インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

水晶を頭に…?

2011-05-30 07:02:22 | 潜在意識の世界
  休日が大雨で、今朝は晴天で、何か複雑な気分だ。森林浴日和な休日の数が限られている所に、人生とはそういうものだ、ということがほのめかされているのかもしれない。

 それにしても、昨日、不思議な夢を見た。夢なのだろうが、肉体的な感覚をもろに伴っており、額が突き刺すように痛かった。それは光の波動であり、確か「水晶」が媒介して増幅していたように思われる。水晶など遠い昔に紛失しており、縁がなくなっているのだが。

 思うに、チャクラと宝石の関係というのは、結構強いのかもしれない。ペンダントで、胸(のど?)にあるチャクラを刺激したり、指輪の石をチャクラに当てたり、何かしら効果がありそうだ。特に脳下垂体(アジーナチャクラ)には、水晶あたりに絶大なる効果がありそうで、水晶の頭飾り(?)か何かをすれば、第三の目が開きやすくなったり…。

 そこで、ざっと「水晶 額当」をgoogleで調べてみると…、やはり売ってない。ペンダントの小さいサイズを頭にかけておくということで、試みるか。変人な世界ではあるが、試してみる価値はあるのかもしれない(夢のお告げです)

 

社会性

2011-05-26 06:53:55 | 考えるインディオ
夜中に、草原を走ったが月がないので不気味極まりないものだった(すぐに止めた)。週末は雨が降るらしく、森林浴が出来そうにない(涙)。まあ、そういうシーズンだから仕方がないが、温泉&サウナにでも行って癒そうと思う。

 このブログは余り社会性がなく、万人の読解に耐えうるものではないかもしれない。まあ、どうせ、タダだし、書きたいように書けばいいわけである。いや、まだ最後の一線(?)を保っているかもしれないが、全てを呪術に委ねるようになったら、ブログなど書かなくなるかもしれない。今は何となく、自分で自分を説得するために書いているような気もする。

 ただ自分と似ているような感情を持っている人が多いのも事実で、現にアクセスが減らない。絶望感が漂う世の中で、既存の社会性そのものが疑われているのかもしれない。

 そういえば、貿易赤字4637億円…4月では31年ぶり(読売新聞)であるようで、それなのにドルが82円という構造はちょっとおかしいのではないか、と思う(アメリカサイドが全てを決定する仕組みだから仕方ないか)。ドルとリンクした中国とも圧倒的に不利で、しかも放射能とかの風評被害もあり、加工貿易国としては「貿易酷」な状態になっている。ということは、内需があんまし見込めない現状である以上、相当ヤバイのではないかと推測され、これからますます倒産やら失業が増えるであろう。

 あんまり関係ないかもしれないが、我が輩の職場でも締め付けがきつくなり、暗い顔をして、何か訴えるような目つきで我が輩を見ていた人のことを思い出す。本当なら、逃げ出したいのであろうが、こういう雇用情勢だから、事態はそう簡単ではない。そして、そういった現場が、日本中のあちこちでリアルに起こっているものと推測される。

 それでも何とか日本社会が「社会」を保っているのも、やはり日本人が辛抱強く、「見かけだけはしゃんとしよう」意識を持っているからかもしれない。特に地方はそうである。あんまり世間体を気にせず、自然体で生きるのが一番なのだろうが。「見かけだけ」の競争社会に、何の意味があるのか。

修羅場が人を磨く

2011-05-25 06:04:47 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 ナワールは全然見かけないが(当然か)、これだけ人間の数が多いわけだから、それに近い人間は結構いるのではないかと推測される。もっとも大勢は隠れているわけで(名乗り出るのも馬鹿らしい)、たまに魚のように姿を現すこともあるだろう。捕まえようとしても、もちろん逃げられるのであるが。

 人間を判断するには「その人が書いた言葉」よりも、「日常の行動」がものを言うわけであるが、あまりにも書かれた言葉が凄かったら、「言葉の羅列」に引き込まれる。そして彼は「現代の呪術師」であると推測されるのである。前にも出てきたが、まずそれっぽいのが、桜井章一せんせいである。「四人の男に拉致され、生き埋めにされた」りしたらしい(高レートの賭博で勝った逆恨みか)

修羅場が人を磨く (宝島社新書)
宝島社


 本書を読むに、「日本刀を突き付けながらの勝負」とか凄い実体験が最初にあるが、まあ、ふつうならばビビってしまうところであるが、そうではなく、逆に冷静さが冴えて、修羅場を乗り越えてしまうところに、カスタネダの本にある「人間の測り知れない能力」というものを考えさせられてしまう。

 もっとも、ヤクザとか実は臆病であり、弱気で逃げ腰な人間を執拗に追い回し、襲っているだけなのかもしれない(ヒグマと一緒か)。目を合わせても全然動じていない人間を見ると、「得体の知れない存在」(呪術師!?)として敬遠するだろう。怖い人間を直視して動じないどころか、喜ぶ人間もいるかもしれないが。ただ、我が輩のように外見がな感じであると、あんまり修羅場などに近寄らない方がいいかも知れん。

 それにしても、先日読んだ唯識論な本によれば、「修羅場」というものも、自分の頭の中が、ただそう判断するだけなのかもしれない。そこにはただ「状況」があるだけで、頑固な自分やらプライドやら価値観やらが、作りだしているだけなのかもしれない。ただそれはピラミッドの頂上というか、大した因果がなくて、苦労もない世界の話で、現実問題、「修羅場」は存在する。地震とか、津波とか、放射能とか、誰がどう見ても修羅場という世界か。

