インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

成功者の資質

2010-06-29 20:14:29 | 考えるインディオ
この間の話の続きであるが、成功者の資質として、当然であるが、身の回りがきちんと整理されていることが挙げられるだろう。しかるに我が周辺を見ると…

 会社面接とか採用で、経営者とかが直接(ぬきうちで)応募者の家を訪問するというのもあるそうだ。なるほど、下手な対話より、本人の生活ぶりを見るのが一番かもしれない。さらに親とかにも会えば、かなり深く推察することが出来るだろう。成功する経営者とかは、それぐらいの細かい観察力は備えているものだ。

 部屋がさばけているということは、頭の中もさばけていることの反映だし、

 ということは、そいつがブログでも長いこと書こうなら、きっと内容もさばけているに違いない(インディオさんのことですね)。

 「その者の成功を知れ」と問われるなら、果たしてきちんと答えることが出来るのか。

  こんな自分でも、覚醒したいと思っているし、人は誰でもハイアーセルフを志向していると思われる。それを手助けするようなことをすることが「成功」なのか。

 坊主やら作家やらにならずとも(なれずとも)、日常生活で、自分に出来ることをコツコツとやってみよう。

 まずは自分の部屋の掃除だわい(元の場所に片付けます)


 
  

星の商人

2010-06-27 20:04:40 | 実用書
 雨が降っていたが、帰省して、ジャンベを叩きながら南アフリカ開催のワールドカップの再放送を観たりしながら、くつろいでいた(1ケースもあったスーパードライのうち、一本だけ飲んだ)。

 さて、今週の読書であるが(やはり薄いのであるが)、

星の商人 -「成功の秘法」を手に入れるためのレッスン-
犬飼 ターボ
サンマーク出版

アイテムの詳細


 を転げて読んでいた。設定とか無理があるかもしれないが、真理を突いた面白い物語であった。レキという若者が、大商人から魔法の紙?を頂くのだが、そこには成功するために必要なエッセンスが飛び出てくるのであった。

 まずは「他の成功は己の成功」。そこでレキは他の商人の成功を助けようとしゃしゃり出るわけで、しかし相手にされなかったり、疑われたりする(当たり前)。

 そこで、「成功者にふさわしき者を選べ」と文字が浮かび出てきて、レキは成功しそうなつぼ売り商人アルに付いて行くのであった。

 ただ誰かの成功を手伝うにも、相手が望んでいる成功が何なのか分からないと手伝いようがない。その時、「その者の成功を知れ」という言葉が浮かんできた。いわゆる、大義名分である。

 さらに、より多くの人間が成功するように働きかけることで、レキは商人だけではなく投資家にもなれ、より豊かになれる。他人を豊かにすることが自分の豊かさに繋がるという、「仕組みで分かち合う」わけである。

 確かに、成功しそうな人間についていくのが一番理に適っている。信長について行った秀吉はもちろん、本田宗一郎とか松下幸之助とか(滅多にいないが)、これはと思うような人間を見つけ出し、成功を助けるなら、自分の未来も自然と切り開かれるに違いない。

 ただ、成功者の方でも、「成功しそうな仲間」が欲しいわけで、成功者にならんとするものはそれなりの眼力があるので、基準に達していないと仲間に入れてもらえないだろう。

 こんなことをカチャカチャ叩いている自分であるから、鋭いところもあるのだが(独創的であると思っているが)、やや抜けているところも少なくないため(ポカがある)、それを見た成功者は「?」と疑っているに違いない。

 「成功者にふさわしき者」であるためには、自分のミスぐらい気づく冷静さ、余裕とか落ち着きがもっと必要なのだろう。

 と、

 一時的には冷静になれても、長期的にはやはりインディオの本質に戻るのだろう(果たして成功者にふさわしき者なのか?)。

内なる能力が目覚めるには

2010-06-23 22:48:07 | 考えるインディオ
  非常に眠いが何か書かなくてはなるまい。実家に戻り、森林浴をしたいが、天候が危うい。雨ならば、何か読書でもすればよく、本にはこと欠かない。

  物凄く冷めた自分がいて、それは読書する自分すらあざ笑っているようだ。本など読んで身についた人工的な能力は大したことはない。自然のうちにある能力、これが全てなのかも知れない。

