インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

マジカルパス

2010-11-23 08:55:48 | カスタネダ『呪術の実践』 !
 晩秋に我が家の紅葉が散り始め、真っ赤な絨毯が出来上がった。



 大自然は芸術的で、季節ごとに夢か幻のような光景をプレゼントしてくれる。夢は風に飛ばされ何処かへ飛んでいくのであるが…。

 夢といえば、摩訶不思議な夢をほぼ毎日見ているわけであるが、それは夜中、マジカルパスのさわり?を自己流?に実践していることと関係があるような気がする。

 魔法の動き(マジカルパス)についてネットで調べてみると、 トルテック・アーツ ~マジカルパスとテンセグリティ~にその実演のDVDの一部がUPされていた。迫力ある動きです(実際に真似したくなってしまいます)。

 『呪術の実践』よりかなり分かりやすいが、全てEnglishでスピーチされている。「意図を準備するためのシリーズ」(未だに不可解な名称)しかないが、たぶん、こんなリズムで全てのマジカルパスが実践されるのだろう。

 カスタネダによるとこのは「大集団で行うのが理想的」であるといい、

 もしテンセグリーを実践する者の数が何百人にも上るとなると、彼らの間に一瞬にしてエネルギーの流れが形成される。呪術師なら容易にみることの出来るこのエネルギー流は、テンセグリティーの流れに切迫感をもたらす。それは、何もかも振動させる風のように彼らの間を吹きぬけて、彼らに最初の目的意識を与える…

 沈黙の大空間に、が集まり、100インチの大画面かプロのを眺めながら一斉にるわけか。

 しかし何か味気ないので、太鼓か何か打ち鳴らし、場の雰囲気か何かを盛り上げた方が良いのかもしれない。

 かなり怪しい集団になるであろう(これが「聖なる木」なのか?)

 

不思議な夢をみる

2010-11-16 20:51:34 | 潜在意識の世界
  最近、毎日のようにリアルな夢を見る。そのたびに夢占いやら夢予知の本を漁ったりしているが、「なるほど」と思わされることは少なくない。出てきた生き物とかは全て人生におけるシンボルであり、メッセージなのだろう。

 小説やら映画に浸るのも、ある種の夢なのだろうけれど、自分自身の夢というのはそれ以上に不思議で、面白い。夢から醒めてもその余韻のあまり、しばらく動けず、表現しにくくてノートに内容すら書けない。時間が経つ端から記憶が消えていくようだ。あまりにも面白くて魅惑的な内容だと「これを描ければ新人賞間違いなし!」と、何度思ったことか。

 意識のレベルからして、起きて感じている時より、眠っていて夢見ているときの方が、自分自身にとって階層が深いのかもしれない。カスタネダの本にも夢見とかあるが、「知覚をエネルギーの別の領域へ導きいれる入口として普通の夢を利用できる」とある。

 日常生活は不思議なことだらけで、自分の存在自体が謎である。何でここで今生きなければならないのか、これからどうなるのか。なぜ手が二本、足が二本ついていて、モノを食べ、眠るのか。そう考えるなら、聖書とかミステリー小説であり、一応つじつまが合うように説明されている(?。宗教関係・精神世界の本は全部そんな感じか)。

 夢を見たのにも、それなりの原因があるわけだが(心当たりがある)、全然関係のないようなわけの分からぬ夢も次々と見る。別の知覚体系が存在するのか。

 そういえば幼い頃、真っ白な夢を何度も見たが、眠っている間に何らかのエネルギーを知覚したのかもしれない。

 カスタネダに言わせれば、人間はエネルギー場の集合体である。それを個体にまとめているのは、ある種の振動である。そのバイブレーションが、あらゆるものに生命や居場所を与えている。古代メキシコの呪術師はその振動を操ろうとした…らしく(あれこれ身体を動かします)

 …よく分からないが、頭で考えずに腹で意識し、目で知覚せず内臓で光を認識するような感じか(??)。宇宙からのエネルギーを我々は視覚でほんの一部しか感じていないわけで…、

 それは閲覧者の存在をかすかにしか感じられない我輩と同じであろう。

 脳の中ではの様子がちらついているのであるが(いや、あのキャラは書き手の側か?)。

 

帝釈峡

2010-11-14 21:42:33 | 身の回り
 帝釈峡に行ってきた。晴天ではなく、紅葉の度合いも浅かったが、駐車場のもみじが綺麗だった。



 神龍湖の観光船が走っている。あそこから眺めたら、どんな景色なのだろう。



 鏡のように湖に映し出される幻の姿。現実に存在している光、幻の光、まるで太陽と月のような関係か。



 春は桜。秋は紅葉。
  
 


 少し山に上ってみると、絶景が現れた。



 国道を歩いても、トンネルの上に艶やかな紅葉が。 




 今度は、田舎の実家の紅葉を。

 

 向日葵が咲いていた裏山への道は、紅葉で埋められていた。※森林浴への道

 
 
 ちなみに夏はこんな感じでした→ 7月も森林浴 

ブログを書かずに眠らせる音楽

2010-11-10 20:39:52 | 呪術的なグッズ
  ブログの投稿回数がめっきり減った。ポメラを買ったが、ブログに利用しているわけでもないし、別に小説を書いているわけでもない。パソコンは立ち上げるが、ニュースやら天気などを見るだけで、いや、アルファポリスやら昨日のアクセスなどの数も見たりする。

 UPしなくても訪問者数が100を超えているので(グーグル経由も多いが)、何か書き込まねばならないと思っているのだが、このブログにとって面白そうなことが、浮かばない。