 巻き込まれないのが一番だが、この世に肉体を有して存在している以上、何らかの「修羅場」に巻き込まれる可能性があるわけで、食べ物がない、カネがない、仕事がない、病気で体が動かない…、現実とは闘いなのである。とするならば、「意識」は最高の武器なのか。修羅場に追い込まれれば、自分を守ってくれる最高のものは、多分、「高次の意識」なのであろう。もちろん、それはプラスな、肯定的な、意識であり、「ゲーム感覚」で楽しく蓄えている人間は最高に強いということになる。

 ということは、「自分自身を如何に呪術にかけることができるか?」それが呪術師であり、忍び寄りの術(考えうるあらゆる状況から最良のものを引き出すことを可能にしてくれる手順と態度)なのだろう。

 目の前にある修羅場、リアルな戦いの前に、「意識の戦い」(『インセプション』の世界か?)があり、戦略的には如何に潜在意識を理想的に配列するか、にかかってくるのだろう。到底不可能なことは、潜在意識でそうなっているから実現せず、まず「身近」で「できる」ことから攻めていくべきか。「覚醒、気づき、…」、とりあえず言葉で飽和させていくと…、少しは何かが違ってくるかもしれんわい(ひたすら自己洗脳ですね)

 

 

今年も森林浴! 

2011-05-23 04:49:08 | 身の回り
  3週間ぶりに田舎に戻ると、憩いの場所が葉っぱで生い茂っていた。我が輩にとっては、「力の場所」ともいえる所なので、さっそく森林浴をする。昨年と同じように、こんな感じである。

  

 すべてが早い。季節の移ろい。自分にとって、今のシーズンがベストであることは、間違いない。背後からは小川のせせらぎ、あちこちから鳥のさえずり、草木のざわめき。空を見ると、緑の天蓋に覆われている。

  

 光加減が変わると、また違った風に見えるが、この間まで枯れ枝だったので、「命の再生」を感じる。

 

 さて、ここで、また本を読んだのであるが、『呪術と夢見』(ドンファンが去った後の、ナワール・カスタネダたちのドタバタシーン)を三分の一ぐらい読み、次のも読んだ。

 
阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
クリエーター情報なし
幻冬舎
 

 これはまた衝撃的な本であり、何かしらカスタネダの世界とダブっていると思われた。自分という存在を離れて、「もの」は実際に存在すると考えられているのであるが、実は「もの」は存在せずに、それを見る「心」しか存在しない、というのである。資本主義という物質文明の中でどっぷりと生きる我々には、「はあ?」と同時に、ガツンとくるものがある。「りんご」が目の前にあったとして、それを「丸くて赤い」とか「美味しく食べられる」とか、意識するわけであるが、そうなるともはや目の前にある「もの」は「心」となる。我々は、「もの」を見ているのではなく、「自分の心を見ている」のである。

 それで、仏道修行とかする意味は、映し出す「曇った鏡」を磨き上げ、「明鏡」にしようと試みるわけで、それで物事の真実のありようを見ることができるというのである。それが覚者(仏陀)であり、それは極めて冷静沈着で、心に動かされず、物事を中立的にとらえるわけである。もちろん、私心がなく、「自分の」とか「○○の」とかといった固有名詞にこだわらない。我が輩の後ろに流れているのは、○○町の△山から流れる小川(?)なのではなく、「ただの水」なのである。この水が美味しいコメを育てるわけであるが(アキロマン)、それも「ただの穀物(いや、植物)」なのである。ということは人間自体、「ただの肉」なのかも知れない。

 カネ、カネ、カネの世の中になると、我々の心は完全に曇りまくり、争いが起こりまくる、ということか。ただ唯識論が素晴らしいとはいえ、霞を食って生きるわけにはいかず、心の他に存在しないとしても、「もの」を存在させ、区別して認識して生産・流通させるしかない。大多数はそれで、「ただの肉」を存続させることができるのである。

 机の上で本を読んでいると疲れるが、自然の中で読んでいると疲れを知らない。むしろ爽やかで、懐かしい子供の頃の香りを感じるのであった。

 

忍び寄る者

2011-05-18 05:21:50 | カスタネダ『呪術の実践』 !
ついに近場で「草原を走る」修行を適する場所を発見したので、走ってみた。満月の夜、ソフトアイで、急斜面もあるこぼこした道をせっせと走った。近場でこんな場所があるとは、「呪術師にでもなれ」ということなのか、と「内的対話」が少し働く。視点をぼかすわけであるが、もともとあんまり見えないわけで、眼球の移動もさせてみた。靴が泥だらけになり、それでも走り終えた後は気分爽快であった。

  さて、不吉な前兆もあったことだし、真剣に『沈黙の力』を読んでいると、「忍び寄りの術」なるものが、呪術師の一番の関心ごとであるようだ(『呪術の実践』では五つの関心事の「内的沈黙」をより具体的に説明しているものか。『呪術と夢見』を読んでから読むべきかもしれぬ。まったく、カスタネダの本を読む順序がでたらめだが、内容は首尾一貫している。『時の輪』には要点だけピックアップされている)。内密の行動が要求されるようだ。

 まとめるに、我々の行動は、まったく型にはまっている。その型を打ち壊すような振る舞いは絶大で、それは集合点に変化を生じさせるようだ。呪術師は、集合点の振動を「見る」ことができるし、集合点を「移動させる」ことができる、とする。しかしそれは、「体系的なやり方で、しかも上手に導かれて実行される」とあるので、やはりナワールの教えが必要か。