  とするなら、読書体験は一体何なのか。自己満足なのか、単なる確認作業なのか、暇つぶしなのか、いや、自分を変えるための努力なのか、いや、逆に自己逃避なのか…

 自分を変えるための呪文でも眺めているのかもしれない。

 それでも、書き手のエネルギーを受け取っているのは確かだろうし(あっ、このブログもそうか)、

 自分の自然にあるエネルギーを目覚めさせてくれるような本に、出会えるのが素晴らしいのかもしれない。 

 といっても、大自然にある景色、風や葉っぱの言葉が、自分にとって一番のような気もするのだが。 

眠さに耐えて書く、自己愛

2010-06-20 20:56:22 | 考えるインディオ
  自己愛が強い人間は、孤独を愛するような気がする。孤独というのは、自分だけの世界を過ごすことだから、自分が好きでなければ耐えられないだろう。

 ブログを書くのもなかなか孤独な行為で、書きながら自分自身と対話しているのである。頭の中にが出てきたり、が声を発したりするのも、やはり自分が、別の自分の内面と話しているのかもしれない。

 親しい仲間だと、自分の延長上のようなもので、会話しながらでも、何かしら自分自身と話をしているような気にさせられる。嫌な相手では、自分の中の嫌な側面を見ているような気にさせられる。

 色んな人と対話したりして、人間は成長していくわけだが、ベースは自分自身との対話にあるのだろう。自分自身がAという経験をしなければ、Aに染まった人間と対話しても、相手を受け入れられないだろう。別に経験しなくても、孤独のうちに、Aを仮想の自分として対話していれば、理解し合えるのかも知れない。 

 一体何をぐだぐだ書いているのか、それも分かる人にはちょっと書いただけでもわかるだろう。あんまり喋らなくとも、通じ合う人間とは自然と通じ合うものだ。無意識のうちに、相手の中に、自分と同じ要素だとか問題だとかを発見するのだから。

 世の中、色んな人間がいるから面白いので、同時に、色んな自分の側面があるから人生は味わい深いのかもしれない。

 小説家でなくとも、想像力をリアルに膨らませれば、自分はランドセルを背負った子供にもなれるし、ノアとかで子供を載せて運転するパパにもなれるし、温泉巡りをしている老人にもなれるわけだ。

 と、考えるならば、世の中は自分の分身で溢れているわけで、どこに自分をはめ込むかは、自分のイメージの力次第かもしれない。ただ、もはや子供に戻れるわけでもないし(子供に託すことは出来るが)、現実は自分の想像力を凌駕している。

 もし、インディオの想像力がもっと強ければ、このブログの閲覧者をもっと引き付けているに違いない。所詮、孤独にブログを書いて悦に至る輩は、自己中心的なナルシシストなのかもしれない。

 かくして、想像力の未熟さによって、聖なる木が未だ育たないのであります ← 孤独に踊る輩

ゲゲゲの女房

2010-06-19 08:38:01 | 映画や小説、テレビなど
  さっき、たまたまNHKをつけていると、『ゲゲゲの女房』なる連続ドラマが放映されていた。そういえば、この前実家に帰ったとき、インディオの母親が楽しみに見ているようで(テレビの極貧ぶりを?)、15分見ていたが、漫画家水木しげるが、軍艦のプラモデルを作っていたり、漫画家を辞めて看板屋になろうか(カネがないので病気の女房の鼻紙も買えない)とこぼしていたり、エピソードが盛り込まれていた。

 戦争で片腕を失ったから、漫画家にならざるを得ない事情もあったのだろうが、好きなことばかりやって子供のように生きていくのはなかなか楽しそうに思えた。確かに恐ろしく貧乏だが、周りもそんな感じだったろうし(?)、戦後の日本はまだまだ希望があったのかもしれない。

 今は漫画とてあまり画期的ではないし、世の中何もかにも飽きられているような気さえする。妖怪マンガのどろどろした創作物を執筆していると、いつの間にか本人も巻き込まれておどろおどろしい精神状態になっていくのかもしれない。

 逆に暗くて希望のない世の中(特に日本)だから、今こそ、光のような創作物が必要なのだろう。だからスピリチュアル関連の著作物が売れ、パワースポットやら開運グッズも脚光を浴びている。

  このブログも、成功キーワードを盛り込んで、プラスの効果をもたらすようなものでありたいものだ。文字が呪文であるなら、読み手が幸せになれるような文章でありたい(もちろん自分自身も)。

 しかし人間はマイナスの暗い部分に興味があるのだわい(それで巻き込まれていきます)

たかが醤油、されど…

2010-06-17 06:09:22 | 考えるインディオ
今朝は朝食でアジの刺身(昨日4割引で買った)を食べている所だが、刺身醤油がなくて、ポン酢で食べている。かつおのタタキならまだしも、アジでは合わない。やはり刺身は醤油がおいしいのかもしれない。それならば、刺身通は、醤油にこだわるに違いない。

