インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

『パピヨン』田口ランディ

2015-02-19 18:42:15 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
  雅太がブログを書き始めて8年になろうとしていた。思い返せば、最初の頃はアクセス数や閲覧数をいかに獲得するか躍起になっていたところもあったが、今では逆にアクセスが少ない方が安心する部分があった。更新しない日もニュース天気予報のついでに、昨日のアクセス動向だけをチェックしたりする。「おお、減っている減っている」と拍手するわけである。1日1000の閲覧があれば一体誰が雅太のブログを弄っているのか、まさか、、」といらぬ心配をするわけで、雅太の個人情報が少なからず掲載されているわけでから仕方あるまい。

 さて、雅太は7年前にこのブログでも書いた覚えのある、田口ランディの本を読んだ。10年以上前に読んだ『コンセント』はシャーマニズムについて書かれてあり、沖縄のユタにつながっていた。当時、すでにオカルトに傾倒していた雅太の心をガツンと打ったのだが、その一発だけだった。ゆえに、桐野夏生のように何度もブログには登場していない。ただ、これはそれ以来、読まされた代物だったかもしれぬ。かなり良かった。

パピヨン
田口ランディ
角川学芸出版


  これも雅太が思うに、作者自身について書かれてある事柄だったからに違いない。著者の父親が癌で死ぬのだが、その死をエリザベス、キューブラー・ロスの人と思想に混ぜ合わせて、描写しているというわけである。「ユダヤ人収容所の壁に描かれた蝶はどこへ?」とミステリー風に話は進展していく。その中でも心を打ったのは、アル中だった父親の死に至るまでの赤裸々な描写だった。

 人間は根本においては同じである。未だに健康な両親を持つ雅太も、いずれ、こういう時が来るのだろうか、と不安や恐怖、切ない思いで、感情移入していくわけである。親の死を看取る。これは育ててもらった子供の、一大イベントである。今はこない。しかし、必ずいつか来る。そう考えれば、やはり、雅太も、機会があれば実家に戻り、今のうちにしておこうではないか、という発想になるわけである。

 雅太は可愛がられて育ったため、親に対する怨恨というものがほとんどないが、逆に甘やかされて育ったがために、社会に出てから修行が始まったわけである。元々の性格がいい加減であるがゆえに、叱ってもらわねばならぬ、親の叱り方が足らなかったわけである。

 さて、「死」というのは重いテーマである。観念的には消えて無くなるだけだが、肉体的な苦しみが尋常ならざるを得ないからだろう。雅太は歯が痛いだけでも気が狂いそうなのに、癌とか論外である。親戚が癌で亡くなった様子を聞かされると、金に糸目をつけず注ぎ込むわけで、余程のことなのである。

 本人が癌になったら、自我の強さから、全く違った文章が展開されるのかもしれない。

 物書きをしながらシャーマンになりたいという著者は、結構親近者を題材としているし、表現からしてかなり頑固者のように思われる。表現が押し付けがましいと、受け取る読者もいるだろう。父親が「小暴君」であれば、娘は大概父に似るというので、そうなのか。そういえば、ロスの人生が語られているが、あまり幸せには思われず、ロスの親父も何か経営者らしく、やはり独裁的で、頑固者だったのだろうか。

 親を見て、子供を分析する。雅太自身も、明らかに受け継いでいるところもあるし、「親の責任で生まれた」のだから、やっぱしそうなるのも仕方がないか、と思うのであった。

 

『そんなこと、気にするな』 桜井章一

2013-05-18 19:37:08 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 山奥の実家から戻ってきて、BOOK OFFで買った本を読んでいる(異様に面白いぞ)

