インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

点火した妄想が消えるまで

2013-02-24 11:12:47 | 身の回り
  妄想の炎がめらめらと燃えている。まさに小説を書きながら、自我意識と戦っているわけである。

  そもそも何も書かなければ、自問自答、内的対話をする必要がないわけであるが、何かまだまだ自分の中で決着がついていないのである。

 「知覚の限界を探るための物語」であるが、もっともっとリアリティやら衝撃がなくてはならない。

  小説の内容は、神秘主義、オカルトであり、さらにその謎を解明するための、ミステリーである。

  恐怖が、死が、主人公を急き立て、彼は新しい境地に持っていかれるわけである。

  その意味では、ホラー小説を書こうとしているのかも知れない。ずっと前から理想としている小説のモデルは『リング』だし…。

  一昨年前から構想は練り続けています(昨年の4月『書いている物語の傾向』から、あすなろ状態です)

  理性的にはどう考えてもありえない、「非有機的存在」をいかに納得できるように織り込めることができるのか。

 「呪術師(=超能力者)」のパワーを、「何を、どのように、どれだけ」登場人物に背負わせるのか。

  リアリティというのは、活動する際の「制約条件」なのかもしれない。

 まずは活躍する舞台をリアルに書いていくしかないわい(やはり瀬戸内地方ですか)

 昨年の取材の日々が生かされますね(え? また島か?)


『小説家の経営術』 ~破綻しないために~

2013-02-23 18:33:59 | 実用書
   
小説家の経営術 (経営者新書)
西川三郎
幻冬舎メディアコンサルティング


 昨夜は、泡盛を飲みすぎて苦しんだ。新しい小説を書くに当たり、面白い本を発見したので、今、読んでいるところだ。

 著者は、小説家であり、技術系派遣会社の経営者という異色の経歴をもち、その観点から、小説執筆法と、経営方法が非常に似ているので、応用できる、というわけである。

 なるほど、「優れた経営者は、結末からストーリーを描く」。作家でもプロとアマチュアの分水嶺はそこにあり、作家志願者は、結末が曖昧なままスタートする。「ストーリーが描ければ、独自性が生まれる」。ユニクロとかは、「おしゃれで安価で品質の良い衣類」を提供している。

  企業にとって、最も大切なのは「テーマ」。 同様に、小説でも最も重要なのはテーマであり、それが作家が「ストーリーを描く動機」ともいえる。経営したり、書いていて分からなくなったら、原点にあったテーマを取り戻す。しかも、起承転結の「転」があるから、会社も小説も、成長できる。ストーリーは、構成要素であるキャラクターが自律的に動き出すのが理想…。

 なるほど、それならば「人生」というのも同じかもしれない。結末は、「都会のアパートで無縁仏」になるか、「田舎で家族とまったりと暮らす」か…。無限に立ち向かう呪術師となって「最後の旅に出る」のか…。

 さて、「小説家」だけでなく、「経営者」に必要な発想は、次の5つである。

 ① ストーリーの初期設定<テーマ>  主人公を動かすために、必要となる条件。

   ・テーマ  主人公の行動の核となる姿勢やあり方。
   ・ビジョン 主人公の目標、そのイメージ。
   ・貫通行動 主人公の一貫する行動規範。
   ・枷    主人公の行動に対する制約。

 ② オリジナリティをつくる<独自性> 
  主人公の全体像が決まれば、その行動の実態が見えてくる。行動にはある種の独自性が求められる。
  行動の独自性とは、主人公の独自性であり、企業経営で考えれば、ビジネスの独自性にもつながる。

   ・オリジナリティ  主人公の特徴や優位性。
   ・舞台       主人公や登場人物が行動する場所、世界に対する意識。
   ・モチーフ     主人公の動機、行動するための題材。



 ③ ストーリーを構成する<起承転結>
  主人公の行動が見えてくると、ストーリーは動き始める。しかし無計画な動きはすぐに破綻する。そのために必要なのが、構成。

  起; ストーリーの導入部(主人公、舞台、モチーフの決定)
  
  承; ストーリーの発展部(展開への準備)
  
  転; ストーリーの展開部(テーマの発現・強化)
  
  結; ストーリーの結論部(ビジョンの実現)