 ともかく、集合点の移動には「忍び寄り」をまず学ぶ必要があるようだ(その後で「意志」を学ぶ)。四つの段階があり、

          ①非情さ  (苛酷さ、粗暴であってはならない)

          ②狡猾さ  (残酷、冷酷であってはならない)

          ③忍耐   (怠慢であってはならない)

          ④やさしさ (愚かさであってはならない)
 
 戦士はまず自分自身に「忍び寄る」わけで、これがあらゆるものの基礎になっているという。


  この「忍び寄り」には七つの原則があり、

       ①戦士は戦の場を選ぶ→ 周囲の状況を知らぬまま戦うことはない。
       ②不要なものはすべて捨て去る→ 物事を複雑にしてはならない。常にシンプルに。
       ③すべての戦いに命を賭ける→ 全神経をそこに集中させる。
       ④リラックスして自己を捨てる→ 恐れない。導く力が道を開き、力を貸してくれる。
       ⑤難関に直面したらとりあえず退却する→ 何かほかのことに時間を費やす。
       ⑥戦士は時間を凝縮する→ 戦いにおいては、その一瞬に命がかかっている。
       ⑦忍び寄る者は決して自ら一番前に出るな→ 戦士は常に背後から現場をうかがっている。

 かくして、効果として、

  自分を決して深刻に考えたりしないことを学ぶ(自分自身を笑うことを学ぶ)。⇒ 小暴君とかはそうではない。

  限りない忍耐力を持つことを学ぶ(絶対に急がない。いらいらもしない)。

  限りない即興の能力を身につけることを学ぶ。

  
  …というわけである。そして女は生まれながら「忍び寄る者」でそのようにふるまえるという(男は餌食に近いのかもしれない)。

  

マヤ文字について

2011-05-17 06:06:25 | 思想・宗教
  一昨日の深夜の続きだろうが、閲覧数:1,488PV と多かった(オールナイトでクリックされまくったようだ)

  これをどう解釈するべきか、悩むところだが、爆発的にヒットする何かの前兆なのかもしれぬ。2012年も近いし。

  そういえば、かつて、「Q.マヤ文明の世界観を教えてください」のような記事を書いたようだが(ぼんやりとしか覚えていない)、我々現代人と肉体的な認識が全然違うような存在であるとは思っていた。今でも全然謎であるが、古代メキシコの呪術師の末裔、カスタネダの本を読んで、ぼんやりながら少し謎が解けてくる。

 マヤ文字事典をぱらぱら捲って、これはちょっと普通の言葉ではないような気がする。

  『沈黙の力』にこうある(p72。マニアの世界で恐縮である)。

  (呪術師の)仕事は私たちと精霊とをつなぐ環をきれいにすることだという。そのとき「意志」が私たちの前に提示する建築物は、いわば一つの情報センターとなる。その中で私たちは、自分の環をきれいにするための手続きよりもむしろ、その手続きを生じさせる沈黙の知そのものを見つけることになる。この沈黙の知なしではどんな手続きも作用しないし、そうなれば私たちに残されるのはただ、何かが足りないという漠然とした感覚だけになってしまうだろう。

 (ドン・ファン)の説明によると、沈黙の知がもたらす結果として呪術師の手で解放された一連の出来事は、実に単純だがあまりに抽象的であるので、呪術師たちは遠い昔に、そうした出来事については抽象的な言葉でしか触れないようにしようと決定した。精霊の顕示やノックという言葉がその実例だ。

  たとえば、ナワールと未来の弟子とが初めて出会った時に起こることを、呪術師の側の視点から記してみても、それは全く理解できないものだろう、とドン・ファンは言った…


  ということは、マヤ文字とは「精霊のサインとかが書かれてある」ということになるのか。絵文字にもちゃんとしたルールがあるのだろうが、 あれが長々と綴られた場合、「理解できるものにしか理解できない」ような領域であるような気がする。

  ストレートに「死んだ」ではなく、「シバルバへ旅立った」という感じであるからして、死というものの認識が我々現代人のものとは違うような気がする。他にも、「死んだ」=「白い花が枯れた」とか表現され、魂とは生命という世界樹の花にたとえられている。ということになると、花が散る=死の前兆、ってことになって、何か我々日本人の感性と似ているような気もするのだが…(いや、人種に関係ないか)。

人生の趣向

2011-05-16 07:09:13 | 考えるインディオ
  昨夜は夜にかけて、異常に閲覧数が多く(1,912PV…!?!)、何か調子が悪いが(頭もぼけているが)、書けというサインなのかもしれず、書こうと思う。調べられていたのは、我が輩自身についてなのかもしれないが、まあ、世にいう成功者でもなく、物書き思考な一般労働者にすぎない。今のところはまともに働いているけれども(?)、これからもそうなのかは、全く分からない。

  馬鹿正直にストレートばかり投げる(打たれる)人生だったような気がし、都会生まれの人間よりも根本的に要領が悪い。もう少し若い頃に「ずる賢さ」というものがあれば 、もっと違った人生を生きられたのかもしれないが、そういう性質なのだから仕方がない。それに「自意識が強すぎた」ということも、色々なサインやら顕示を見落としてきた原因だったのであろう。

 偶然とか、必然とか、運命とか、何だか知らないが、神というか、無限というか、宇宙の力が同意しているから、起こるのである。「∞の命ずるままに生きよ」というのが、これからの課題であるように思われる。

