インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

田舎の空気に包まれて

2014-05-25 21:09:17 | 身の回り
  田舎の実家に戻った雅太は、久々に森林浴を満喫した。緑の中に身を潜めると、心が鎮まる。背後から山水が流れ、頭上では山桜の青葉が天蓋となって、風に揺れている。

 椅子に座った雅太は、いつものごとく、人生を鳥瞰するのである。親も年をとったし、自分も次第にそうなって行くわけで、出来るならば、これからは喧騒な都会を離れ、ひっそりと余生を過ごしたい、とノート片手に、ボールペンで、あれこれ記したりするわけである。

 年金暮らしの老人ばかりな山奥で、いかに若者、いや、中年男が生計を立てるかということになるが、それも、ひとえに、当人の「個人的な力」、ということにでもなろうか。それが運というものか。

 さて、故郷に戻れば、親はもちろん、独特の空気、自分の部屋、悠久とした自然の流れが待ち受けており、ああ、都会での修行は終わったのだなぁ、と錯覚に襲われる。が、年金生活まで後果てしなく長いわけで、修行の日々は続くのであろう。雅太の前に、小暴君が現れるのか。
 
 帰りの温泉で疲れた雅太は、これから夜の部の修行、夢見につかんとするのであった。

呪いの絵

2014-05-08 13:53:18 | 身の回り
 雅太は木曜日が休みで、昼過ぎに近くの産地直売の農協の野菜売り場にでもいって、ビタミンを補給しようとアパートをでる。キーケースのキーがこんがらがり、知恵の輪を解くのに時間がかかる。アパートのエントランスのところで、何やらカードのようなものが落ちており、大勢の住民に踏まれたのか知らぬが、背面の白が薄汚れている。蹴飛ばしてやろうと思った雅太だったが、ひょっとしてポイントカードでも落としたのかもしれぬと、汚ならしいカードを拾って、ひっくり返して見ると昇天した。それは雅太の名前がきっちりと刻まれている社員証だったのである! 

 雅太は愕然とした。己の社員証が、江戸時代の踏み絵のごとき状態になっていたとは。多分、深夜に帰宅した際、誤って落としたに違いない。雅太が回想するに、昨夜は休み前とあって遠征し、閉店間際まで、みはらし温泉のサウナで粘っていた。睡魔と闘い、朦朧とした状態で尾道へ戻ったのだが、まさか、踏み散らかされていようとは。ひょっとしてサウナで放映していた「呪いの絵」に気を奪われた影響かもしれぬと思ったりする.確か世界衝撃映像の番組で、ムンクのお叫びを10倍怖くした、己の血で書き、書き上げた後に自殺したという絵のようだ。そんなものを全国放送で流しても良いものか、と思いつつ雅太はサウナで金縛りにあったように見続けていたのであった。

 ブログを綴りながら雅太はイチゴをほおばる。遠方から仕入れたものと違い、地産地消の野菜果物は鮮度や味が全然違う。こんな馬鹿ウマなイチゴを売るのは反則だと思いながら、悪夢を忘れ、雅太はささやかな幸せを感じるのであった。

 

部屋の夢

2014-05-07 07:18:00 | 身の回り
  刺身を食べながら、雅太は今朝の夢について回想する。一度寝て起き、念入りにマジカルパスをした後、靴下を二枚はき再び眠りに就いた。クッションマッサージで足の裏をマッサージしているうちに、意識が消えた。

 雅太は体がかすかに震え、浮遊しているのを感じた。瞬間、起き上がった.雅太はそれは夢見の体であることが薄々分かり、さっそくどこか行こうと壁に向かう。以前ぶつかった感覚があったが、今回は突き抜けた。どこかへ行こうという目的意識が薄かったのか、ふらふらと商店街をさまよった。横浜の方のレコードショップのネオンがあり、踊り場のような建物がある。そこら辺から、普通の夢に移行したような感があり、車の中で横たわっていると雨が漏ったり、雅太を含めた3人ぐらいの部屋の比較とか、奇妙な世界に飲み込まれて行った.