 一応、「何事にもこだわらない」ことを目標に掲げているのだが(全然達成されていない)、同じ食べるなら美味しい物がいい。

 ブログにしても、何でも書けばいいことになるが、同じ記事ならベストを尽くした?いい記事を書くべきだ。朝食がどうのこうのというのではなく、何かしら、人間生活にうまみが出るような。

 活字を書いているのであるが、『リトルターン』のように、想像力をかきたてるような文章が不足している。初夏といえば、小学生の頃は夏休み前でわくわくしていたのだが、大人になってそんな休暇があるわけがなく、インディオ号ジュニアで見知らぬ土地へ行き、「ここはどこだ、何が自分を呼んだのだ」とか勝手に妄想を膨らますぐらいか。
 
 そんな「うまみ」に対する需要があれば、文章を書くだけで生活が出来るのかもしれない。

 インディオの醤油は、文明人の刺身に合わないって感じですかね(来月はまたαのミステリー大賞がはじまります)

生まれた場所

2010-06-14 20:26:55 | 考えるインディオ
 ブログに書こうと紙袋に新聞記事が放り込んであったのを、思い出した。山奥で実家の新聞(とっているのは何故か朝日…)を読んでいると、はっと驚かされた写真を目にしたからだ。

 

 これを見て、「アメリカの先住民か?!」と思ったが、読んでみると、沖縄の演劇のようだ。平田大一氏(南島詩人・脚本・演出家)なる、八重山諸島の小浜島出身の人が、舞台活動をしているようだ。

 東京に出たらしいが、また地元に戻ってきたようである。新聞記事を読むに、

   ―島に戻ったのはなぜ?

   自分の居場所が分からなくなった私は、むかし祖母が語ってくれた「人は生まれてくる時、生まれる場所を選んでくるんだよ」という言葉を思い出し、島に帰ろうと決めた。


  …らしい。なるほど、山奥の故郷で読んでいたから、なかなか説得力があった。

 『リトルターン』ではないが、自分はメキシコでもなく、沖縄や奄美大島でもなく、ココで生まれたのは、それなりに意味があるのだろう。

 自分が自分らしく生きるには、きっと、この原点に戻ることが重要なのだろう。日本人がお盆の墓参りとかで帰省するのも、意義があることなのかもしれない。

 ただ現実は、出生地ではなかなか生活できないので(田舎であるとか、家族の事情とかで)、大勢に混ざって生活し、自分の起源というものから離れて行くのだろう。

 自分も大都会とかで暮らしていた時(実家にあまり戻らない)、本当の自分というものを見失っていたような気がする。

 本当の自分は、子供の頃からずっとそこにいて、永遠に変らないのだろう。

人間らしくあるために、再び森林浴

2010-06-13 20:55:40 | 身の回り
  この前、ブログでUPした森林浴の記事を眺めていると、無性に森に戻りたくなり、週末に実家に帰った。今住んでいる所から、往復100キロちょいってとこか。

 土曜日、恐ろしく晴れまくっていた。



 色々本を持って例の場所に行こうと山に上る(家自体が山に近いが)。




 安楽椅子に座ると、水のせせらぎと、爽やかな風を浴び、葉っぱのパラソルで涼しい。



 ここで本を読むことにしよう(『リトルトリー』を髣髴するタイトルの薄い絵本)。



 一応、感想文を書こう。パソコンはないが、手書きで、ブログを書いてみた。



 飛べなくなった鳥が、自省するような絵本であり、鳥を人間に置き換えてみるといいのかも。




 かくして、またこれを見たら、現場に戻りたくなるのだわい(そろそろ海で泳ぎたいですね)

無限なる宇宙と自分

2010-06-10 06:35:55 | 潜在意識の世界
  アメリカ大陸の地図を折り畳むような妙な夢を見たが、最近脇に置いているネイティブ・アメリカン世界と何かしら関係があるのかもしれない。夢も馬鹿にならず、おきているときに意識している事柄より、自分の内部の深い部分に触れているのかもしれない。

 睡眠中、宇宙意識(の欠片)にでも触れているのだろうか。起きている時にそれが出来れば大したものだ。

 宇宙には膨大な情報が飛び交っている。
 
 霊媒はそれにチャンネルを合わせる。
 
 何を映し出すかは、その人の「気づき」しだい。

 インディオもまだまだ気づいていないことだらけで、それを克服するには、

 大宇宙の流れにそって(身を任せて)、ゆったりとした感覚で、

 高い所から物事をぼーっと眺めてみるというのは、どのようなものか。

 