 人生を眺めて、「あれもしたい、これもしたい」という欲求が強すぎたのかもしれない(二兎追うものは…)。

 自分で意識して行動し、我がものを増やそうというのは、傲慢ではないか? 己の体も、意識でさえ、実は我がものであるはずがない。借り物である。死んだらお返ししなければならない。

 そう考えると、言葉による思考というか、自意識をなくして、∞の命ずるままに生きようと思うのであった(結局、ストレートを投げ続けるのか)。

精霊のノック ~不気味な前兆~

2011-05-14 18:47:27 | 身の回り
  当て逃げされた(駐車場で)
 
  あまり高価な車ではないからそこまで怒りは覚えないが、ぴかぴかだっただけにショックだ(後ろが…)

  警察へドライブし、かなりストレスがたまっていそうな警官と話し、現場では気さくな若い担当警官と検証し、無意味な書類を作る。

  器物損壊、当て逃げ。5点(?)。雑談ばかりして、成果は何もない。たぶん、このまま泣き寝入りになるのであろう。

  当てた方も、多分、悪いと思ってはいるのだろうが、「逃げれば分からないさ」もしくは「カネがないから逃げるしかない」という感じか。仮に自分が、相当なる金欠状態で当てたら(もちろん、車両保険未加入)、状況次第では逃げないとは言い切れない。しかし「分割払いでもいいから返す」と言わないと、心が痛んで、苦しむことになるわけで、まともな状態ではいられないだろう。

 東北の津波で車どころか家をさらわれた方々にとってみれば、「大したことないや」ってな軽犯罪であるが、「人間」がしたことであるから、「一体君の精神状態はどうなっているのだ!」と叫びたくはなる。全部がそうではないだろうが、軽い犯罪になると、「見つからなければいい」、「やっても逃げるが勝ち」という図式になっているような気がする。

 「たかがあれくらい…」という精神状態は、次々とエスカレートしていくだろうし、被害者は間違いなく人間不信になって行くだろう。ただですら、「カネ、カネ、カネ…」で、カネ中心で動く人間ばかりで、心から信用できる人間が少ない世の中である。運が悪かったということになるのであるが(駐車場所?)、泣き寝入り、「やられた方が悪い」「あきらめるしかない」ということで、果たしてよいのか?

  福島の原発問題とかもそうではあるが(レベルが違うが)、最初からそうなるのは分かっていたけれども「黙っていれば分からない」という感じだったのだと思う。事故しそうだけれども、何とかうまく運営できたが、ついに「当てて」しまったわけである。この場合、「逃げてはいない」けれども、全然住めなくなっているわけで、一時金で100万円とか渡されても、仕方がない。状況が状況であるだけに、もはやどうしようもなく、泣き寝入りするしかないのである。もうすぐメルトダウンしそうだという状況でも、電力会社やら政府は、「カネがないから逃げるしかない」わけで、心は痛まないのだろうか。

  被害者は責任追及するが、追及したところで、みんなの家が建てられるほど補償金がでるわけもなく、「自分が全て負担」するわけである。大半は、経済情勢がこれでは、一体どうすればいいのか、途方に暮れるだけであろう。国家は存在するけれど、「法律がどうの」「プライバシー云々」と警察だけでなく、行政担当者は大して世話をしてくれないであろう。

  自分一人一人が、どう行動するかにかかっているわけである。失ったものに心を奪われても、ストレスがたまるだけで、ただ、人生を前進するしかない。この「サイン」(前兆、顕示か?)で何か目が覚めたような気がする。これはまさに、現代文明人の象徴であり、まあ、「精霊」の働きによって、状況がもっと悪化すれば、他人を傷つけてでも自分が生き延びようとするであろう。それは生き物としての本質かも知れないが、我々現代人は甘っちょろい存在であり、「死神」が支配するような世界には耐えられないだろう。

 我々現代人は傷つくのを恐れている。命は無論、財産であれ、自尊心であれ、できるだけ無傷でありたいわけである。しかし人間とは死すべき存在であり、老化し、病気になり、不幸に襲われるのは避けられないのである。(こんなマイナスな表現を書いて良いのか?)

 暗いことを考えてはいけない(実現するから)わけであるが、現実問題、苦しみから逃れられない。だから精神世界の本が売れるわけであり、宗教団体も多いし、何らかの修業をやっているのである。「死神」が存在するかは別として、我々の日常生活は平和そうに見えても、一歩踏み込めば、問題だらけである。目先の小さな問題にこだわっていれば、重要で大きな問題と格闘しなくて済むのであるが、やがて大きな問題が姿を現し、ささやいてくる。死である。

 我々は死ぬことを学んでいない。そんなものは学校教育では教えてくれるわけもなく、ただ死とは嫌悪すべきもの、遠ざけるもの、としてしか扱っていなくて、性教育とかもそんな感じである。大事なことが分からず、一体、「生きるということは何なのか」も実はよく分かっていないのかもしれない。ただ「資本主義社会」「法治国家」とかいった巨大な海の中で漂っている小舟でしかなく、荒波が来たら多くの船がひっくり返ってしまう。死と戦うことが、生きるということなのか? 実は生きるということは、全然保障されていない代物なのではないか?

 潜在意識で「もうすぐ死ぬ」と思えば、実際に死ぬかもしれないが、死はある日突然襲ってくるわけで、当て逃げされたのもその「前兆」と考えられなくもなく、もっとでかいことが起きる前触れなのかもしれない。死にかけるまで、死なんて忘れて生きているわけであるが(苦しみは覚えているが)、このまま死んでは一体何のために生まれてきたのか分からない。一体何のために生きたのか?

