と陶酔したりする。ただ昔と違って、固執したりはしない。

 雅太は世界は波動で出来ているということを、徐々に体感し始めた。こんなインターネットですら、活字が波動となり、それと同調する何者かが、読む、受け取るわけである。雅太の波動は、それほど強いようにも思われぬが、いくらかこの情報社会に発散されているわけである。できれば、プラスの波動、読むものが幸福になるようなエネルギーが発散されれば好ましい。

 そう意図したところで、あんまりブログを書いていない故に、発散以前の問題かも知れぬ。世にはそういうことを試みて、宗教活動だの、スピリチュアルな本を書くだの、行動している人間がいるにはいるだろう。金儲けを志していなくても、結果として金は巡ってきて、それで自立できたりするのか。

 雅太の実家が行う米作りでさえ、昔は収穫祭やら感謝祭、作るものも食べるものも、プラスの波動に触れていたような気がする。今は金、金の世界で、そういう根本的なエネルギーが欠如しているのかも知れぬ。人間関係にしても、金さえ貰えればそれで良いとか。一期一会の精神こそ、プラスのパワーの原動力だったり。当たり前のように会っている人も、あと5年、10年したらどうなるのか分からぬ。

 そう考えたところで、雅太は、日曜日に墓参りに実家に戻らねばならぬか、と思ったりするのだった。

 

台風11号過ぎる…

2014-08-10 21:57:38 | 身の回り
 台風のせいか今、室温が28度で過ごしやすい。雅太は、森林浴どころではなく、部屋で、模様替えやら「反復」やらをやっていた。いつもは見ないテレビだが、年初頭に行った東京界隈やら、昔住んだ経験のある三重県津市やら香川県高松市やら、九州やらが出ていて、雅太は懐かしんだものである。伊勢湾界隈を歩いていると、高潮や大雨だと水没するのではないかと、危険を感じたものだ。

 さて、過去を振り返るというのも、自分自身が一体何を「意図したか」であり、かつては勝手な妄想に寄っていたものだ。雅太はそれなりに頑張ったのであるが、最初の設定が悪かったのが、欠陥が多すぎたのか「負け組」となった。もっとも多数がそうであろうが。

 さて、雅太の場合は、妙に褒められたこともあり、「作家を志し」、物書きをやり始めた。それは普通の小説ではなくて気が違っており、「死神がどうの」とか「大地の子供たちを踊らせよう!」とか、アステカの時代を調べて行くうちに、狂気と妄想の中に沈んでいった経緯があった。

 当時の日記やら資料を、雅太は未だに大量に抱えており、すっかり忘れていたその状況を反復するのである。当時必要だったのは、「作家になること」ではなく、人生経験であり、今でもそうなのだが、本を読んだり書いたりすることではなく、もっともっと色んな体験をすることなのである。

 雅太にとっては、この間の野生のウサギとの遭遇も、貴重な体験であったように思われた。飼われているそこら辺のウサギとは、姿形は同じでも(茶色いし痩せていたか?)、何かが違う。まず目つきが違う。人間に飼い馴らされたウサギは、あんなに人間を凝視しない。多分、「食うか、食われるか」の世界に生きているからだろうが、眼差しが、生死を分けるのかも知れぬ。

 と、ここまで書いたところで、雅太は思い出した。『沈黙の力』でカスタネダがジャガーと遭遇したとき、「お前の命は見つめ方にかかっているのだ」(鼻先を見つめろとか)と師に言われた一文を思い出す。なるほど、人間が逆にヒグマとかと遭遇してもやはりそうなるのか。

 「よい狩人は、目で獲物に催眠術をかける」というのも思い出す。生きとし生けるもの全ての目は、他の生き物の集合点を動かすことが出来る。特にその目が、意志の上に注がれている時には。

 そこまで考えた時、雅太は妄想を巡らす。ウサギに逃げられたならば、ツキノワグマでも出現したら(いるのか?)、一体どうなるのだろうか。熊は恐いので、せめてキツネと見つめ合いたいものだ。

森林浴と野生動物

2014-08-07 20:08:19 | 身の回り
  雅太は健康的すぎる仕事に従事し、夜遅くまで残業することもあったが、昨夜は早く上がれ、明日が休日ということもあり、石釜レーズンとくるみを齧り、温泉、サウナへ直行した。やることといえば、飲んだり、パチンコや麻雀をするわけでもなく、読書ぐらいのものであるが、1時間半浸かりながら、雅太には人生体験がもっと必要に思われた。

 サイクリングやら釣りは面倒なので、やはり森林浴だと、『呪術師の飛翔』を手に、スイカを土産に実家への山奥に入る。雨上がりで、背後の小川が増水していた。それでも本の通り、足を浸けて時計回りに回る。

 ちょうど「スピリットの声」なる所を読んでいるときだった。雅太は、車の中で聞くためにICレコーダーに吹き込んでいたのだが、そこで、間抜けなのか、精霊の命令なのか、あり得ないことが起きた。ゴルフにたとえるなら、ホールインワンで、ガチャ、スルスル、ボトンと、レコーダーが溝に落っこち、お陀仏となってしまったのだ。やはり呪術師が機械の類いに頼るのは、許されざることなのか。

 ……スピリットの声はどこからともなくやってくる。それは沈黙の深みから、非存在の領域からやってくるの。そして、その声は、私たちがすっかり沈黙していて、バランスが取れている時のみ、聞こえるのよ。

 機械にかまっていてはダメだということか。空っぽにしなければならぬのかもしれぬ。つまり、今、ここで、こうやって、ブログを書いていること自体、雅太にとっての、自己満足やらエネルギーの無駄遣いということにでもなるのか。

 音読はダメなのか。森に落ちていた鉛筆を片手に雅太は、読解し始めた。黙読の方がしみこむ力が強い。400ページを超える大篇で、半分近くまで来た。「自由のためにしか闘う時間はないのよ、タイシャ」とある。

 そこまで読んだとき、「全ては人知を超えているところで、計画を超えた計画で、築き上げられたのだろうか?」と、己の今の生き様、について考えたりする。

 生まれ故郷もかなり変わったが、面影が過去を反復するのを手助けしてくれたりする。そういえば、高校生の頃、参考書を片手に山奥で寝転んでいたなぁ、とか、やはり鮭のごとく、山奥に戻ってくる本能があるのかと物思いにふける。

 その時、雅太の前に、一匹の茶色いウサギが現れた。それはつぶらな瞳で雅太の様子をうかがっていた。雅太も驚いたが、相手もなぜこんなところに人間がいるのか唖然としている様子だった。この前は、イタチが横切ったが、今回のウサギとは睨み合いをした。カメラに撮りたかったが、その瞬間、逃げるのは目に見えている。「だるまさんが転んだ」のごとき、二匹の生き物は動かない。3分ぐらいたったか、ウサギはぴょんと跳ねて、行ってしまった。