絶好調の朝食

2010-06-09 05:42:50 | 身の回り
  今、朝食を食べながらブログを書いているところだ。昨日半額で仕入れたアジの刺身に、玄米、納豆、野菜である。生野菜は健康にいいかもと、キュウリをすってニンニクをみじん切りにして塩を少々と、キャベツをちぎって食べている。アジの刺身は身が厚く、大根の千切りがたっぷりあり、お買い得だった。

 おお、コッコちゃんのゆで卵も食べねば。

 美味いものを食べているせいか、網戸をし忘れたときなどは大量の蚊に襲われ、夜中で7匹も叩いたこともある(腹一杯吸っていた)。

 今、絶好調なのは、体調による所が大きく、それは睡眠やら食事に影響されるから、気を配ったほうが良いに違いない。深夜にブログを書くと、ずるずるはまり込んで、深夜0時を回ることも少なくない。すると体調に悪影響が及び…悪い循環が…

 ということで、朝にブログを叩くのだわい(書くことが浮かばないので朝食を)

卵のパケ買い

2010-06-06 05:41:52 | 身の回り
  昨日は閲覧数:490PV 訪問者数:222IPとえらい訪問者が多かった。ので、何かUPしなければと、昨日買って撮った卵のパッケージを掲載したい。

  まずは自転車で(インディオ号ジュニアではなく)海岸を回り、海と太陽のエネルギーを浴びたあと(対岸は島ではありません)、

 

 パッケージに釣られ、流行っている市場で卵を280円で買った。

 

  刷り込みというのは恐ろしく、ヒヨコを見ると異常に反応する。やはり商売は買い手の潜在意識に働きかけるように宣伝するのがベストなのかもしれない。

  もっとも、こんなものに引っかかるのは自分くらいかもしれないが。

  こっこちゃんとは、センスのない名前ですね(蝶ネクタイで売上倍増です)

インディオ号ジュニア

2010-06-05 20:13:37 | インディオ号の足跡+旅・魚釣り
そういえば、五右衛門風呂も壊れたが、インディオ号も壊れた。下り坂で滑って路肩に乗り上げ、修復できないほど骨組みが捻じ曲がったのだ(一見無傷だが。人間は奇跡的に無傷)。タイヤがつるつるなのに、雨の日に下り坂を飛ばし過ぎたのが悪かった。

 そこでオンボロだったが愛着があったインディオ号は廃車になり(元々本体に価値があるとは思えない)、仕事にも行けないからgooネットで車を調べると、良いのがあって(軽で、同じメーカーの結構新しい奴)、すぐに調達したわけである。

 車の業者によっては、すぐに現金が必要なのか、価値の割りにえらい値段を下げているのもある(走行距離も3万k程度)。「え? これでこの値段?」ってな感じがして、試乗し、即買った。

 「まだ何年もインディオ号かなぁ」と思っていた所、事故が原因で、しかも業者が丁度値段をどんと下げた直後に、仕入れることが出来た(奇跡だ)。たかが車といえどもセルフイメージを高いものにするためには、案外重要なのかもしれない。「新車ですか!?」と言われるような車に乗っていると、なかなか心地良いものである。

 運転していて楽だし、燃費も良いし、壊したくないからあまり無茶な走りはしないし(教訓もあるし)、小まめに掃除したりする。有り金は一気に無くなったが、何か得をした気分だ。今、乗り回しているところである(大した所には行っていないが)。

 6月というのは、インディオの人生ではかなりパワー漲る月であり、来月から海で泳ぎ始めるだろうし、インディオ号ジュニアが僕をどこかに運んでくれるのかもしれない。

五右衛門風呂

2010-06-04 19:17:45 | 身の回り
ど田舎にある実家の五右衛門風呂(厳密には少し加工してあったような)が、ついに壊れたようだ。薪とかで焚いて温めるわけだが、どうしても水漏れが止めることができないようだ。

 普通の風呂にするという案もあるが、五右衛門風呂で育てられた自分としては、どうしても五右衛門風呂にこだわる。もはや絶滅しているのかと思ったら、広島とか九州とかでも製造している工場があった(ネット販売とかも見かけた)。

 実家の五右衛門風呂は50年近く経つらしく、あちこち修理もされていたし限界だったのかもしれない。思い返せば、亡き祖母も五右衛門風呂を愛し(せっせと焚き)、長生きしたわけで、一族の記念碑のようなものだ。