  漁色の果てに結核で死にかけたナワール・フリアンに、後の師匠となるナワール・エリアスが助ける時のシーン。

  この男はただ頭がおかしいだけで、娘とは何の関係もないのだ。薄れゆく最後の意識を男の呟きに集中させた。男はこんなことを言っていた――人間の持つ力は測り知れないということ、死は私たちが生まれ落ちた瞬間からそれを「意図している」がゆえにのみ存在するということ、「死の意志」は集合点の位置を変えることで中断させられるということ。


  こういうブログを書いていると、「当て逃げ」されても、「精霊がノックをしてきた」(不気味な前兆だ)ように感じられる。何かが始まるのか。何かが起ころうとしているのか。「死神」について考えろ(書け)ということなのか。

  とりあえず、前々回書いた「りの予兆」とは全然思えない。ぶつかっているので明るくない。考えてみれば、社会の状況からしてハッピーにしている状況ではなく、死神がかっているのである。今回の被害も、古代人の思想からすれば、大勢が「生贄」になっているわけで、それも想像を絶する、宇宙の意図だとしたら、我々に出来るのは一体何なのか?

 個人的な問題か、それを抽象化するのか、目先のことしか考えていない我々が、もう一皮むけなければならないということなのだろうか。

 

無言の力 *前兆・サイン・顕示*

2011-05-13 19:35:01 | カスタネダ『呪術の実践』 !
と  やっと『フラッシュフォワード』を11巻まで見終えて、退屈な所もあったが、ラストは感動的だった(観客はみな涙ぐみます)。「予言を成就させようとして」と新しいカップル(?)が生まれたり、逆に「未来に抗おうとしたが、私たちはここにいる」と夫婦になったり、ブラックアウト(未来を夢見)した時の未来が、現実のものとなって行く…。

 映画ほどではないが、やっぱり「あの時ちょいと感じたことが、後後になって大きく姿を現す」ということが、我々の日常生活でも、結構あるわけで、我が輩の場合、例えば、カスタネダの世界とか、まさにそんな感じである。

 確かにブログを立ち上げた4年前、今日から呪術の実践!とか、ほざいていたが、たまたま、古本屋で見つけていたから(2400円の新品なんて…)ちょこっと読んで掲載してみただけで、意味も分からず(『フラッシュフォワード』を9巻ぐらいから観るようなものだ)、まさかこうなるとは思わなかった。

 

 二、三冊ならともかく、これだけ固まってくると、無言の威圧力があり、つい『沈黙の力』とかを手に取って読んでしまう(これはかなり面白い)。そこでは、ナワールとか、シャーマンとかは、自然現象やら様々な状況から、「前兆」を読み取るようだ。ナワール(呪術師集団のリーダー)とかは、弟子を探さなければならないのだが、それは何らかの前兆(サイン、顕示)が現れるわけで、それは無限なる意志(抽象、精霊)を直接知覚できるナワールには手に取るようにわかるわけで、それでカスタネダやら、ドンファン、その師匠とかも、そういった悩む必要のない世界(過酷な世界)へ巻き込まれて行ったようである。

 とはいえ、我々はみんな通常の意識状態でも多かれ少なかれ呪術を体験しているわけで、(後で)「やはりそうだったのか、あの時の○○は…」(直観に従うべきだった)という経験が結構あると思われる。人間はじっくり考えて失敗することも多い。やはり「どうしようか、どうしようか…」とひたすら判断に悩むのである。全くカスタネダを知らなかったら(ましてやカネがないなら)2500円も出してカスタネダなど買うはずがない。我々は合理的な思考法が身についており、「囚われの身」なのである。資本主義社会やら世間体でガチガチなのに、何でることができるのだ?(役にも立たんのに)と思われるかもしれない。

 しかし前兆があったのである。地震、「大地の踊り」である(なら「大地の怒り」は、火山の噴火か?)。連鎖として考え、今度は人間の番ということにならないのか?(何の根拠もなく、そう直感したのだが。妄想か?)。

 大地が少し踊っただけで、社会にひびが入ったわけで、それは人間の理性にも亀裂を入れたのではないか。防衛手段として、自分の直感を頼るようになるに違いない。「呪術師」になるような修行?をあれこれやるようになるのである。

 もともと希望がない人間で溢れた世の中であるからして、欲求不満の破壊エネルギーは凄まじいものであるには違いないだろうが、不満解消の消費活動?とかでエネルギーは吸収されているのかもしれない。叫びたい人間は、コンサートやらカラオケに行ったりするかもしれないが、より巨大な世界観の中で、ることに密かに関心があるに違いない。

 未来のビジョンは一体どうなるのか分からないが、物質的には豊かでなくなったけれども、「精霊の祝福を受ける」ような人間が増えるのではないのか。どういうシナリオでそうなるのか不気味であるが、やはり「精霊」が可能にするわけであろう(2012年が恐ろしい)。

 このブログも案外注意深く?「じっくりと見られている」ようであるが(閲覧が異常に多い)…、何らかのサイン(前兆、顕示)を受け取った方は、反応をよろしくお願いします(どの記事でもOKです)

踊りの予兆 

2011-05-11 06:35:57 | 自己主張
  朝一番、一杯の茶を飲みながら、何かを書こうとしている。何十分後?かには、記事が完成しているのだが、今は「0の状態」である。このブログは、幾ばくかのメモ(?)を頼りに、書かれているのであるが、全く何もない状態も多い。つまり、無意識が、現在の意識状態をベースに、キーボードを叩かせているのである。