 雅太は固いカリフラワーを噛みながら、きっとあの夢は暗示に違いない、と確信する。「夢の中にでてきた部屋は、あなたの現状を映し出している」等々、夢占いの本にでている。確か、雅太の部屋は成功者の部屋と比較して、サービス精神に欠け、雑然としている。隣の部屋は雅太が中に入れていたウオーターサーバーを出入り口に出し、外部の人が飲めるように置かれている。それと同時に、部屋の中がすっきりしているという塩梅だ。

 またその向こうの部屋では、引っ越してしまったかのごとく、モノが何も無く、それでいて、アンティークな敷物があり、すっきりとくつろげる雰囲気である.そこへはポツリと宅配があり、親への贈り物、魂に心地良い枕のようなものが準備されていた。素晴らしき成功者の部屋として、中年女性が解説しているのだ。成功者としてテレビなどで活躍している若者の部屋らしい。

 雅太は短時間で一週間ぐらいの人生経験をしたような夢を見たのだった。

予知夢

2014-05-05 06:54:42 | 身の回り
   雅太はパセリをウサギのように咀嚼しながら、ブログを書き始めた。毎日鮮明な夢を見るのだが、書き留めておかないとシャボン玉のごとく弾けてしまう。今朝は正に記憶すべきことが弾けてしまった感があり、マジカルパスをせずに寝たのが悪かったのかと思ったりする.そんな夢まみれの雅太であったが、一昨日、夢日記に書き留めておいたことが、三分の一、いやほんのさわりだけ、なぞった。職場の応援に来たのが夢の通りの青年で、雅太が夢の通りに皆に紹介したという内容である.応援は別の青年が来ると思っていたのだが、まさか夢の通りになるとは、雅太は驚かされた。

 「予知夢」だったのかと雅太は首を傾げる。これまで雅太の見た夢の中では、かなりストレートで、実用的な部類に入るであろう.そもそも、夢は間接的な暗示で、空を飛んだり、ゴキブリがでてきたり、何かの象徴を「ひょっとしてあれでは…」と勘ぐるわけである。それが直接そのままであるならば、ノストラダムスの予言のごとき、無理矢理解釈したりする必要もなくなり、便利きわまりないであろう.

 しかしそんな予知夢など早々起こらない。何故かと雅太は棚から本を漁って見ると、「なぜ未来は人間から隠されるのですか」という問いに偶然出くわした。『霊の書』(アラン・カーデック)である。

  もし未来が人間に分かれば、人間は現在をおろそかにして、自由意志で行動しなくなる。本人はこう思う、これこれのことが起こるのなら、自我がかかり合う余地はないと。さもなくば、それの起こるのを回避しようとする。神はそうなることをお望みではない…

  …ただ人間を自由にしておいて、人間が自己の行為に責任を持つようにさせておく、ここに目的がおありだ…

  …ということであるらしい。雅太は手を叩いた.確かに、夢予知ばかり見てそれに従って動いていたら、もはや自分は自由な意識を持った人間ではなく、操り人形ではないか。たとえそれが望ましかったとしても、自分の意志で、自然な状態で導かれなければ、意味がないのかもしれぬ.

 生まれたことの意味が、意識のレベルを上げることにあるとすれば、それもうなずける。資本主義社会の中で、現代人は利益を、金を増やすことを目的としているのだが、本当の黄金は自分自身の意識であり、光り輝く卵であるとしたら。

 そこまで書いたところで、雅太はいくら言葉で良いことを書いても仕方が無い、本当に重要なのは実際の行為であり、修行である、今から出勤せねばならない、と思うのであった。

背伸びの人生

2014-05-02 06:44:47 | 身の回り
  雅太は、小さめのイカをタマネギ、豆腐、椎茸、油揚げ、卵と一緒に煮込み、味ぽんで仕上げて、朝食を作った.定番のメニューであり、みそ汁こそ無いが、ブロッコリーやパセリなども添え、栄養面では問題は無かった。問題なのは雅太の脳みそであり、それを築き上げたこれまでの生活スタイルということになるか.