 アパートとかのガス風呂はすぐ冷めるが、五右衛門風呂は体の芯まで暖まる。時には釜茹での刑を髣髴することもあるが、冷水を大量に注げばいいわけで、温泉のようで気持ちが良い。

 もっとも太陽熱の風呂でもあるので、夏は問題ないが、やはり自分が帰省する時はゆっくりと五右衛門風呂を満喫したいものだ。風呂というのは健康上、かなり重要だから、どうせ造るならば立派なものが良いような気がする。ただし昔の記念碑(風呂)を叩き壊さねばならない。

 業者も経験無いようだし、何か良い方法がないでしょうかねぇ(屋外で五右衛門の露天風呂を造り、それに屋根を作ったら…目立ちますねぇ)
 

ゲームは達成感!

2010-06-02 21:40:00 | 考えるインディオ
  何でもゲーム化してしまえば面白く、仕事自体がゲームになってしまえば楽しい人生が送れるに違いない。ただし、評価がなかなか難しくて、何を尺度にすればいいのか単純ではないような気もする。

 会社ならば売上とか、収益を増やすことに貢献した人間を評価するわけで、ボーナスやら月給、役職を上げていくのだろうが(それが一種のゲームなのだろうが)、客観的冷静に考え、所詮、他人の畑を耕しているに過ぎない。その収穫の一部を頂いている小作人である(そう考えると、脳内麻薬が流れない)。

 もっともカネは万能であり、皆が欲しがる価値であるから、それを貯めることは楽しいに違いない。「10万円しかなかったのが、1年後に100万円になった!」というのも、
貯金ゲームの達成感であろう。もっとも、60代過ぎで、2000万3000万になったという輩はゴロゴロいるだろうが。

 本当のゲームはカネなど求めないような気もする。きっかけはそうかもしれないが、やっているうちに(工夫しているうちに)面白くなったりして、ただ夢中になっている。ゲームと化した事柄に、時間を忘れて熱中し、それが解決すると(最後まで行き着くと)、甚大なる達成感を浴びることになる。

 PCとかのゲームだって一銭にもならないし、このブログだってもはやカネなど求めていない。叩いているうちに何かが出てくるわけで(これこの通り)、それがまた面白い。最初はアクセス数など気にしたゲームであったが、今はあんまり気にしていないし、ただ活字(呪術か?)、文章のゲームである。こんなくだらぬ記事でさえ、書き上げてしまえば結構な達成考えられるのだ。

 読み手は…コメントにまでは出さないが、このおかしなゲーム文章を眺め、「こいつは何も考えて書いていないのではないか?」と呟くだろうが、実際何も考えていないし、ただブログのゲームが進行しているのである。ただの文章上の。

 未開文明やら、潜在意識やら、「聖なる木」やら、文章ゲームはあちこちに揺れ動き、あんまし合理的で美しいゲームとは言えない。もともとカオスなタイトルで、ルールも何もないが、非合理的な世界を表現しようとした、言語ゲームなのかもしれない。それで世界を理解した気になって、悦に入っているのか。

  所詮、文章は文章でしかないのだ。特にネット上では。紙になれば、「書籍」という商品になり、カネになるのかもしれないが。

 そういうわけで、アルファポリスのドリーム小説大賞に一票(『マネー神の崇拝』です)

  ドリーム小説大賞(聖なる木です)

手相で考える

2010-06-01 06:07:19 | 悪魔か、踊りか、占いか、禅か、無か
手相も馬鹿にならない。昔、中国の占い師が、健康状態を良くするために、生命線を強くなぞるのを見たことがあるが(テレビで)、実際にやってみると、健康になってきた(健康になる機会に恵まれた)。

 生命線に薄いしまがあるのが気になるが(不吉な予兆?!)、やはり体調が良くない時を反映していたのであろうか。そういえば、我が右手は、マスカケであるが、頑固で執着心が強いのがマイナスだとか、結構当たっていたりする。成功者で(??)男の場合、次から次へと新しい仕事に挑戦したり、女性の場合、恋人を次々と変えたりするらしい。

 左手の方(先天性)をみると、これも感情線が長くてほぼ繋がっており(付け根は複雑だ)、情が深いのか、何かの対象にずるずる引きずりこまれそうだ。

 実際、古代アメリカ世界に引きずり込まれていたし。もっと淡白に、客観的に、冷めた目で物事を見るべきか。