 中には共感を呼ぶような文章もあるかもしれない。日本経済が行き詰まりワーキンプアだらけで、高齢化社会で医療費増大、商店街はシャッターが閉まり、特に地方は活気が全くない(いや、激安店密集地だけあるか)。そんな中で、東北の震災・津波とか原発の放射能汚染が起きたわけであるから、ますます絶望感が広がっているのである。もはや人間が理性的に解決できるような状況でなくなっているのかもしれない。

 人間の理性というか、合理的なる思考方法が、たいがい上手く機能していた時(高度成長期とか)には問題がなかったのであるが、もはや至る所が問題だらけであり、限界に来ているのである。文明人のおごりというか、上っ面だけの世界が、崩れていっているのであろう。それは多分、個々人の領域もそうで、この荒波に翻弄され、「まともだと信じていた世界」が幻想だったのではないか、と考えるのである(何かかたい文章だ)。

 もともと個々人の存在など、森の中の一枚の葉っぱのようなものかもしれないが、それでも「生命」という大きな木の中の一部のはずなのである。それがまあ、栄養が来ないので(カネが回らないのか?)、葉っぱは次々に枯れていき、そのうち、今は青い葉っぱも色あせていくわけである。そう考えると、若い葉っぱが生育しないのが一番の問題かもしれないが、エネルギーが回らないのだから仕方がない。

 エネルギーといっても、水だけではなく、太陽の光やら、他との競合状態やらいろいろあるわけで、葉っぱに生命力が感じられないのは、「希望の光がない」からなのかもしれない。生命が、その生命の本来の輝きを取り戻すためには、やはり宇宙からのエネルギーを感じることで、それを復活再生しなければならない。現代文明という、分厚い殻が、そのエネルギーを受け入れる邪魔をしているのかもしれない。

 一本の木というのは、国家というよりも、会社とか、地域とか、何らかのグループ単位と見なすのが良いのかもしれない。とにかく葉っぱが生き生きとしていないと、強い木にはならないわけで…、生命を取り戻すような息吹き、風が吹くならば、葉っぱは自然とるのである。ということは、活気ある会社は宴会でっているのか??

 とにかく、希望なき社会は、生命の衰退状況であるからして、そのエネルギーを何とかして取り戻さなければならないということだろう。カスタネダな世界なら、夢見、内的沈黙、そしてマジカルパス…。これを実践するのであるが、そういえばインディアンな世界ではゴーストダンス運動があったが(2009年1月30日の記事 ゴースト ダンス。あれから早いものである)、あれも一種の生命回帰な運動だったのかもしれない。

  かくして生命の殻を打ち壊すために、我々はらなければならない時期に来ているのである(何という結末だ!)

あれは第三の目か?

2011-05-09 05:19:48 | 潜在意識の世界
  未だに夢の中で自分の手を見ることは出来ないが、夢の終わりの頃に(目覚めて意識がぼおっとしている時に)、奇妙な絵を見る。絵というより、天井とか壁なのかもしれないが、今そこにある部屋のではなくて、どこか別の場所のそれなのである。今朝見た「監視カメラのようなもの(??)」は、どこかで見た記憶もない。

 光がないし、目を開けていないのに、モノが見えるというのは、「第三の目」がほんのちょっぴり覚醒されてきたのかもしれない。昔、「第三の目を覚醒させるには?」(2009年1月9日。かなり古い)とあれこれ考えたが、別に眉間に集中させたわけでもないし、何か宗教をやっているわけでもない。超個人的な夢の荒波にもまれた後、こつ然と現れてくる光景である。しかし別に何の意味も感じられない。

 個人の枠を超えた、宇宙意識にログインするのに、「夢」が入り口になっているには違いない。そして、肉体のエネルギーやら操作方法がカギになっているのも、当たっているように思われる。ただ、我々現代人は、そういった知識、方法論を誰からも教わっていない。中国やらインド、メキシコの古代の知者の本でも読んで、自分で学ぶしかないわけであるが、やはり実践段階になると試行錯誤の連続で、「自己流のやり方」を発見するしかないわけか。

 肉体をパソコン、宇宙意識をホームページに例えるなら(前の記事でそう書いている)、我々はパソコンを毎日操作しているわけだが、もっと違う操作方法があるわけだ。その説明書が、カスタネダの本であったり、仙道の本であったりするわけで、「気づいている人」(多分大勢いる?)は実践しているだろう。我が輩の本棚にはその説明書がずらりと並んでいる。ある意味、それは「受験参考書」とかと同じようなものかもしれない。

 そういうことを考えるなら、我が輩のように「自己流?」を目指し、やや斜めに構えた人間よりも、書かれてあることをただ素直に実践する人間の方が強いのかもしれない。しかしそこは客観的な科学の世界ではないから、「はあ?」「はあ?」「はあ?」の連続で、頭がついていかないだろう。カスタネダの世界にしても、かなりそうである。そういうことを考えるなら、「受験エリート」には向いていまい。

 結局、人間の器が問われるのだろう。だまされていることを知って、だまされるまま、身を任せることができるか、ということだ。
 

固定観念の打破 ★車と『THE ROAD』★

2011-05-07 15:15:25 | 考えるインディオ
  地方都市に住んでいると(?)車が必需品で、さっき税金(4月1日のやつ。7200円)を払ったが、先週はバッテリー交換もしたし(車内で聴き過ぎか?)、何かとカネがかかる(ガソリンに保険に駐車料…)。「馬鹿な、何てことを言う!」と思われそうだが、本当に賢い人間は、できるだけ車を持たず(レンタカーとか使用)、車が要らないような生活スタイルを選ぶのではないか。