 
そんなこと、気にするな (廣済堂新書)
桜井章一
廣済堂出版


 前にも述べたが、この作者は、ナワールに限りなく近いように思われる。読んでいる途中で、「おや、どっかで見たことがあるフレーズだぞ」とうのがバンバン出てくるわけだ。

 桜井さんがカスタネダを愛読していないならば、凄いことだ。

 ナワールの弟子になる代わりに、桜井さんの麻雀道場に通う手もあるかもしれない。

 大切なのは、いかに綺麗に勝負するか、とあり、勝ち負けは二の次である、という。

 現代では皆がカネを少しでも多く稼ごうとしたり、自分の評価を上げようと人を出し抜いたりずるがしこく立ち回っているが、何か違うというわけだ。

 より高いものを見ているのである。

  私はあえてあなたに言いたい。

  どうしても、何か成績を上げなければいけないことがあったら、卑怯な方法で点数を上げようとしないでほしい。

  麻雀でいえば、「綺麗に打ってかつ」ことは、この世の中、大変に難しいから、簡単には出来ないだろう。

  だとしたら、「きれいに打って負ける」覚悟で立派に生きてほしいのだ。

  これが実は一番難しいけれど大切だと気付いたら、あなたはきっといい人生を歩める。

  そのことを私は保証しよう。


  ということで、

  さっそく隣のなアルファポリスのバーナーの行列を外すのだわい(これまで有難うございました)
 

修羅場が人を磨く

2011-05-25 06:04:47 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 ナワールは全然見かけないが(当然か)、これだけ人間の数が多いわけだから、それに近い人間は結構いるのではないかと推測される。もっとも大勢は隠れているわけで(名乗り出るのも馬鹿らしい)、たまに魚のように姿を現すこともあるだろう。捕まえようとしても、もちろん逃げられるのであるが。

 人間を判断するには「その人が書いた言葉」よりも、「日常の行動」がものを言うわけであるが、あまりにも書かれた言葉が凄かったら、「言葉の羅列」に引き込まれる。そして彼は「現代の呪術師」であると推測されるのである。前にも出てきたが、まずそれっぽいのが、桜井章一せんせいである。「四人の男に拉致され、生き埋めにされた」りしたらしい(高レートの賭博で勝った逆恨みか)

修羅場が人を磨く (宝島社新書)
宝島社


 本書を読むに、「日本刀を突き付けながらの勝負」とか凄い実体験が最初にあるが、まあ、ふつうならばビビってしまうところであるが、そうではなく、逆に冷静さが冴えて、修羅場を乗り越えてしまうところに、カスタネダの本にある「人間の測り知れない能力」というものを考えさせられてしまう。

 もっとも、ヤクザとか実は臆病であり、弱気で逃げ腰な人間を執拗に追い回し、襲っているだけなのかもしれない(ヒグマと一緒か)。目を合わせても全然動じていない人間を見ると、「得体の知れない存在」(呪術師!?)として敬遠するだろう。怖い人間を直視して動じないどころか、喜ぶ人間もいるかもしれないが。ただ、我が輩のように外見がな感じであると、あんまり修羅場などに近寄らない方がいいかも知れん。

 それにしても、先日読んだ唯識論な本によれば、「修羅場」というものも、自分の頭の中が、ただそう判断するだけなのかもしれない。そこにはただ「状況」があるだけで、頑固な自分やらプライドやら価値観やらが、作りだしているだけなのかもしれない。ただそれはピラミッドの頂上というか、大した因果がなくて、苦労もない世界の話で、現実問題、「修羅場」は存在する。地震とか、津波とか、放射能とか、誰がどう見ても修羅場という世界か。

 巻き込まれないのが一番だが、この世に肉体を有して存在している以上、何らかの「修羅場」に巻き込まれる可能性があるわけで、食べ物がない、カネがない、仕事がない、病気で体が動かない…、現実とは闘いなのである。とするならば、「意識」は最高の武器なのか。修羅場に追い込まれれば、自分を守ってくれる最高のものは、多分、「高次の意識」なのであろう。もちろん、それはプラスな、肯定的な、意識であり、「ゲーム感覚」で楽しく蓄えている人間は最高に強いということになる。

 ということは、「自分自身を如何に呪術にかけることができるか?」それが呪術師であり、忍び寄りの術(考えうるあらゆる状況から最良のものを引き出すことを可能にしてくれる手順と態度)なのだろう。

 目の前にある修羅場、リアルな戦いの前に、「意識の戦い」(『インセプション』の世界か?)があり、戦略的には如何に潜在意識を理想的に配列するか、にかかってくるのだろう。到底不可能なことは、潜在意識でそうなっているから実現せず、まず「身近」で「できる」ことから攻めていくべきか。「覚醒、気づき、…」、とりあえず言葉で飽和させていくと…、少しは何かが違ってくるかもしれんわい(ひたすら自己洗脳ですね)

 

 

内田ボブさん ~インディアンな生き方~

2009-04-25 21:54:07 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 昨日は131人とまた戻ってくれたようだ(?)。書ける時に書かないとどうなるか分からないので、書ける時は一日に二度でも三度でも書くことにしよう(特技か?)。

 ビール一本飲んで、「鞆の浦」について調べていると、内田ボブというお方を発見した(こんな人がいたのか!)

