『魔法としての言葉』~アメリカ・インディアンの口承詩~
金関寿夫
思潮社¥2000
ネイティブアメリカンの詩が沢山あるが、何やら難しい解説も書かれてある。
「文学(詩)は現代人にとっては知的娯楽であるが、インディアンにとっては文学はもっと密着したもの、実用的、かつ機能的なものだった」とあり、「呪術師によって歌われる歌は、病気を治癒するためのまじない。戦いに赴く前に歌う戦勝祈願の歌、豊作を祈る歌、雨乞いの歌、狩の獲物を祈願する歌があった」。また「恋人を得るための歌、イニシエーション、鎮魂の歌などがあった」。ようするに、「宇宙の目に見えない霊と交流したり対抗する、超自然の能力を獲得するための、いわば呪術的な媒介として、歌(時には物語)はあったのだ」とある。
さらに本文を拝借して(p28)、
歌が発生するときには、ほとんど例外なしに「儀式」が伴う。歌は祈りだからである。仮にトウモロコシの実りを切実に願う必要が起こるとする。するとアリゾナのパパゴ族なら、種を植えた後、その生育を祈って、古来のリズムを刻むドラムに合わせ、足拍子を踏みながら、次のようなやさしい歌を歌うのだという。
青い夜がおりてくる
青い夜がおりてくる
ほら、ここに、ほら、あそこに
トウモロコシのふさが震えている
続いて「雨乞いの歌」?であるズーニー族の「嵐の歌」を紹介している。
母よ 私の地を 沢山の花で 四度 おおって下さい
天を高くもり上がる 雲でおおって下さい
地を霧でおおい 地を雨でおおって下さい
地を雨でおおい 地を雷光でおおって下さい
雷鳴をいたるところにとどろかせて下さい
雷鳴を聞かせ 雷鳴をいたるところにとどろかせて下さい
地の六つの方角のすべてに
そして「インディアンのアニミズムについて詳述する余裕はないが、インディアンの多くの部族にとっては、鳥獣はもとより、山川草木と人間との間に差別はない。動物や草木も人間と同じ心を持ち、同じ権利を持っていると、彼らは感じている」とあり、「岩」と仮題がつけられた歌(オハマ族のもの)が紹介されてある。
限りなく遠い
昔から
じっと
お前は休んでいる
走る小路の真ん中で
吹く風の真ん中で
お前は休んでいる
鳥の糞を身体いっぱいに被って
足元から草をぼうぼうと生やして
頭を鳥の棉毛で飾られて
お前は休んでいる
吹く風の真ん中で
お前は待っている
年老いた岩よ
そしてp44で、意味のない「音」だけの詩を紹介。「呪文(たとえばヒンズー教のマントラ)に似ている」と語る。作者は色々引用し、「魔法は呼吸の中にあり、呼吸こそが魔法であるという信仰がいかに重要なものか」、「文明が進むにつれて、それら霊のあったコトバは、すぐに手垢にまみれ、単なる記号になり、本来のみずみずしい生命を失ってしまった」という。
インディオは昔、面白いと思った箇所に、付箋を張った。その中の一つが次の詩だった。
魔法のことば (エスキモー族)
ずっとずっと昔
人と動物がともにこの世に住んでいたとき
なりたいと思えば人が動物になれたし
動物が人間にもなれた。
だから時には人だったり、時には動物だったり、
互いに区別はなかったのだ。
そして皆が同じことばを喋っていた。
その時ことばは、みな魔法のことばで、
人の頭は、不思議な力を持っていた。
偶然口を突いて出たことばが
不思議な結果を起こすことがあった。
ことばが急に命を持ちだし
人が望んだことが本当に起こった――
したいことを、ただ口に出して言えばよかった。
なぜそんなことが出来たのか
誰にも説明できなかった。
世界はただ、そんなふうになっていたのだ。
金関寿夫
思潮社¥2000
ネイティブアメリカンの詩が沢山あるが、何やら難しい解説も書かれてある。
「文学(詩)は現代人にとっては知的娯楽であるが、インディアンにとっては文学はもっと密着したもの、実用的、かつ機能的なものだった」とあり、「呪術師によって歌われる歌は、病気を治癒するためのまじない。戦いに赴く前に歌う戦勝祈願の歌、豊作を祈る歌、雨乞いの歌、狩の獲物を祈願する歌があった」。また「恋人を得るための歌、イニシエーション、鎮魂の歌などがあった」。ようするに、「宇宙の目に見えない霊と交流したり対抗する、超自然の能力を獲得するための、いわば呪術的な媒介として、歌(時には物語)はあったのだ」とある。
さらに本文を拝借して(p28)、
歌が発生するときには、ほとんど例外なしに「儀式」が伴う。歌は祈りだからである。仮にトウモロコシの実りを切実に願う必要が起こるとする。するとアリゾナのパパゴ族なら、種を植えた後、その生育を祈って、古来のリズムを刻むドラムに合わせ、足拍子を踏みながら、次のようなやさしい歌を歌うのだという。
青い夜がおりてくる
青い夜がおりてくる
ほら、ここに、ほら、あそこに
トウモロコシのふさが震えている
続いて「雨乞いの歌」?であるズーニー族の「嵐の歌」を紹介している。
母よ 私の地を 沢山の花で 四度 おおって下さい
天を高くもり上がる 雲でおおって下さい
地を霧でおおい 地を雨でおおって下さい
地を雨でおおい 地を雷光でおおって下さい
雷鳴をいたるところにとどろかせて下さい
雷鳴を聞かせ 雷鳴をいたるところにとどろかせて下さい
地の六つの方角のすべてに
そして「インディアンのアニミズムについて詳述する余裕はないが、インディアンの多くの部族にとっては、鳥獣はもとより、山川草木と人間との間に差別はない。動物や草木も人間と同じ心を持ち、同じ権利を持っていると、彼らは感じている」とあり、「岩」と仮題がつけられた歌(オハマ族のもの)が紹介されてある。
限りなく遠い
昔から
じっと
お前は休んでいる
走る小路の真ん中で
吹く風の真ん中で
お前は休んでいる
鳥の糞を身体いっぱいに被って
足元から草をぼうぼうと生やして
頭を鳥の棉毛で飾られて
お前は休んでいる
吹く風の真ん中で
お前は待っている
年老いた岩よ
そしてp44で、意味のない「音」だけの詩を紹介。「呪文(たとえばヒンズー教のマントラ)に似ている」と語る。作者は色々引用し、「魔法は呼吸の中にあり、呼吸こそが魔法であるという信仰がいかに重要なものか」、「文明が進むにつれて、それら霊のあったコトバは、すぐに手垢にまみれ、単なる記号になり、本来のみずみずしい生命を失ってしまった」という。
インディオは昔、面白いと思った箇所に、付箋を張った。その中の一つが次の詩だった。
魔法のことば (エスキモー族)
ずっとずっと昔
人と動物がともにこの世に住んでいたとき
なりたいと思えば人が動物になれたし
動物が人間にもなれた。
だから時には人だったり、時には動物だったり、
互いに区別はなかったのだ。
そして皆が同じことばを喋っていた。
その時ことばは、みな魔法のことばで、
人の頭は、不思議な力を持っていた。
偶然口を突いて出たことばが
不思議な結果を起こすことがあった。
ことばが急に命を持ちだし
人が望んだことが本当に起こった――
したいことを、ただ口に出して言えばよかった。
なぜそんなことが出来たのか
誰にも説明できなかった。
世界はただ、そんなふうになっていたのだ。