 ④ より細部を描く<想像力>
  ストーリーの概要を描くことは、事業計画や経営戦略でも行われるが、この「経営=小説」手法で、もっとも際立つのがこの点である。
  細部の緻密な配慮がなければ、人を見極めることも、動かすこともできない。

  ・登場人物       人を見極め配置する。
  ・キャラクターの設定  すべての人物を立体的にイメージする。

 ⑤ キャラクターを育てる<人材育成>
  ポテンシャルのある人材は、磨き方次第で自主的に行動を起こし、新しいストーリーを紡ぎ始める。

 …といった具合である。

 物語の構成がでたらめであれば、読者は安心して読むことができないし、お客・取引先は安心して付き合うことができない。

 さて、の書かんとする「新しい小説」であるが、

 ビジョンが一貫した小説にするならば、「ミステリー小説」などが一番であろう。吾輩が目指している小説はといえば…、

 内的対話をして自我意識が暴れている主人公→ 内的沈黙が保たれ、見る者になる(目が輝いています)

 …ということになるのであろうが、最初の段階で、主人公は「人間的成長への道を間違えていた」ということか。

 人間は誰しも、今の「知覚の限界」を超えたいと思っている。もっと凄い体験をしたいのだ。

 そのために麻薬に手を出したりするのであるが、一時的でしかない。夢見で、得体の知れない世界を体験したら、「ちょっと待てよ、こんな世界が存在するのなら、生き方を変えてみようか」、とか思うのだが、現実はがっちりとシステムが固められてある。

 「見る者になる」というエンディングは、読後のカタルシスとしては良いのかもしれない。リアリティはともかく(現実問題、吾輩は人間を輝く卵として見たことがない)。

 癒せるかどうかは、最初の設定次第だろう。見ることを目指すキャラクターが、勝手にそのように動いてくれるように仕向けるのだ。

 さあ、物語を練ろう!  

 『無限の本質』でも詩や物語が進められているのだわい(小説の原点は、詩です)


 物語を語ることは、自分たちの知覚の限界を探らせ斥候役を送ることになるばかりでなく、完璧さへ、力へ、精霊へと至る道でもあるのだ。
 


  

 

新しい小説

2013-02-22 18:37:14 | 映画や小説、テレビなど
 これからは、「沈黙の中で書かれた文章」を尊重していこうと思う…と、先週書いたわけであるが、そんな小説が面白いわけがない。

 となると、夢見の暗記力に頼るしかない。

 先日また、物凄く面白い夢を見て、「これをそのまま写せば売れるに違いない!」と思ったが、やはり細かくは覚えていられなかったわい(ヒントにはなったかも)

 やはり、小説の基本は、プロットを作って、登場人物を細かく考えておいて、書いていくことだろう。

 ただ冷静過ぎると、小説を書くのでさえ、「そんな自己満足をしたいのか?」ということになり、筆が進まない。

 カスタネダなど色んな本を読んでインプットしたことの結果としては、やはり「小説形式」が一番面白いのであるし、自分自身、一番興味がある。

 たとえ売れなかったとしても(?)、書くことによってアウトプットすれば、より深いレベルで消化できるであろう。

 脳みそを小説モードにするためには、これが一番である。

 

 ついに開封しましたね(禁断の麻薬を使うのですね)

 主人公は最初はボロボロになっている状態である。そこから立ち直っていくわけである(実地で行くか?)。
 
 一応、主人公と敵役、協力者と、骨子を作っているのだが、ここが一番重要なところで、

 多分、小説というのはスタート段階で、すべてが決定しているのだろう。

 「人間から神秘的な力を奪う、自我意識、それと闘う、戦士の話」

 何か泡盛がまわってきた。

 ガソリンが入ったので、自意識で太ったイモムシが再び動き始めた。

 物語を書こう!