 内田ボブさんは、2009年度ライブツアーの真っ只中だったらしいです(昨日鞆の浦でこんな催しがあったとは)

 詳しくはこちらをご覧になってください 内田ボブHomePage

  ヤポネシア

 
       
 彼の音楽にもヒットしました(かなり上手い!)

 彼の近くでジャンベを叩いている人が、インディオは羨ましく思った(あれぐらいなら、やれるか?)

 素人には無理だと思います(プロの伴奏です)  

 それにしても、自然と一体となって気楽に暮らしているヤポネシア人(本来の日本人)を歌ったものであろうが、

 演説するよりも、音楽で歌ったほうがよっぽど、心にぐっと来るし、

 何より頭ではなく、身体で説得される(ヤポネシア~

 感性の鋭い若者は、全員そんな彼に惹きつけられるに違いない

 非常に世間慣れしておられ、手玉に取られるかもしれないが(周りは全部、ひよっ子みたいなものか)

 何かしらインディオの長老、桜井章一さんを連想してしまう(同じカテゴリーに入れておこう)

 知っている人は知っているのだろうが、インディオは今日まで知らなかった(残念)

 大地と宇宙を繋ぐ「聖なる木」を、彼は実践しているようにも思われる。ぐだぐだと抽象的な言葉や形式ではなく、歌と音楽と踊りで働きかけて日本中を行脚する…(DNAを目覚めさせる?)。

 インディオは、内田ボブさんに心から祝福をいたします!!

気配を感じる!

2009-02-13 21:07:20 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 屁理屈を書きたくないが、書いているうちに、いつの間にか長くなってしまう。

 需要があるから、書くのだが、一体いつまで書くのか自分でも分からない。相手がほとんど分からない状態で書いているので、営業的な?内容は書きようがない。

 どうしても自分本位のブログになってしまうのである。

 しかしインディオ通信であるから??野生的に、読者の気配が感じられなければならない。

 桜井章一氏の本を読むと、「気配を感じとる力」について論じられてある。

 自分の生命を保つために、自分の気配を殺して獲物に近づく。相手だってその気配をかすかに感じでもしたら逃げ出してしまう。また天変地異などが近づけば動物が気配を感じて事前に避難を始めるという現象も多く出ている。文明を発達させた人間様は失ってしまったのかもしれないが、気配を感じる能力は、野生の動物には自然に備わったものなのだ。

 強い麻雀を打つためには、こうした動物的感覚が必要だ。実際、弟子たちを見渡しても、打てる者は気配を感じ取ることに長けている。それを予知能力というと大げさに聞えるかもしれないが、要は微妙な変化を見落とすことなく、それに対応できるか否かの問題なのである。

 小さな変化を見落としていれば、それは取り返しのつかない大きなうねりになってしまう。小さな燻りの段階で見つけて消し止めればどういうことのない火も、放っておけばボヤから大火へ燃え広がっていくようなものだ。気配を感じられる者は、ことがまだ小さいうちに対応し始末をつけられる。逆にいろんなことを面倒臭がり、後回しにしてしまうような性格の人は気配に敏感になれるわけがない…  『無敵の勝負論』より


 現代が資本主義のゲームであるとしたら、やはり麻雀と同じであるかもしれない。

 点棒の少ない人生を送るなら、気配を感じ取る能力が足らないからなのかもしれない。自分の気配ばかりを感じている=自己中心的な麻雀をやっているのかもしれない。

 麻雀も、営業も、やはり「気配」が重要。相手について気を配らねばならない。

 もちろん、このブログも、読者に気を配らなければならない。相手をインディアン予備軍と考え、インディアン的な文章を綴っていかなければならないのだが…、

 なかなかストライクが投げられない(何処へ行くかは、球にきいてくれ)

 暴投の連続です(レッドカードだらけです)

 ブログの世界に審判はいません(採点不可能!)