 原始の状態の思考(本来のブログの趣か?)から考えると、別に人間は車を養うために生きているのではない。車は人間を仕事場やら観光地やら店とかに運ぶけれど、人間を型にはめるための強固な道具でもあるような気がする。行動範囲が広がり、楽になるから、すぐ動く。徒歩とか自転車で距離があると、「面倒だなあ」といろいろ考え、行動を変えたりする(だからフリーが多そうだ)。ひたすらアメリカのTVドラマを永遠と観ているような状態だろう(実際に今、『フラッシュフォアード』を観ている)。気が付いていたら人生が終わっていた、って感じか。

  車に乗ると、空を眺めたり、裏道をじっくり観察したりすることはない。

  


  たぶん「野宿野郎」とか車など必要としていないだろうし(?)、車どころか、こんなパソコンすらうっとおしいように思えるのかもしれない。ブログを書くといっても、無数にいる人間の中で各自、好き勝手にそれぞれ妄想、幻想を書いているだけであって、第三者からすれば、そんなことはどうでもいいのである。「あなたはあなた、わたしはわたし…」頭の中はバラバラであるが、肉体的同一、カネを中心とした欲望的なメカニズムが、ただ秩序を作っているのである。

 世の中何でもありであり、その実相は、原始時代から何も変わってはいない。津波被害やら放射能汚染やら、安全の保障がなくなり、ろくでもない状態(?)になった時、車社会が幻想であることに気づくようになるに違いない。我が輩は、シャーマニズムな?書物とかいろいろ取り上げ、おかしいと思われているかもしれないが(?)、だからといって、人間の理性的な判断も、間違いだらけである。

 そういえば、アメリカのTVドラマでもサバイバルものが多く、『ジェリコ』(3月6日『ジェリコ』の世界)、『生存者たち』(6巻までみた)、『LOST』とかもそうか。そういえば、深夜、『THE ROAD』というとんでもない映画をみた。冒頭から野宿野郎の世界で、地球的災害の中、父と息子が買い物カートを押しながら、食べ物を探しながら、海へと向かう。人喰い集団から逃れ、海岸へ着いたが、やはり希望はなかった(何て映画だ!)。そして、松本清張の『砂の器』で山陰を旅する親子が永遠に続く感じで、最後は父親が死に、息子が一人残される(どうやって生きていくのですか)

 そこへ若い兄ちゃんがやってきた(おっ、子供がいるぞ)

 パパがこれを離すなって(僕を食べないでください)

 銃をおろして(一緒に来るか、死体と一緒にいるか)

 良い人だっていう証拠は?(散々だまされました)

 ない。それは賭けだ(向こうに子供がいるよ)

 家族の一員にしたところで、物語は終わる。無理やりEND。

  信じるか、疑うか。
 
 信じるということは、命を託すことなのかもしれない(大げさか)。 

 
 
 

『野宿熱中人』 ~野宿野郎~

2011-05-06 09:40:08 | 映画や小説、テレビなど
 今日は休みだが(GWは一体…)、昨日酒を飲んで寝たので、朝から体に違和感がある。多分、「酒を飲む」ということはストレスを抱えているのだろう。「酒でも飲まなければ…」と思っている人も多いかもしれないが、現実逃避の代償は見えないところで払っているのかもしれない。

 さて、ライオンパレス生活をしていると、無料でインターネットがあるし、テレビではAXN(AXNミステリーも)やら「今日の一日一本」(無料)があるので、たまに観る。「今日の一日一本」は妙な代物が多く(?)、昨日は『熱中時間 野宿熱中人』なるテレビの再放送であった(そういえば、『マンホールチルドレン』とかもやっていたし、「家賃が払えなくなればこうなりますよ」ということか?)

 テレビでは、加藤千晶という若い女性が(冒頭では「仲間」がいた)寝袋にくるまって、まるでミノムシのように星空の下、眠ろうとしていた。「よくやるなぁ」と思いつつも、これなら宿泊費がタダだ、いや、車の中で寝るのが早いのでは、と思ったりした。カスタネダの本にも「生活の型を壊せ!」とあったが、なかなか面白い人生体験かも知れない(しかし潜在意識が染まると…)。

 ネットで調べてみると、野宿野郎なる公式ホームページがあった。何かしらパワフルな感じがし、さすらいのインディアンのような気がする。「寝袋は力である」とあるが、冗談抜きに、寝袋は宇宙エネルギーを得るのに絶大な効果を発揮するのかもしれない。

 テレビに出ていた主催者(加藤さん)は、「野宿は人とコミュニケーションをとる手段だった」と語る。野宿をするとき、予定は一切ないという。どこに泊まるかは、トイレや水飲み場の近く、民家の近くであるという。

 実際に寺に行って、「野宿の実演」をやっていた。

 私、今晩、野宿をしたくて…

 野宿!?