 起; イモムシ動き出す。

 承; イモムシ盛んに暴れる。

 転; 意志が現れ、イモムシの上に乗っかかる。

 結; イモムシの動きは止まった。

 
 何かこれまでとは逆のパターンの小説のような気もするが

 追い詰められた人間というのは、「意志の力」によって「奇跡的に」救われるしかない。

 意志の力がどれほど凄いかというのは…

  この小説を出版化して証明するしかないわい(果たして奇跡は起こるのか)

 


自我意識との戦い

2013-02-17 17:18:22 | 考えるインディオ
  体調が悪くて、眠っていた。ここ一ヶ月、健康状態がすっきりしないが、それも色々考え事をしているからかもしれない。

 「戦士の闘いとは、人間から力を奪う、自我意識との戦いである」というわけであるが、人生を「反復」したりする時に、当時の音楽を聴くのだが、自我意識がメラメラと燃え上がってしまう。

 たとえば、「作家になろうと投稿していた時期」は、頭が妄想モードになっていたのであるが、それが甦ってきたりする。音楽というのは、自我意識を掻き立てる代物なのかもしれない。そしてもちろん、執筆というのは、自我意識を書き連ねる行為であり、自我意識が肥大化していき、勝手に自己陶酔したりするわけである。

 面白ければ読者は付いてくるだろうが、書き手の精神状態は異常をきたしてくるだろう。文筆業というものはそういうものかもしれない。自殺者も多いし。

 こうやってブログを書いているのも、「自我意識=自惚れや自己憐憫」がまだまだ残っているからであろう。単なる備忘録でなく、誰かが読んでくれるのを期待している。他人のブログなど、長文ならば飛ばして読むのが普通だが。

 「面白いことを書け」「何かで笑わしてくれ」というのが、読み手の本音なのであろう。そして、自分もそれを目指していたのであるが、何か趣向が変わってきた。

 「ガツンと意識を変えさせてくれ」「この太った自我意識を何とかしてくれ」というのが、今の我輩の本音である。

  カルロス・カスタネダやドン・ミゲル・ルイスなどがそれに応えてくれている。

  吾輩の意識を例えるならば、大地を這っている巨大なイモムシのようなものであったのだが、カスタネダの本の重みによって、ぶちっと、潰されてしまったのである。

  イーグルの圧力が、意志の力が、イモムシの動きを止めた。つまり、妄想小説が書けなくなったのかもしれない。
  
  踊りや神々、音楽、芸術といったものは、より高いものと接続するときの、ほんのカケラに過ぎない。

  これからは、「沈黙の中で書かれた文章」を尊重していこうと思う。

  夢の出来事か、神秘体験か、カスタネダの文章の援用か。このブログ自体が「自我意識との戦い」なのだわい(この猫は「自惚れ」の象徴ですね)

  では僕は「自己憐憫」の象徴なのですか(そろそろ消されるのですね)

夢の中で走る

2013-02-16 08:56:08 | 潜在意識の世界
  どんな些細な夢でも、何か自分を知る手掛かりになると思う。昨夜はサウナに行ったせいか、爆睡した。小説を読むよりも面白いような世界を体験したのである。

  ひたすら走っているような夢だった。なぜだか、田舎の家から、高校のある都会まで、20キロぐらい走り続けようと意図していた。ほとんどシャツ一枚で、最初は裸足でアスファルトを走っていたが、これでは幾ら何でもと、マンテンを履いて走った。スタートしてすぐに財布を忘れていると気づき、取りに戻る。5000円札が一枚入っていた。

 肉体がない夢の状態は無理が可能で、幾らでも走ることができた。裸足でもOKだったのだろうが、「理性」が履かせ、お金まで取りに戻らせたのである。

 果てしない田舎の道路を走っていると、一冊のノベル式の分厚い小説を拾った。読みながら?走り、半分以上読んだ。途中で結構開けた場所があり、道が枝分かれしていた。パチンコ店とか閉店にはなっていたが、幾人かが裏道を歩いていて、それについて行った。道がわからなくなり、おばあさんに尋ねると、まだまだ遠いのでタクシーで行くべきだという(料金も細かく教えてくれた)。

 いや、自分は走りたいのです、と果てしなく続く左右が緑の道路をせっせと走り続けた。

 苦労したがるタイプの人間がいるが、まさに吾輩はその典型か(何のために5000円札を持っている)

 途中で姉が現れたり、田舎暮らしを目指している若者に出会ったりした。走っているうちに、目的地がぼんやりしてきた。ある人に出会うのが目的だったのか、それとも読み捨てた小説に何か重要なことがあったのか…。

 走れ! というのが、意志、イーグルの命令なのかもしれない。


  夢占いを調べてみました(悪くはないようです)

 <走る>パワーがなくては走れないように、自分の中に気力や体力があふれていることをあらわす夢です。気持ち良く走る夢を見たら、目的をやり遂げるだけの実力が身についているていると考えていいでしょう。<走ってもゴールに着かない>自体が好転しないのは、やり方を間違っているのかも。見直してみて。(マリィ・プリマヴェラ)

 走る夢は、生命エネルギーの高まりや、気力と体力の充実を意味します。また、「こうしたい、こうなりたい」といった、目標や願望に対する意欲の表れとも言えます。軽快に走る夢は、理想とする未来に近づきつつあることを示しています。<仕事>目的もなく走り回る夢は、期限に間に合わないなど、焦る心の反映。ライバルへの対抗意識が高まっていることもあります。(夢事典)

 

 

夢が矛盾を暴く?