 大勢のインディアン予備軍に逃げられています(気配を感じて)

 すると残った読者は…(変な気配が…)

 あのー、ゴホゴホなブログはここですか(暇つぶしをさせて下さい)
 
 う~ん、確かに「ラビバトラ」関連から流れてくる読者が多いから、そうなのかもしれん。

 動物的な観察力を磨くためには…、、
 北山耕平さんの講演会でも行ってみよう(来週だわい)

桜井章一さんの考える「男の強さ」

2009-01-25 22:20:30 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 桜井章一さんの言葉は、かなり心に響くものがある。インディアンがまた話に出てくるので抜粋してみよう。今度は、『強さの奥義』青春出版社より。
 

 人に優しく、思いやりを持て、感情を豊かにしろ、これはみんな子供の頃に教わった単純な基本だ。単純な物事の中にこそ真理があると俺は思っている。それを大切にしている奴には、"自然な自信"というものが身についているね。

基本動作。この繰り返しが、自信を生むってことだな。

 桜井章一「強さ」ってなんだい?こうした素朴な疑問を投げかけられたら、まず逆を考えてみることだな。逆は弱さだろう。弱いってことは自分がまず困る。そして、何より人さまに迷惑をかけることになりはしないかい。

 肉体が弱ったら病気になる。精神が衰弱しても病気になる。いずれも弱さだ。とすると、誰かに面倒を見てもらうことになるよな。だからまず鉄則として、男は強くあらねばならないってことだよ。

 ところがだ、強さに対する勘違いをしている。強くなれば人に勝てるって。勝つために強くなろうとしていないかい?そこが俺のもっとも嫌うところだぜ。

 勝ちというのは、正義じゃないんだよ。たとえば、ずる賢い奴が四人集まって麻雀を打ったら、誰が勝つか?一番ずる賢い奴が勝つわけだよ。悪党が四人そろって悪党比べしたら誰が勝つの?一番の悪党が勝つんだろう。世の中には、そういう勝負が多いんだよ。政治でも経済でも、何でも悪い奴が勝つ。俺がプロの麻雀師を引退したのも、そうした勝負に飽き飽きしたからだったし、勝ち続けることに虚しさも感じたからね。

  じゃ、人に勝つためではない強さってなんだよ。大事なのは、強くあれば弱い者を補うことができるってことだ。強さを分け与えることができる。

 もっと分かりやすいのは、インディアン(ネイティブ・アメリカン)の勇者たちだよ。肉体、精神ともに強い男は狩りをして獲物をとってくる。それをまず最初にもっとも弱い者たちに与える。病気の人、女、子供。それから男たちが食べる。そうした掟を守ってきたわけだろう。

 現代はどうだい?インディアンを追い詰めた資本主義の亡者たちのやり方は逆だろう。権力を持つものに、すべてを差し出す仕組みになっているじゃねえか。集まる仕組みってのはつまり、分捕るってことだろうよ。

 その究極が戦争という分捕り合戦。経済戦争も受験戦争も、国家の戦争も根っこは同じ。だから勝った者に正義なんかありっこねえんだよ。

 男なら強さに価値をおけというのは、人に分け与えられる人間になれ、ということだよ。

 …男の強さとは、飲まれない、溺れない力、つまり、自分を律する力を持つことだよ。

 自分を律するとは、バランスをとることだね。重心が偏ったら、船は沈むだろう。心が偏ったら病気になる。パチンコ狂、仕事狂になる。だから自分を律するためにバランスをとりなさいということだな。それが強い男の条件なんだ。

 バランス感覚のある人を見ていると、再生能力があるよね。修正する力があり、再起、復活、よみがえる力がある。人生にはいろんなことがあるだろう。女にフラれたり、挫折したり。そんなことは誰にでも起こるよな。問題は、再起、復活できるかどうかだろう。それが再生能力だよ。


 やはり本当に強い男は獲物をとって来て、弱者に分け与えなければならないのだ。

 今の金を稼ぐ男「社長」は、収益を従業員(全部が弱者か?)に分け与え、国家に税金を差し出してはいるのだろうが…、もっと強い男「株主」「親会社」がいたりするから、自分を守らねばならないのか??