 軒下をお借りしていいですか

 保障は出来ないね(特に女性なんて)

 やはり相手に理解がありそうなところを探すのが賢明か。第三者が見ると、寺で修行がしたい(入門志願)か、追い出されたか(厳しい寺だ)そんな風にしか見えないだろう。ただ、田舎は獣がいるので(特に夜中に活躍する)、一人だけで寝るのは心もとない。大都会では強盗に遭いそうだし。3,4人のグループでやるべきか。

 その輪の中に加わってもいいが、るかも(ケーサツが来たり)。案外、星空の下は夢見の修業に適していたり。冬は寒さ、夏は虫とか、問題が多そうではある。

『呪術師カスタネダ』 世界を止めた人類学者の虚実

2011-05-04 06:16:20 | カスタネダ『呪術の実践』 !
  寝ぼけた頭で毎朝書いているが、特に書きたいという記事もない。いや、そういえば、アマゾンでカスタネダの残りの本をそろえたのだが(新品)、調べてみると面白い本があり(絶版の古本)、ついでに仕入れた(送料含めて850円)。『呪術師カスタネダ』リチャード・デミル+マーティン・マクマホーン(大陸書房)である(まだパラパラとしか読んでいない)。

  1983年初頭までに出版された『呪術師と私』などの内容やら「カルロス・カスタネダ」について吟味されているわけであるが、完全な事実に基づいて書かれてあるようではないようだ。本の中でも「カスタネダ」は大ウソつきとして登場しているわけで、ドン・ファンからもその点を指摘されている。しかし「登場人物」が本人の実際と違うからといって、「ドン・ファンの教えの内容」まで疑うことはないような気もする。「履歴を消せ」「自尊心を無くせ」「びったりと引っ付くな、謎を残せ」(だったか?)とかあるわけだから、わざと自分自身をぼかしたのかもしれない(?)。

 もし、カスタネダの本が全てフィクションだとしても、それでも我が輩は読むに十分値すると思う。資料と、観念の力だけで、あれだけの著作物が書けるとしたら奇跡であり(無理だ)、あれは絶対に何らかの「ドン・ファン」の弟子になっていたものと思われる。単なるフィクションにしては、あまりにも「実際に見てきたこと」が書かれてあるからであり、同じようにな小説を書いていた我が輩からして(全然日の目をみないが)、情景や心理の描写、細かい点など、体験しなければ書けないことが多すぎる。

 「作られた履歴」によると、1935年ブラジル生まれであるが、実際は1925年アンデスのカハマルカ生まれであるようだ。10歳違うわけで、つまり「ドン・ファン」に出会ったのは青年ではなく、中年の時ということになるが、これも弟子として教えを受け、感銘し、心理的葛藤するには若い方が好都合ということか。ただ「インディアンは嘘をつかない」から、「騙された!」と憤る読者も多いかもしれないが、変に力を置かれてカスタネダの経歴を読むよりも、純粋に「ドン・ファンの教え」を読んでくれ、ということなのかもしれない。それでも主人公は作者の分身であることには違いない。

 そもそも、インディアンで我々の知の体系とは違った知識に溢れている「ドン・ファン」が、UCLAの学生である弟子の「カスタネダ」に実に詳細に丁寧に説明できること自体、何かおかしいとは思っていた。JINのごとき、明治以前の日本人と現代日本人が交流するようなもので(『JIN~仁』の時代の人々 、恐ろしく高い障壁があるはずなのに、「よくもまあ、ドン・ファンは彼に概念を説明できるな」、とは思ってはいた。やはり作者が概念をかみ砕いていたわけである。

 とはいえ、古代メキシコの呪術的世界は、我が輩にとって実に興味深い世界であるのだわい(夢見を頑張り続けます)
 

ヤクザなブログ

2011-05-03 05:59:56 | 考えるインディオ
  あまりに疲れていて眠りが深すぎると夢を見ないような気もする。夢見もやはり、Rapid Eye Movements(レム睡眠)という眼球が動きまくる、脳が覚醒している現象なのかもしれない。

 それにしても、アクセス検索では「宙に浮く夢」が結構あるのである。誰しも奇怪な夢に、謎を解こうと試みているものと思われます(役に立たなくてすみません)

 このブログにもちょこちょこ具体的な夢が書かれてあるが、個人的な備忘録であるから、何でもありである。足かけ四年、膨大な数の記事(930!)を書いたが、最近は経済やら小説関連の記事もなくなり、風向きは古代メキシコの呪術世界ヘ流れ、風見鶏はそっちの方向へ向いているわけである(少し修行しているか?)。

 「小説家になろう!」なブログでもあったわけで、実際に過去、な観念論的小説を書いていたわけであるが、やはりもっと夢とかリアルな体験とか書いた方が健康的であり、そっちの方が売れると思う。「内的対話」(頭の中で果てしなく自問自答する)を続けていても、幸せになれないだろうし、「受けた」(売れた)としても頭がおかしくなるだろう。無限である世界の中で、檻の中にこもり、自己満足に浸るわけである(?)。カスタネダ的解釈としては、「小説家になろう!」=「イーグルの餌になろう!」であるからして、恐ろしい行為であるには違いない。

 何事にもこだわらないでいようと思いつつも、実際はいろいろしがみついているわけで、固執しやすいタイプなのかもしれない。別に毎回、カスタネダの記事やら夢見で埋める必要はないのだが、まあ、今はそれしか浮かばないわけなのである(単純なのである)。震災やら原発問題、それなのに1ドル81円台、ワーキングプア社会の激化…。世相は悪化しているが、どうなるものでもない。なるようになるのである。

 一部の人間は、「気づいて」「行動している」わけで、ぐだぐだ考え、悩んだりしていないだろう。このブログ主のように。

 みんな打開策を求めて動いている。人間は見ようとしているものしか見えない。自分を映し出している。とするなら、自分の器以上のことは、知覚しえないというわけか…。