人生の折り返し点を曲がった雅太は、人生の時間が尽きていることをしみじみと感じ始めた。日々の労働、それは試練と修行の入り交じった中で行われるのだが、それで大半のエネルギーは食い尽くされ、残された時間で、自由に何かを活動する。
独身であるが故に、料理をしたり、温泉へ行ったり、小説を読み、たまに映画を見たりする。新しい映画を借りるよりも、昔何かしら心に引っかかっているのを再度見直したりするも、とりわけ日記で書き残しているのは、再び心を打つ。
今週の雅太は夢見を削って映画を深夜まで鑑賞した。『シッピング・ニュース』では、故郷やら先祖との因縁めいたものを考えさせられ、やはりその人は生まれ育った地域の、歴史的な力というものに左右させられるのか、と思ったりするのだった。
また『この森で、天使はバスを降りた』では、ラストになると自然と涙がこぼれたりするのだった。双方とも、田舎が舞台となり、地域住民との確執、特に後者は「よそ者」として主人公が排除される構造が、映画では極端ではあるが、まざまざと思い浮かぶのである。
ふと気がついたことは、高齢化の激しい田舎で、若者が舞台に多く登場しているような気もした。年金マネーが若者に回らないのが田舎の問題である。老人ホームやら地産地消の農産物、あとはゴルフ場やら農園などの観光ぐらいしか、雇用の場を見いだせない以上、田舎で育った若者は東京やら大阪などの大都市へ出て行かざるを得ないのである。
二つの映画はともに、主人公が田舎で職を見つけ、それがドラマの設定となっているという特徴がある。孤島?の新聞記者、森林地帯のレストランのウエイトレス、は、よくよく考えてみると、無理があるのかもしれぬ。
まあ、所詮、ドラマであると、雅太は久々のブログを終えるのだった。
独身であるが故に、料理をしたり、温泉へ行ったり、小説を読み、たまに映画を見たりする。新しい映画を借りるよりも、昔何かしら心に引っかかっているのを再度見直したりするも、とりわけ日記で書き残しているのは、再び心を打つ。
今週の雅太は夢見を削って映画を深夜まで鑑賞した。『シッピング・ニュース』では、故郷やら先祖との因縁めいたものを考えさせられ、やはりその人は生まれ育った地域の、歴史的な力というものに左右させられるのか、と思ったりするのだった。
また『この森で、天使はバスを降りた』では、ラストになると自然と涙がこぼれたりするのだった。双方とも、田舎が舞台となり、地域住民との確執、特に後者は「よそ者」として主人公が排除される構造が、映画では極端ではあるが、まざまざと思い浮かぶのである。
ふと気がついたことは、高齢化の激しい田舎で、若者が舞台に多く登場しているような気もした。年金マネーが若者に回らないのが田舎の問題である。老人ホームやら地産地消の農産物、あとはゴルフ場やら農園などの観光ぐらいしか、雇用の場を見いだせない以上、田舎で育った若者は東京やら大阪などの大都市へ出て行かざるを得ないのである。
二つの映画はともに、主人公が田舎で職を見つけ、それがドラマの設定となっているという特徴がある。孤島?の新聞記者、森林地帯のレストランのウエイトレス、は、よくよく考えてみると、無理があるのかもしれぬ。
まあ、所詮、ドラマであると、雅太は久々のブログを終えるのだった。