2013-02-14 07:18:27 | 潜在意識の世界
  昨夜は結構ショッキングな夢を見た。一枚の紙切れ(エリート職の最終合格通知)が来て、これで人生が安泰だと、ホッとしていた自分がいた。今のように、明日はどうなるかわからないような、ところとは、程遠いような…。

 朝起きて身動きが取れなかった。もしそうなっていたら、今はどうなっていたのだろうか。もちろん、「インディオ通信」など書いていなかっただろう。というか、小説を書いたり、呪術の訓練?をしたりしていなかったに違いない。家族を作って、マイホームパパな幸せを享受していたり。いや、ドロップアウトして、やはりこうなっていたのかもしれないが…。

 言葉にはならない複雑な感情に襲われ、無意識のうちに今のアウトローな人生を否定しているのかもしれない。

 やはり世間の目からすれば、個人の評価は、所属する組織の力とか給料水準ということになり、一定レベルをクリアできないと、結婚すらままならない。

 吾輩は生活できればどうでもいいと思うのであるが、そう思うのは少数派であろう。現実問題、信用力がなければ、不動産物件すら貸してもらえない。

 「喜んでお貸ししますよ~」と「払ってくれるのかしら」という相手で、どっちを選ぶかといえば、言わずもがな。

 夢は「最大の娯楽」であると思うのだが、こんな潜在意識を見させられれば、「やっぱり普通に生きたがっている」のかもしれない。

 このブログを書くのも、矛盾だらけなので、心が痛んでくるのだわい(信用力がありません)

 早く印税生活ができるようになってください(え? 人気商売から遠い?) 

 

動物と前兆

2013-02-11 07:20:01 | 身の回り
精霊の顕示について。

 インディアン世界で、ジャガーやワシなど動物を神と崇める理由が分かってきた。

 つまり、前兆である。

 吾輩も徐々にではあるが感じ始めた。

 毎日通る場所で、カラスとかもろに見ると、ちょっと風変わりなことが起こる。

 昨日は二匹のハヤブサが飛翔したが(かなり珍しい)、かなりショッキングな出来事が起こった。

 意志(イーグル)と自分との繋がりを、運んでくれるというのが、ほかの動物ということになるのか。

 もちろん、人間も動物であるが(あらゆる生き物は神ですね)

夢見こそ、最高の娯楽なり

2013-02-10 10:49:22 | 考えるインディオ
  昨夜は体外離脱はしなかったが、面白い夢を見ることができた。夢を見たら頭がすっきりする。

  悪いものを排出した、頭が浄化された感じ。

  「夢を見る」というのが最高のストレス解消法であるということに、最近ようやく気づいた。


  「読書をする」というのは、本の種類にもよるのだろうが、カスタネダ・シリーズとかは理解するまでにはストレスがたまる。

  このブログにしても、そのカスタネダ関係をかいつまんでいたりするので、な呪術用語でストレスがたまるかも。

  そうなると、大勢に読まれるわけがないが、

  このブログはかなり個人的な事柄もあり、そうなっては困る部分もあるので…(それでいいかも)。


  でもUPすれば、未だに訪問者が一気に増え、

  誰かが、ひょっとして吾輩の知っている誰かが、閲覧しているわけである(見てますよ)

  「本を読む」「音楽を聴く」「映画を観る」といった、ありふれたストレス解消法は、

 「夢を見る」ことの代償行為に思われてならない。

  カスタネダ用語でいえば(ストレスが溜まる?)、それらは「集合点の移動」を試みようとすることか。

  良い夢を見れたら、代償行為はあまり必要ない。体外離脱ができたら、爽快で、もう何もいらない。

  そのためには、自分の過去を「反復する」ことが必要だ。

  その過程で、底知れぬ虚しさを感じたり、涙が流れたり、感情がボロボロになったりするわけだ(人生によって異なる)。

  今夜も面白い夢が見たいものだわい(やはり夢は未明に多いですね)

