インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

限界なるコメ農家の道

2013-09-28 17:33:16 | 身の回り
  雅太はサウナ&スパ温泉に寄って、実家に戻り、今年の新米を配達する算段を練った。雅太の寝転んでいる下では、乾燥機が唸り声を上げており、スマートフォンで購買者にCメールを送ってみたりする。鉛筆をなめながら、手帳に昨年の購入者をリストアップする。雅太の軽乗用車には限界があり、とりあえず30キロを渡しておこうと考える。今年のJAによる農家からの買い取り価格、いわゆる概算金は下がっており、雅太の親は嘆いていた。農協は江戸時代の悪代官のごときで、農家に奉仕活動を強いるのである。こんなのでは大規模コメ農家は悲鳴を上げ、廃業しかねないだろう。かといって消費者には恩恵はなく、スーパーに並ぶ新米の価格はほとんど安くならないわけである。
  需要と供給の原則で、コメの在庫が多いから下げるのは当然かもしれぬ。が、もともと米作りはカネにならないのだから、これでは後継者は「やっぱりダメか」と田舎に戻って農業をするのを敬遠してしまうだろう。もっとも、「農家はこれからは自分で販路を開拓していきなさい」、ということかもしれぬ。実際、親戚や知人に廉価で売っている農家はそこらじゅうにいるわけである。実際、コメ農家と縁があれば、そこから頂いた方が絶対お得である。ブレンドされなく、新鮮で美味しく、格段に安い。山間部の有名な産地であれば拝んでもいい。
 ただ、そんなコメ農家と消費者に縁ができない。だから絶対優位なはずのコメ農家でさえ、苦しい。縁故米が少ない農家は、JAの非情な買取価格を飲むしかない。まさに大企業と下請けの関係である。この値段でダメなら、あんたの所のネジは要らないよ、と大資本のメーカーは零細工場をいじめるわけだ。
 しかし零細農家が作っているのはネジではなく米である。生活必需品であり、日本人の主食であり、江戸時代は貨幣として通用していた。だから農協を通さずに直接消費者に販売することが出来る。雅太は考えた。大規模コメ農家の生き残る道は、直接売ることくらいしかない。コメの生産者も、別に頼まれて作っているわけでもなく、自分の都合で勝手に作っているわけである。JAの買い取り価格が安いと憤るのも、まあ、自分の勝手で、赤字になるような作物をせっせとこしらえていることに原因があるのかもしれぬ。作れば作るほど赤字になるのに、営業をJAに丸投げし、グダグダいうのは、自営業者として、あるまじきことかもしれぬ。食管制度の時代はとうに終わっているのだ。
 雅太が思うに、概算金が下がるのも、そもそもコメ農家が多すぎるのである。田んぼをつぶしてトウモロコシ畑にしてはどうか。いや、いっそのことスイカ畑にしたり、イチジクを植えたりするのはどうなのか。いや、水やりが面倒だ、店で買った方が楽だ、と巡り巡って、農業という事業の「車」には乗らない方が良い、という均衡点に達するのを予感するのであった。

