インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

途切れそうな更新

2011-09-22 07:12:16 | お知らせ
ブログを書くのを、「明日には」と思いつつ、「もうどうでもいいや」という感覚が芽生え始めた

 物語は創作しているのだが、これは最高傑作ができそうな予感がある。

 このブログを始める前に書いていたのと比較し、さすがに進歩はあるに違いない。逆説的であるが、書きたいことはストレートに全然書いていない。モノを言うのは登場人物の「言葉、会話」ではなく、「行為」であり、現実世界も同じである。

 内容は秘密にしておくが、完成すれば、今回はネットで公開するのは、さすがに遅らせるかもしれない(ということは…)

 それにしても、このブログはアクセス数が減らないので、誰かかが「まだUPしていないのですか」と観察しているのかもしれないが(そうとしか考えられない)、ブログ自体が終わってしまっているので(もうアクセルを踏んでいない)、もう更新がどうなるのかもわからない。

 ただ水面下では、確実に書いているので、物書きな趣味が終わったわけでもない。それにしても、よくここまでブログを書いてきたと思う。始まりがあれば終わりがあるわけで、2012年というマヤの予言する波乱な年にこそ、何か書くべきなのだろうが、予言的なこと(??)に対してはいろいろ考えてみたので、もはや書くべきこともない(いまさら手遅れか?)

 面白い記事が少しぐらいありましたか(何か最後はカスタネダに染まっていましたね)

小説をリアルにするには?

2011-09-14 06:52:17 | 映画や小説、テレビなど
  またワードを立ち上げて物語を書いているのだが、「何かが足りない」と感じ、スティーブン・キングの『小説作法』をパラパラめくる。やはり問題はリアリティか。「人物造形の骨法は、つまるところ、周囲の人間を子細に観察して、見たとおりに書くことである」とある。もちろん「実在の人物の写生」である必要はないようだが、基本はそこであり、つまり、職場とかで見かける個性的な人間を、小説の世界で、そのまま持ち込むということになろう。妻子がいればそれも利用するのが手だが、公開すれば生きにくくなるだろうし、やはり社会活動の中で、観察するのが一番手っ取り早いか。

 小説志望者がニートや引きこもりであってはならないのは、そういうリアリティの維持にあるのかもしれず、もし仕事をしないのなら、モデル候補に出会うことはなく、何か地に足がついていないようになるだろう。いや、観察し尽くした過去の人物や、友人やら親を引っ張り出す手もあるが登場人物が、固定化されてしまうか。

「コイツを小説世界に組み入れたら面白いのではないか」と思いながら、相手をじっとしていると、

 一体何を腹の中で考えているのか分からないから、実に不気味な存在だわい(あなたのキャラは頂きました)

ブログは終わりに…

2011-09-12 06:33:57 | 映画や小説、テレビなど
 昨日は真夏日だった。今日も夜が恐ろしいが、気温差が激しく、体調管理に気を付けたいところだ。

 さて、最近、めっきりとブログの更新回数が減ったが(やはりアクセスも減ったが)、かといって物書きゲームを止めているわけではなく、パソコンで原稿を書いたりしている(フィクションだ)。アルファポリスとかに展示してあるのが陳腐化したため、新しいのを展示しようという意味もあるが、妙な色気(野望?)がないわけでもない(控えめに言っておこう)。

 ブツ切れで、その時の感情に支配され、支離滅裂にもなっているブログよりも、何か物語を書く方が首尾一貫していて、書いていて面白みがある。ブログであるが、もはや書きまくったので(979記事目!)、もはや目的は達成され、また原点に戻って、フィクションに集中すべきなのかもしれぬ。

 ブログではもはや書くことがなくなったというわけでもないが、ブログなどいくら頑張ってもフィクション小説よりも売れる可能性が低いわけで、所詮、日記、備忘録でしかないのかもしれない。いや、フィクション小説も売れるわけがないのだが、こっちは「まさか」という可能性がある。

 いくらブログで昨日見た夢を語ろうとそれは「個人的な夢」にすぎないが、小説化すれば(上手い具合に物語化すれば)、それは「社会共通の夢」になるかもしれない。

 もっとも、作家志望者は多く(これを見ているあなたもですか)、これは並々でない修練やらエネルギーを必要とする。『ミレニアム』という映画化された小説を書いたスウェーデンの作家スティーグ・ラーソンなど寿命を縮めて心筋梗塞で死んだほどだ(映画で観たが…、ハチャメチャであった。あれぐらい主人公は個性的でないとだめか)。