 会社(=社長=男?)は強くなければならない。

 倒産して迷惑をかけないために会社を強くする必要がある。だから自己資本の増強、内部留保を減らしてはいけない、ということなのだろうが…、

 リストラ(特に非正規社員切り)で大勢の弱者を切り捨てるのは、いかがなものか。


桜井章一さんは超能力者か?

2009-01-24 18:32:39 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 インディオはそれほど若くはないが、経験を積んだ60過ぎの年配者から見れば、赤子のようなものである。

 『雀鬼 無敵の勝負論』桜井章一(青春出版社)なる本を見つけた

 20年無敗だったというから、超能力があるには違いない(麻雀の代打ち=命がけ)

 インディオは賭け麻雀などやるはずはないが、中国ではそこらの小学生でもやっているようだ。

 ふつう、麻雀で勝ち続けるというのはありえない。最初の配牌でほぼ決まるからだ(ポーカーもそうだ。人生もそうか…)。

 将棋と違い、プロだって素人に負ける世界だから、超能力でもない限り、勝ち続けられない。

 それにしても… 

 善人とは思われない外見だわい(朱に交わったせいか?)

 だが、著作物を読んでみると、これがなかなか、どっかのインディアンの長老みたいな考えを持っておられるのだ。

 桜井章一さんインタビュー参照

 彼は「約束は他人とではなく、自分とするもの」「良い約束は調和を生む」といい、

 今はもう掟といえるようなものもない社会になってしまった。インディアンといわれたアメリカの先住民にはちゃんと掟があった。そして彼らの掟とは、何よりも自然との調和を図るためのものであったはずだ。

 現代の法律や規制などは、結局のところ権力者が庶民を統治するために作った計略でしかない。正直、私はそうした決まりには馴染まないものを感じている。ネイティブ・アメリカンやオーストラリアのアボリジニーや北海道のアイヌなど、少数民族の掟は法律や制度のような人工的なものではなく、自然の摂理に従って生まれてきたものである。

 そこには仲間を導くよい指導者もいたはずだ。そしてその掟が厳しいものであったとすれば、それは何より彼らを取り巻く自然自体が厳しいものだからだろう。自然と結びついている掟には、私にも納得感がある。そして雀鬼流麻雀におけるペナルティは、そうした掟に通じるものとして設けているつもりだ。

 自然は自由そのものである。だから若い人を指導する中には、自然の感覚を入れていかなければならないと思う。政治経済や法律など人工的なものに縛られていては、我々は自然から、ということは自由から離れていってしまう。掟とは人間を自由に近づけるためのものでなくてはならないのだ…


 う~ん、かなり説得力がある。

 ただ、個人が自由に動くのが徹底的に許されるということは、能力の差が激しく拡大するということで、かなり不平等になってしまう

 桜井氏の言葉を解釈するなら、「自由」は、自然の調和が保てるための「掟」に従わなければならないということだろう。

 草食動物を食べ過ぎて、子孫を増やした猛獣・猛禽類は、そのうち餌がなくて苦しむようになる。

 現在の不況にも当てはまり、海外は売れるからと、どんどん製造し、輸出した企業は、今は…。

 ならば、「自然の掟」に従って経営していた会社は…、いや、株式会社という経済システム自体が、自然の掟に反しているのではないか??

「自由な市場経済」は、自然の理に適っていて価格決定とかは「神の見えざる手」とか呼ばれている(理論上)。

 しかし、実際は医療や福祉、保育・教育や公共サービスなどでは「自由な市場」は失敗するので、最初から政府が介入している。本当は食品とかも、自由競争をやれば、農村が持たない。都会でも貧乏であればろくな物が食えないし、安い毒の入った餃子もある。添加物や農薬の多い食品ばかりでは、将来、医療費も増大するだろう。

 そもそも食べ過ぎ自体、身体に良くない(カロリー制限すべき)。

 ラビ・バトラのプラウト経済とは、「自然の掟」に従う経済システム  …ってことかな。

  

6月10日 …シャーマニズム小説、『コンセント』 ②

2007-06-10 01:35:27 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 神職を募集していた。少し興味があるが、何か釈然としない。

 きっと神主(=シャーマン)なのに、民間企業と同じ採用方法だからかもしれない。
 小説『コンセント』にあるように、狂気の世界をさ迷った者を積極的に採用すべきではないか。

