インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

『パピヨン』田口ランディ

2015-02-19 18:42:15 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
  雅太がブログを書き始めて8年になろうとしていた。思い返せば、最初の頃はアクセス数や閲覧数をいかに獲得するか躍起になっていたところもあったが、今では逆にアクセスが少ない方が安心する部分があった。更新しない日もニュース天気予報のついでに、昨日のアクセス動向だけをチェックしたりする。「おお、減っている減っている」と拍手するわけである。1日1000の閲覧があれば一体誰が雅太のブログを弄っているのか、まさか、、」といらぬ心配をするわけで、雅太の個人情報が少なからず掲載されているわけでから仕方あるまい。

 さて、雅太は7年前にこのブログでも書いた覚えのある、田口ランディの本を読んだ。10年以上前に読んだ『コンセント』はシャーマニズムについて書かれてあり、沖縄のユタにつながっていた。当時、すでにオカルトに傾倒していた雅太の心をガツンと打ったのだが、その一発だけだった。ゆえに、桐野夏生のように何度もブログには登場していない。ただ、これはそれ以来、読まされた代物だったかもしれぬ。かなり良かった。

パピヨン
田口ランディ
角川学芸出版


  これも雅太が思うに、作者自身について書かれてある事柄だったからに違いない。著者の父親が癌で死ぬのだが、その死をエリザベス、キューブラー・ロスの人と思想に混ぜ合わせて、描写しているというわけである。「ユダヤ人収容所の壁に描かれた蝶はどこへ?」とミステリー風に話は進展していく。その中でも心を打ったのは、アル中だった父親の死に至るまでの赤裸々な描写だった。

 人間は根本においては同じである。未だに健康な両親を持つ雅太も、いずれ、こういう時が来るのだろうか、と不安や恐怖、切ない思いで、感情移入していくわけである。親の死を看取る。これは育ててもらった子供の、一大イベントである。今はこない。しかし、必ずいつか来る。そう考えれば、やはり、雅太も、機会があれば実家に戻り、今のうちにしておこうではないか、という発想になるわけである。

 雅太は可愛がられて育ったため、親に対する怨恨というものがほとんどないが、逆に甘やかされて育ったがために、社会に出てから修行が始まったわけである。元々の性格がいい加減であるがゆえに、叱ってもらわねばならぬ、親の叱り方が足らなかったわけである。

 さて、「死」というのは重いテーマである。観念的には消えて無くなるだけだが、肉体的な苦しみが尋常ならざるを得ないからだろう。雅太は歯が痛いだけでも気が狂いそうなのに、癌とか論外である。親戚が癌で亡くなった様子を聞かされると、金に糸目をつけず注ぎ込むわけで、余程のことなのである。

 本人が癌になったら、自我の強さから、全く違った文章が展開されるのかもしれない。

 物書きをしながらシャーマンになりたいという著者は、結構親近者を題材としているし、表現からしてかなり頑固者のように思われる。表現が押し付けがましいと、受け取る読者もいるだろう。父親が「小暴君」であれば、娘は大概父に似るというので、そうなのか。そういえば、ロスの人生が語られているが、あまり幸せには思われず、ロスの親父も何か経営者らしく、やはり独裁的で、頑固者だったのだろうか。

 親を見て、子供を分析する。雅太自身も、明らかに受け継いでいるところもあるし、「親の責任で生まれた」のだから、やっぱしそうなるのも仕方がないか、と思うのであった。

 

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