 いや、たくさんあるけれど、忘れているだけなのだろう。例えば、最近、癒しのCDを借りて聞いているが(ICレコーダーで)、ポップどころか、クラシック(G線上のアリアとか)よりも遥かに安らぎをもたらしてくれる。

 『究極の眠れるCD』 デラ 

 『自然音で眠りたい~入眠サポート~』 デラ

 水のせせらぎやら鳥のさえずり。何か実家の森林浴をイメージする。

 今からこれらを聞きながら眠るのであった  

宇宙からのエネルギーの賜物

2010-11-07 19:43:25 | カスタネダ『呪術の実践』 !
 ロマンスが微塵も感じられないブログだが、田舎の紅葉エネルギーを写真に収めてみた。西日を浴び、ひなびた感じであまり芸術的ではないが、11月の晴天は清清しい。

 

  庭の木から柚子を、畑でピーマンを摘んだ。



野菜や柑橘類が育つのは、大地はもちろんであるが、宇宙からのエネルギーの賜物であろう。

 田舎の自然に浸っていると、確実に都会にいるときとは別のエネルギーを感じる。カスタネダの本とかには「高められた意識で、我を忘れていると、宇宙を流れるエネルギーを知覚することが出来る」「この世が最終的な存在であるというのは幻であり、(人体の部分をマジカルパス式で動かすと)人間に知覚できる膨大な数の世界が実際に存在することを確認できる」とかあるが、何もしなくてただ山やら畑やら庭やら歩き回っているだけで、色々感じるものである。

 こうしてブログを書いている間も、時計の針は回り、老化が進み、死が近づいている。作物が実るのも、生き物が死ぬのも、同じように宇宙エネルギーの働きによるもので、それが繰り返されて歴史が続き、2010年の11月という今がある(それすらすぐに過去になる)。

 逆らうことの出来ない力、カスタネダによれば「人間のレベルを超えたところ、実体をそなえた存在ではなく、宇宙の非人格的な力」によって、動かされているが、前回書いたように、人間には選択する自由がある。

 ただ、それすら疑わしいようだ。カスタネダによれば、(彼の師ドン・ファンがいうには)「古代メキシコの呪術師たちは、人間の選択というものは、好意的に解釈していたものに過ぎない」という。

 
人間が考えている選択の自由という奴は、人間の認知世界の必須条件ではあるが、意識が我々の世界の境界の彼方へ歩み行ったときに発見したものを、好意的に解釈したに過ぎないんだってな。つまり、黙従を好意的に解釈したに過ぎんということだ。人間は、四方八方から自分を引っ張っている力と苦闘している。呪術師の技は、実際のところ選択することではなくて、黙従するだけの聡明さを身につけることなんだ…


 ということは、今ブログを書こうとしているのは自分が自由に選択した結果ではなくて、まさにドンファンが弟子のカスタネダを精霊の誘いか何かで見出したように、運命付けられていたのかもしれない。大した内容ではないが、カスタネダの引用が出来た点でも、何か意義があったり。

 そしてこれを見ている閲覧者も、宇宙の得体の知れない力で運命付けられていたということなのか。人それぞれとはいえ、所詮、同じ人間であり、同じように悩み、苦しんでいる(具体例は省略)。

 「四方八方から自分を引っ張っている力と苦闘している」わけで、
 意識の生き物であり、エネルギー場の集合体である人間が、いかに如何に意識を変え、引っ張られてずれたエネルギーを中心へ戻していくか…、

 そのためのり方があるということだ(結局こうなってしまうのだわい)

 それが聖なる木の踊り場なのですね(単なるディスコかと思っていました)

破獄

2010-11-02 20:51:12 | 考えるインディオ
  宙に浮く夢を読み返して(めったにないが)、やはり吉村昭『破獄』を読了した影響が出ていたように思われた。我々は囚人ではないし、自由に行動できる。今、眠ろうが、ブログを書こうが、テレビをつけようが、自分で考えて選択できる。考えようによっては、明日、仕事に行かなくても良い。

 何年、いや何十年も同じ職場に通うようになると、もはやそれは習性となり、当たり前で疑う余地がなくなる。毎月の収入と一定の休日が得られれば満足、仕事も覚えたし、仲間も大勢いる。もしこれらが切られれば一体どうなるのか…、不安になるので考えない。

 誰もが当たり前の日常をつくり、それを維持しようとすることによって世界はバランスが取れて安定し、当たり前の日常が再び生まれる。

 当たり前の日常は、かなりひび割れている。1980年代の日本と違い、2010年の今では大勢の人が自分の仕事を辞めたいと思っている。思ってはいるが、なかなか踏み出せないのは、何か良い所があるから、他に転職先がないから、家族から制止されるから、と事情は色々あるが、会社が潰れたり客がいなくなれば、自分の仕事を手放さざるを得ない。

 そんな場合でも人は自由に行動できる。気づいていないだけで、選択肢は無数にある。そこに至るまでのヒントも、日常生活で無数にあるわけで、それはある日突然わかるわけでもない。分かった人間は、自分から辞めて、積極的に行動するだろうし、それは受身ではないだろう。

 ある意味、それは脱獄方法を考えていた囚人に似ている。もう逃げられないと諦めて模範囚になり、看守に上がっていくか、脱獄して別の世界を目の当たりにするか(食っていけないので再び戻るか)。

 インディオなるも、かなりの脱獄犯なのであったわい(自由になりたい)
 そこで小説を書いて脱獄を試みていたのですね(あんなものではすぐに戻されます)