 修行ということを意識すれば、どんな奈落の状態でも訓練場ということになり、それなりの意義があるだろう.しかし雅太の場合、単なる個人の執着、背伸びをしてでも覗いてみた世界、ということにでもなるか.まさに今では「古代メキシコの呪術的世界」というのが、それに相当するであろう。

 それは難関高校、難関大学、そして難関資格、難関試験へと発展し、さらには、作家への新人賞へと展開して行くのである。難しいものには価値があると思い込んでいたのは、雅太の無知と世間知らずによって育まれたのであろう。ど田舎で育ったがために新聞テレビの宣伝に流され、それが肉体労働者の無邪気な両親によって助長されたのかもしれぬ。さらに一人息子であったために、雅太は人一倍可愛がられ、甘やかされて育ったわけで、そのツケを、この十数年間、支払い続けているのかもしれぬ。

 ペーパーテスト、紙切れを読み書きするたぐいでは、キリンが首が長くなったように、高いところを見渡せるようになったのだが、実生活ではまだまだかもしれぬ.まだ背伸びをしているところがあるのだろう。ちょこっと夢の中で神秘体験をしたぐらいで、それがどうしたというのだ。実生活で神秘的なことがばんばん起こらねば、本物とはいえぬのではないか。

 そこまで考えたところで、雅太は出勤の支度をするのであった。

 

死ぬ前に…

2014-05-01 07:52:51 | 身の回り
  車検で大金が飛んだ雅太であるが、温泉通いを辞めたわけではなく、昨夜も遅くまでサウナで粘って、世界衝撃映像やらのテレビを見ていた。猛吹雪で飛行機が凍てつく川に墜落して生存者5名の映像に食い入った後、17度の水風呂に浸かりながら1度の川に30分もいるなんて死んでしまうだろうと考えたりする。

 目覚めたら、冷蔵庫に魚類がなく、雅太は、最近出費がかさむから買い物を控えていたのだと思い出し、実家の乾燥椎茸を煮込んで、馬鹿でかい椎茸に醤油をつけ、丸干しやらネーブル、ブロッコリーサツマイモなどと一緒に食べ始める.

 呪術の力で、果たして金の心配をしなくて良いようになるのかどうか分からぬが、確実に生活は昔より良くなっており、精神的にもより高いところから見ているように思われる。もはや雅太は死ぬときの訓練をしているのかもしれぬ。が、健康的生活を送っているので、色艶も良くまだまだ死ぬとは思われぬと思ったとき、こうなったら自営業でもやってみようかと思ったりする。

 雅太が十数年願望している「作家」というのも自営業であるが、所詮、出版社という他人のふんどしで土俵に登るわけである。土俵には沢山の作家が居るわけだから、用済みになったら、さよならということにもなろう。そんなに実力がある、売れる本が作れるのならば、営業は任せるというスタンスではなく、自分で作って自分で販売すれば、粗利が大きいというもので、それが自営業の醍醐味である。

 とはいえ、分業と協業の社会で、物書きは作家、売るのは営業と専門の人がやった方が効率が良い.作家になったからには、気が狂うほどパソコンの前にへばりついて、妄想やらアイデア、本からの引用を書き込まねばならず.その毎日の回転で、あっという間に人生が過ぎて行くのかもしれぬ。

 内的対話を止めねばならぬ雅太にとって、実に矛盾した行為であり、宇宙の波に逆らっているともいえよう.何か手がないものか。

 いや、実はあるのである。これからは高齢化社会であり、することに困る大勢の老人が発生するわけだ.雅太には2、3の大ヒットが予感されるビジネスアイデアがあった。フィクションを書いて出版社に持ち込むより、これの企画を持って行く方がよほど採用率が高く、世のため人のためになるであろうと思われるのだ。

 かくして休みである雅太は、アイデアをより具現化しようと思うのであった。