 たとえば、主人公ユキの兄。
「…どうしたらいいんだ。どうやって遮断すればいいんだ。なにもかもが入ってくる。共鳴してしまう。感情だ。世界は感情でできている。発狂する。侵入を止めるには、コンセントを抜くしかない。

 コンセントが抜けた。兄が消えた」(p257)

 その前に、発狂者は自殺するか精神病院に入れられるから、神職に応募できないが。

「人間は意識を高次へと覚醒させる前に、ある混乱状態に入ることがある」(p236)。
沖縄のユタになるには、それが通過儀礼だが、神主にはないのか。

 さて、話は小説に戻り、
 田口ランディは、その兄(=男全般?)の救済として、

「…すごい。なんて人間は自堕落で官能的な幻想に酔いしれることができるのだろう。
 あ、そうか。感応こそ官能なんだ。
 男は母親の胸に抱かれた幼児期の記憶に埋没し、退行していく。愛の記憶の再現は、周囲から大量のエネルギーを吸収し、男の精神に注ぎ込んでくる。どくどくとエネルギーが男を満たしていく。憎しみも悲しみも苦痛も押し流すほどだ。
 これが癒しの本質なのか」(p276)
 
 田口ランディが、エロ小説っぽく仕上げたのも、戦略があったのだろう。
 
  官能↑=感情↑…→ 精神錯乱 → シャーマニズム

 主人公ユキ(たぶん、田口ランディ…あんな生き様か?)が、現代のシャーマンとして目覚める話であるが…、
あんな業が深い女でも高次の意識に覚醒できるのか?(最後は娼婦になっているというオチがあるが)

 この小説のタイトル「コンセント」は、二重三重に意味が込められている。

 なかなか味わいのある本だ。







6月7日 …シャーマニズム小説、『コンセント』 ①

2007-06-07 00:42:41 | 田口ランディ、桜井章一、内田ボブ
 『コンセント』(2000)
 田口ランディ
 幻冬舎 ¥1500+税
 
 2002年に一度読み、5年後の今、読み返した。
 ややエロチックな小説であるが、読了後、胸にジ~ンと響いたものがあった。

 なかなかこんな小説にはお目にかかれないので、こんどは丁寧に深読みしてみた。

 兄の死をきっかけにして、主人公ユキが、女性シャーマンとして目覚めていく。
 引きこもりか、ニートとでも言うべき兄が、奇妙な自殺をした。
「兄はある日突然生きることを止めた」。
 その理由は? ヒントは、掃除機のコンセント。

 心理学教授の国貞、文化人類学の本田律子、精神科医の山岸が、案内役となる。
 
 ユキ「ねえ、シャーマンって、共同体の中のコンセントみたいな存在だって言ったわよね・・・・・」
  (略) 
 律子「シャーマンは、壁についている穴(コンセント)のほうね。その穴は見えざる世界と繋がっているわけ。そしてね、シャーマンを訪れる人は自分のプラグをコンセントに差し込むわけだよ。そうすると神様の世界と繋がることができる」
  (略)
 律子「コンセントって電気を使うときに必要でしょ? つまりエネルギー供給のための道具なんだよ。シャーマンの場合もね、生きるエネルギーを消耗しちゃった人たちがやってきてエネルギーをもらうわけ。かつて共同体にはそういう生命エネルギーの供給口になる存在がたくさんあったんだよ。人はパンのみに生きるにあらず。気力がなければ死んでしまう。人間が生きるためには何らかの霊的なエネルギーみたいなものが必要なんだと思うのよ」

 全体として、
  プラグとして廃れた男; 兄(ニート?)、木村(フリーカメラマン)、…
  コンセントとしての女; ユキ(あばずれシャーマン!)

 この対比が、性的描写を交えて、描かれている。

 インディオが思うに、確かにシャーマンはコンセントの役目であるかもしれないが、その背後には母なる大自然があるように思われる。

 大自然からエネルギーを受ければ、神様と繋がるのでは。
 
 きれいな海へ行って浅瀬にぷかぷか浮かんでいれば、「コンセント」に繋がると、
 みんな本能的に気づいて、充電しているのだ。

 インディオは三十路を過ぎて毎年泳いでいる。
 日本は島国だから海はそこらじゅうにあるが、
 奄美大島の大浜海岸は、格別だったなぁ~(今、シーズンでガラガラだから、行きたい! 無理!)