道路と車

2013-09-21 20:14:35 | 身の回り
  アパートの下から秋の虫がまろやかに啼いている。雅太はピーナツを齧り、一週間ぶりのビールを味わいながら、ブログを書き始めた。雅太は副業として実家で獲れる米を売っているのだが、稲刈りまではもう少しかかりそうだ。両親が健全であるので、コンバインに乗らなくてもいいが、所詮、あれは車と同じ原理であり、故障した時が厄介なくらいである。雅太は機械が壊れたら赤字になるので米を作る意味はなく、土地を貸して作ってもらった方が得策ではないかと思ったりする。資本主義社会の中では、農業なんて産業は、モトクロスで細い山道を登る道楽みたいな商売ではないかと思ったりする。きちんと舗装された広い道路を、安定して走るというわけにはいかないのである。
 雅太がそのように考えたのは、実家からアパートに戻る途中、そんな具合になってしまったからである。雅太はいつもと違った道で戻れるのではないかと、別の道を走ってみた。標識も間違いではない方面を指していた。道路もきれいで、雅太は少し冒険をしてみることにした。田園風景をしばらく運転していると、黒猫がスタスタと前を横切った。何かの精霊の顕示か。雅太は嫌な予感がしたが、まあ、ネコが横断することぐらいよくあることだとプラス思考でそのまま進む。太い道路は、細い二つの道に枝分かれした。どちらかが正しいのであるが、方向からして南に下らねばおかしいと、ハンドルをそちらに切る。道のアスファルトは消え、砂利道が続き、車は上下に揺れた。それでも何とか少しだけまともな道に戻ったが、再び枝分かれし、果てには雅太はここから先へは進めない看板に直面してしまったのである。
 普通に既知の、いつもの広い道路をひた走っていれば、あんな無駄なことは避けられたのであろうにと、雅太はピーナツを齧り、半分ぐらいになった金麦500mlのアルミ缶を揺すって、再び一口飲む。そういえば、国道2号線に出た後、カラスが雅太のフロントガラスの前をさっと横切った。カラスはそこら辺にいるから、別に問題はないだろうと思いきや、大事故でもあったのではないかと思うほどの大渋滞に巻き込まれた。
 物事は思うようにいかないものである。道を走る車、それ自体がそのことの顕示かも知れない。酔った状態で雅太はおかしなことを想像する。車があっても道がなければ走れない。道があっても車が進まない場合もある。これは何か、経済システムを髣髴させるのではないか。道はお金であり、車は事業、企業、会社である。とするなら。農業をやろうと思っても、お金がなければ運営できない。お金があっても、農業が進まない場合がある。まさに食べ物を作る会社が沢山あるから、事業が進まないのである。まさに日本では小さな農家が多すぎて上手く行かないことの象徴なのかもしれない。農業には絶対な需要があるから、車の数さえ減ればどんどん前進するのであろうが。
 雅太の田舎では「農業は金にならんなぁ、金にならんなぁ」と言いつつも、やめようとしない輩が多い。まさに渋滞になり「車が進まんなぁ、進まんなぁ」と思いつつ、車から降りようとしない輩と同じのように思える。もっとも、車に乗っている以上、降りるわけにもいかず、雅太の田舎でも田畑と農機具がある以上、やめるわけにはいかないのと同じ原理である。それは、都会の工場や商店も同じかもしれない。いや、普通の労働者でさえ、仕事を辞められないのと同じ原理なのだと雅太は考える。
 酔いを醒ますために、雅太は濃い緑茶を一口すする。苦みの後、大きく息を吐く。本当のところ、車から降りることはできるのである。そして自分自身の足で、歩くこともできるわけだ。果てしない道路を。しかし周りをみても、そんなことをしている輩はほとんどいないし、あまりにも非効率で悲惨である。だから体が動かなくなるまで車から降りないという感じになるのだろう。現に農業はそんな感じだ。
 
 ここまで書き綴った時、雅太は自分が一体何を言わんとしているのか分からなくなってきた。要は雅太の親が体が動かなくなった時に、雅太がそれを引き継ぐのは実は恐ろしいことではないかと、黒猫の顕示は発展していったのであった。

変化

2013-09-19 07:10:07 | 身の回り
雅太が起きて、ブログの編集画面を開くと「閲覧数439、訪問者数150」とあり、何か魚でもつれたような手ごたえを感じる。予定されていた玄米や納豆、魚などを咀嚼しながら、そういえば、『仁』が放送されていた頃、訪問者300人台を連発しことがあった気がするが、それはタイトルでつられてクリックしたからかもしれない。今回のアクセス解析では『半沢直樹』では一人もやってこず、「一体この先どうなるのか」でやってきたわけである。
 人間は大抵同じようなことを考えているわけであり、雅太のような中年の独身者が抱える悩みは、共有されてしかるべきであろう。確かに責任がない分、楽ではあるが、張り合いがなく、人生において何か大事なものが欠けている、欠落感に夜中やある日突然悩むわけである。何かに熱中している間はいいが、沈黙の時間が続くと黒い闇に圧倒されて飲み込まれてしまう。
 毎朝、子供の顔が見たい。そのためには縁もいるし、円もいる。それらを得んならば、ただ自分が歳をとっていくだけで、それを子供の成長で相殺させることができなくなり……、
 そう考えている所で、台所へ食器を持っていくときに雅太は膳を滑らせて大皿を割ってしまった。魚の骨が飛び散り、雅太は後片付けに手間を食う。
 雅太は、これまで淡々と受け入れてきた自分の心が、割れた予兆であると、解釈したのであった。
 

一体この先どうなるのか。

2013-09-18 19:48:27 | 身の回り
 雅太は6年以上続けているブログの編集画面を見て、腕を組んだ。 2013.09.17(火) 閲覧数 488 PV 訪問者数123 IP 。何故か昨日は投稿したわけでもないのに多い。雅太は多分、前回のブログがある種の心に答えたのではなかろうと勘繰った。それはそうだ、今の世の中、雅太と似たような境遇の輩はそこらじゅうにいる。どうしよう…このままでは……、と思いつつ、皆「とりあえず」の明日を迎え、それを積み重ねて、歳を重ねていくのである。雅太に至れば、6年後もこのブログを書いていようとは夢にも思わなかったわけで、それも、書いている場所も、内容も、全然おかしなものに変わっていたのである。
 雅太はチョコレート効果72%を一口齧り、「甘い、見通しが甘すぎた」と唸る。時は着実に過ぎていくが、雅太自身が何を行ったかというと、たまたま発見した仕事に身を任せ、得体の知れない呪術を行っているということである。一体この先どうなるのか、もう全く分からない。
 ただ過去を反復したせいか、分かってきたのは、人生には流れがあるということだ。
 今のこの意識は、過去の圧力がもたらしているには違いない。過去の総体が、今の雅太の意識なのだ。
 今こうやって雅太がキーボードを叩いているのも、過去何度も何度も記事を投稿してきたからに他ならない。
 明日、雅太が仕事に行くのも正にそうで、明日の朝食ですら、過去食べてきたものが食されるのである。
 もうそれは、過去に予定されているのである。