  

  

現実逃避する場所は…

2013-02-09 12:12:30 | 考えるインディオ
今日の瀬戸内地方は寒く、田舎には戻らない。しばらく人生を反復していたら、何か虚しい気分に襲われた。

 こうやってインターネットをやる、映画を観る、音楽を聴く、はてまた酒を飲んだりする、多くの行為は、「現実逃避」である。

 と、同時に、堅苦しい「理性」の鎧を脱ぎ捨てようと従っているのかもしれない。


 ついさっきまで読んでいたのだが(カスタネダの『意識の回帰』)、世界は矛盾だらけで、「相反する命題」から成り立っているようだ。

 つまり、「見る者」は、「秩序だった理性的な者、冷静さの権化でなければならない」と同時に、「存在の不思議と謎に対して開かれているように、そうした性質を避けなければならない」。

 日常生活の意識(第一の注意力)を輝かせ、さらに夢や得体の知れない次元の意識(第二の注意力)も輝かせなければならない。

 正気と狂気を両立させなければならないのである。


 狂気の触りが、音楽やら踊りやら酒やら麻薬ということになるのだろうが、第二の注意力は「もうひとつの正気」であるから、ちょっと次元が違うのであろう。

 前者に従って行動すれば結果はかなり怪しいが、「夢」やら「直観」を参考にすれば、未知の状況で上手く立ち回れたり…。



 そもそも今の社会状況、フリーター、非正規、失業者の低所得者だらけ。

 吾輩とて、将来のことを考えると、現実逃避したくなる。

 それでな世界にはまっているのかもしれない。

 そういう閲覧者も多いだろう。

 しかし逃げるわけには行かず、状況からして、むしろ積極的に「未知なこと」にチャレンジしなければならないのだ。

 しかし理性がそれにストップをかける。

 「既知のこと」に焦点を合わせさせ、「未知のこと」を遮断する。

 可能性はすぐそこにあるのだが、導いてくれる何かがないので、怖いのである。
 


 そもそも「意識」とは何か?

 カスタネダによると、人間は自ら意識しているのではなく、「意識させられている」という。

 すなわち、意識の起源は、自己の内部ではなく、自己の外部にある。

 宇宙の根源的な力(イーグル、意志、精霊、抽象、▽)が、外側から、そのイーグルの一部である人間(エネルギーの塊)に圧力をかけるから、意識が発生するというわけである。

 なるほど、周囲の状況が変われば、人間の意識は驚くほど変わってしまうのである。

 いや、周囲の状況が変わらなくても、イーグルは、果てしない「意識の暗い海」であるからして、

 これまでの全人生の潜在意識(過去世もあるかも)が、人間を勝手に、操り人形のように動かすのか。

 

 何を書いているのかわからなくなったが、

 第二の注意力という、日常生活とはかけ離れた意識に逃避?して、

 それを現実生活の未知の解決に導きたいということか(結局は、「直観力を鍛える」を遠まわしに言っただけだったり)

 

 

直観

2013-02-06 07:33:45 | 考えるインディオ
 毎日毎日、聖書のようにカスタネダを読んでいるのであるが、つまるところ、呪術というのは「直観力を磨く」ということに尽きるのかもしれない。

 その手段が、忍び寄りであり、夢見であり、内的沈黙である(カスタネダな呪術専門用語)。

 人間は、イーグルの放射物の一部であり、精霊のひとかけらである。宇宙にあまねく存在する偉大な力、イーグル、精霊の、単なる通り道である。

 しかし雑念が多すぎて、それで電波妨害されているわけである。

 いや、人間が新しい電波を発信し、それを受け取って、わかったような気になっているだけなのかもしれない。

「話し言葉」が世の中に無数にあって、それが飛び交っている。そのうち、いくつかを受け取って、参考にして、自分で考え始めるわけであろう。

 それが「内的対話」となって、「自分は物事を分かっているのだ、物知りなのだ」とか、逆に「勉強不足だ、だからダメなのだ」とか、グダグダと勝手に自己満足に浸ったり、自分を責めるのだろう。

 いくら勉強しても、運がなければ成功しないし、「運も実力のうち」である。

 直観が磨かれているというわけだ。

 つまり、精霊が発する「沈黙の言葉」を聴くだけの力がある。

 我輩などカスタネダのな専門用語を理解しようとしているが、

 「必要なのはエネルギーをためることだけで、学ぶことなど本当は何もない」

 というのが、本当のところなのかもしれない。



 

本日の通信記事~精霊~

2013-02-03 11:53:15 | 潜在意識の世界
  昨夜も熱が出て、汗をかいた。今、インフルエンザが流行っているらしいので、心配であるが(親父が罹ったようだ)、外出を減らし、栄養を摂り、しっかりと寝よう。

  そういえば、gooブログであるが、楽天銀行との取引が終わり、別の手段で支払う必要があるのであるが、また「決済パスワード」が問題になってきた(またブログのデザインが消えるのか)

 これが、1172個目の記事であり、閲覧者も最初の頃とはかなり変わっていると思われる。

 最初の頃は、「の小説家になろう日記」であったが、最近では、「備忘録」を通り過ぎて、「呪術師になるための訓練日記」になってしまっている。

 ただカスタネダによれば、「呪術=集合点を動かす」ための手順などなく、精霊はいつやってくるかわからないわけである。

 そもそも一体何のために呪術をやるのかといえば、精霊と自分との繋がりを強くするためで、別に個人的な利益のためではないのである(ナワールの世界では)。

 普通の人間の視点から見れば、役に立たないことに励んでいるということになるのかもしれない。

 物凄い呪術師ならば、病気を治したり、予言を的中させたり、前世を見れたりすることができるのだろう。しかもそれで金をとったりしないというわけだ。精霊の導くまま、どこでも生きていけるのだろう。

 我々普通の人間は、高いところから物事を見るというより、細かい所に神経を奪われている。

 ガソリンが150円近くになったとか、1ドルが92円になり、日経平均が11000円台になったとか、買い物券の200円が手に入ったとか、蓄えが今幾らあるとか、今から仕事だとか…。

 そういう中で、精霊、イーグルがばっと舞い降りてくるわけだ。

 クリスマスに夢見した光景が、未だに忘れられない。

 田んぼに立って、手のひらを見つめていた実在感は、現実のものと遜色なかった。

 今、この瞬間だって、夢なんじゃないのかな、と思ったりする。

 あっちの世界が本当で、こっちの世界が夢?

 細かいところに神経を奪われながら、こっちの世界が唯一の現実だと思い込んでいるだけだったり。

 


時は過ぎていく…

2013-02-02 19:44:41 | 考えるインディオ
  今日は暖かく過ごしやすかった。どうも体調がかんばしくなく、今日も何か熱っぽい。

 「反復」なる想起をしながら、昔の出来事を世相とともに思い返していた。10年なんて、一昔であり、あっという間の出来事である。時間感覚が変わってきているのか、小学生の頃の一週間が、今の一ヶ月のようなものなのかもしれない。

  1995年というのは、病気で、体力的にきつかった時期である。阪神大震災や地下鉄サリン事件とかもあり、世の中も暗かった。

  しかもモーツアルトの『レクイエム』を聴いていて過ごした。翌年は快調になったが。

  1年はたったの12ヶ月しかなく、1ヶ月は、今も着々と過ぎている。特に2000年に死んだ祖母の口癖「2月は逃げる、3月は去る」であり、あっという間に4月になっているだろう。

  20歳の頃は、40歳なんて全く考えられなかったが、時間は人間を「何処かへ」運んでいくわけである。

  50歳、60歳と、生きていればの話であるが、「ある状態へ」運ばれていくのだろう。

  人間、本来無一物で生まれてきて、何も持たずに死んでいく。

  ばりばり働かねばならない年齢であるが、「この状態は」…。

  60歳とか、70歳とか、死ぬ直前になって、ああすれば良かった、とならないようにしたいものだ。

  そういえば、昨年の四月に「人生という旅」という記事を書いたっけ。別府へ癒しに行ったのを思い出すが、今年もどこか、大自然に癒しを求めに行きたいものだ。

  まだ首輪がついており、自己憐憫に満ちている。まだまだ理性の力にすがろうとしている。

  今年は、集合点を固定させたいものだ(憐れみのない場所へ)。

  すると、目が輝き始めるのですね(今年こそ、覚醒してください)