 ということは、「雅太の未来がどうなるのか全く分からない」、という問題は、「雅太が過去やってきたことをやるだろう」、というのが解答になるのかもしれぬ。人間は同じことを繰り返すのである。

 雅太が過去の圧力から逃れるには、自分の意識の謎を解く、もう一度なぞる必要があるのかもしれない、と思うのであった。


やり切れぬ思い

2013-09-15 20:08:38 | 身の回り
  雅太は母が亡くなって休むことになった上司と電話で会話しているうち、底なしの憂鬱感に襲われた。一回り年上だが、やはり母親に死なれるのはきついようで、電話越しの声が涙ぐんでいた。あと10年経ったら、他人事ではなくなると、雅太は真剣に悩むのである。当然であるが、親は自分より先に死ぬ可能性が高い。特に50代から60代にかけてその可能性は非常に高くなる。雅太の両親は農作業ができるのは当然、母に至ってはまだ稼ぐことが出来るぐらい健全だが、いつどうなるか分からない。むろん雅太自身もどうなるか分からぬが、一応、食事とか気を使っているので、健康に対しては、同年代ではエリートだろう。ただ、そういうことになるなら、孫の顔ぐらい……という発想になる。雅太の人生計画自体が出鱈目であったから、仕方がないのだが。
  世間では、20代で結婚し、30代で子育てをし、40代で家庭や仕事を実らせる、ということになろう。そして50代で、親が子の行く末に安心し、子孫に託し逝くのを看取る、というのが望ましいのかもしれない。親が死んでも、彼には確固たる家庭があるわけである。だが、雅太にはそれがない。となると親も死にきれず、残された子供も……。
 もはや子供ではない。ただのオジサンである、と思いつつ雅太は86%チョコレート効果を一口齧るのであった。そろそろ、半沢直樹が放送される頃かなと、雅太はPCの電源を切るのである。

『半沢直樹』を観る

2013-09-14 22:40:31 | 身の回り
  雅太はパソコンで今流行の『半沢直樹』なるドラマを一気に観た。東芝のドラマは『仁』とか面白いのが多いが、今回はエリート・サラリーマンを取り巻く人間ドラマであった。雅太は、これはサラリーマン社会の中ではかなり受けると思ったが、同時にこんな職場で怒鳴るような主人公やら脇役はどうなのか首を傾げた。現実と違うではないかと、雅太をはじめ視聴者は怒りながらも、釘付けにするのは、まあ、確かにおかしげな上司やら理不尽な事が現実に多いからであろう。雅太の職場にも、会社人間で正確に異常をきたしているとしか思われない人間もちらほらおり、それは上へ行けばいくほど顕著であるように思われた。
 半沢直樹をはじめとするエリート銀行員は、人事の「出向」を恐れるが、ピラミッドな会社組織ではどう考えても大勢が何処かへ弾き出される。もっとも日本社会全体が、ある種のピラミッド組織であり、雅太をはじめ弾かれた大勢が底辺層を形成しているわけである。かといって、別にピラミッドの上の方が幸せという保障はなく、家庭環境やら性格やら異常をきたしているかもしれず、「近藤」という半沢の同期が良い例であるように思われた。権力を握ればそれなりに仕事が面白いのだろうが、上には上がいるし、結局、自分の能力を超えたところを望まない方が良いように思われる。
 銀行員とか神経が図太くなければ持たず、雅太には無理であろうと思われた。無理してやっていれば「ベトナムに出向」とかの運命が待ち受けているのであろう。このドラマ、世の中はカネであり、理不尽である、というところが受けるのであろうと思われた。
 

英語をやる。

2013-09-07 19:41:18 | 身の回り
  9月になり、部屋の温度が落ち着いてくると、雅太は部屋のカーペットを取り替え、雰囲気を変えてみる。6畳の白いカーペットは部屋の印象を温かみのあるシンプルなものに変え、寝転んだ雅太はペーパーバックを捲ってみる。原書は言葉の力が強いのか、翻訳版とは違った方向から、雅太の脳みそに抉り込んでくる。そのせいか、昨夜は雅太は夢の中で奇妙な講義を聴いたのである。それは日本人は古代のような循環社会に戻るしかないという内容であった。聴講生には死期の近い黒人も混じっており、皆が質問やら賛成をしていた。その教授曰く、商品が売れるのはその商品に「支配力」があるからだ、という。買い手が良いと思えば、革靴や米などでも、価格が高くても売れるのだと。雅太は夢の中で質問した。貧乏人は価格でチョイスするのが現実ではないかと。岡山の山奥では循環社会が実践されているようだ。目覚めた雅太は、確かに支配力のある商品は存在するし、書物、小説などはその際たるものであると思った。『流転の海』の支配力は、第五部まで読者を引きずり込む力があり、カスタネダにしても、原書で読ませようとするほどの魅力があるのである。

 支配力は、時と場合によって変わる。雅太の趣向も、食べ物を例にとるなら、真夏のスイカから、初秋のイチジクに変わっていた。尾道は産地であり、雅太のアパートの周りにも鬱蒼としたイチジク畑が広がっていた。地産地消の販売店で格安なため、雅太は次から次へとイチジクを剥いでは食べていた。手頃な値段ということも大きいが、雅太はイチジクに支配されていたのであった。

 素晴らしいものを消化するための障害は、お金だったり、個人の能力だったり、縁、すなわち最初のキッカケだったりすると、雅太は考えながら、有機コーヒーを一口すする。その点では、雅太にはカスタネダの原書を解読するだけの能力が、ちょっと足らないのではないかと思い、「反復」のためちょうど実家から持ち帰っていた英語の参考書を手に取る。シグマ集中ゼミ 英文読解とある。繰り返して勉強した雅太は懐かしさを感じた。パラグラフ・リーディングが解説され、やはり国語力以上に、英語は読めない。しかし英文の公式のようなものに慣れていなくては、明確に理解することもできないわけである。雅太は受験生にでもなったつもりで、that節の項目を眺める。確かにthatは至るところに出てくる。主語・補語・目的語の「~ということ」の名詞節、名詞+that「~という」の同格、so~that…のような「とても~なので…」という副詞節、さらには関係代名詞の時もあるようだ。雅太はitにも、注意しなければならないことを思い出す。そういえば、英文読解では「関係詞」というのが、主格、目的格、所有格になったりして、英文の読み手を困惑させていたのを思い出したりする。単語さえわかれば、英文は曖昧には読めるが、認識のレベルは構文の理解度によって違ってくるのだろう。書き手のカスタネダが文化人類学者であるためか、内容も難しそうだ。雅太は日本語で分からない部分は、ひょっとして原文で直接わかるのではないかと期待していたが、その前に「英文読解」をやらねばならないのかと大きく息を吐くのであった。

 
 

本物志向?

2013-09-06 17:23:28 | 身の回り
  雅太は、チョコレート効果カカオ86%を一切れ齧って、さっき宅配で届いたばかりのペーパーバックを眺めた。雅太がインターネットで衝動買いした書物は全部で5冊あった。一冊を手に取る。『THE POWER OF SILENCE』。ペラペラ捲ってみると、翻訳されたものと一味違うと思った。雅太は本棚から『沈黙の力』を取り出し、裏返してみた。値段は2,200円。ペーパーバックは897円である。重量も半分ぐらいしかなく、字面も簡潔であるような気がした。雅太は昔は英語をそれなりに勉強した気がしたが、今では錆びついており、無駄ではなかったかと思うこともあったが、ここで役立たせようと決意したのであった。
 雅太は、有機栽培コーヒーを一口飲み、英語版では何でこんなに簡潔なのに、翻訳版では難解極まりないのかと首をひねる。忍び寄りが、stalking、見る者が、seersとなるが、いっそのことストーキング、シーアーズと造語のような感じであった方が分かりやすかったのではと思ったりする。雅太は分からないところがひょっとして原書で分かるのではないかと期待しているのだが、同時に英語もスラスラ読めるようになることも望んでいたりした。だが、スラスラ読めるのは、翻訳版を読み込んでいるので当然であるわけだから、何て自分はバカなことを期待しているのかと雅太は苦笑いをしたりしていた。
 本物を生でそのまま食べる。それは雅太が玄米をギャバ増強で炊飯し、電気圧力鍋でカボチャやらサツマイモ、さらにはアジ、イワシまで丸ごと食べてしまうという、日常生活をそのまま反映しているのかも知れなかった。コーヒーも砂糖も入れず、高級品をストレートで味わう。砂糖を使うならば、黒砂糖、いや、はちみつにして、それ自体を味わうのである。健康志向の雅太であるが、風邪が治らず、何度も咳をしていた。今、不健康な読書に耽ろうとしている。そして何日か経った後、雅太は愕然とするのかもしれない。

 それなりの調理器がなければ、かたい野菜や玄米など食べれるものではない。雅太は果たしてペーパーバックを消化できるのか。大昔に使った英単語集や参考書を読み返してみたりするのであった。