 ブログにしろ、小説にしろ、根っこの部分は同じだが、フィクションの場合は、登場人物の心理描写やらリアリティが要求される(それ以外にもいろいろありすぎる)。小説を買って読むたびに、あまり面白くないので(ページが捲られず)、自分ならばもっと面白おかしく書けるのにな、と思ったりするわけで、それならば実際に挑戦すればいいわけである。

 これまで膨大にブログにエネルギーを注ぎ過ぎ、これだけ書かねば何か別のことが出来たのでは?と思われてならない。別に後悔はしてはいないが、それに気づいた以上、方向転換してみる方が良いのかもしれない。

 朝の一時間とか、寝る前には必ず執筆し、飯を食べたり、風呂に入っている間も小説について考えたなら、二か月ぐらいで物語が一本ぐらいは出来上がるだろうと思われる。もう既にワードを立ち上げ、その上でブログを打っているのだが…

 こんなことをしていると頭が混乱してくるわい(ブログモードは鎮めねば)


やはりこれが一番だ。

2011-09-08 07:02:43 | 潜在意識の世界
 昨夜は寒さを感じ、一枚着込んで寝た。そしてミステリーな夢を見る。

 起きて必死で思い出そうとしているが、じわじわとした長い世界であったため?、詳細に思い出せない。

 それにしても、夢というのは癒しであり、それは映画やら小説を遥かに超えるストレス解消であると思われる。

 だからもっと夢見に関する「商売」が出てきてもいいと思われるのだが(夢見のカルチャー教室)、個人差があったりするため、画一的にならないわけで、「枕・ふとん」「アロマテラピー」といった環境にカネを出すしかないわけか。

 マジカルパスのようなある種の動きをすれば、夢を確実にみられるのは確かなようだ。住環境やら食べ物も夢に影響してくるし、夢を見るためというなら、とにかく眠らねばならない。

 思うに、娯楽時間が2時間あったとしたら、寝る(夢見る)のが一番かも知れない。映画2時間見るのも楽しいわけだが、内容によっては疲れるだけで、眠くなるのを我慢してまで観る価値はあるのか、ということになる。最後まで観るより、放棄して寝るほうが正しいに違いない(もったいないから観るか? しかし時間の方が…)。

 一方の、夢見る行為は、何といっても体が休まるし、あとで夢についてじっくりと検討してみれば、下手な精神科に通うよりはよほど効果があるだろう。ただ、寝れない、という体質であれば問題かもしれないが。

 起きている時は、リアルな肉体があり、痛みを感じるけれども、これもある種の夢なのではないか…、そう考えると、「客観的な世界」は存在しないわけで、ただ見るものと見られるものがそこに存在するだけになる…
 
 何とも我々が生きている世界も不思議であり、不気味である。

客観的事実は存在するのか?

2011-09-06 06:31:48 | 潜在意識の世界
 台風がゆっくりすぎて、紀伊半島は大事になったようだ。ウバメガシ(炭焼き)やら熊野古道が頭に浮かぶが、道は寸断され熊野神社は埋まり、世界遺産が危機的状況に陥ったようである。伊勢神宮へとつながる日本の最強パワースポットであるため、何か暗示めいたものを感じる。

 地球の温暖化とかで、台風がコースを変えただけであると(偶然と)見なすことも出来るが、大自然の何かが意図的に作用したといえるかもしれない。人間が世界遺産だと烙印したものなど、自然現象によって簡単に崩壊するのである。

 最近よく考えるのであるが、「客観的事実など存在しない」とカスタネダの本で語られるように、世界にはただ自分の意識しか存在しないのかもしれない。もちろん、自分が死のうが、いや生まれる前から、物質、客観的事実は存在していたのであろうが、知覚主体が存在していなければ、実は存在していないのかもしれない。

 鋼鉄とか硬い物質は存在しているのであるが、それは人間にとってであり、このパソコンとて、人間がいなければ何の意味もなさず、もし、我が輩に興味がなければ、そこらに転がっている岩と同じである。ブログもまさにそうで、アクセスしようとしなければ、存在しているけれども、実際は存在しないのである。

 自分という存在が投げ出され、ただ自分に縁があった対象だけを知覚している。「気づき」のレベルが、その人間の意識レベルを決定するのか。確かにいろいろ気づく人間は意識が高い。

 ただ実際は奥が深く?、気づいていても気づかなかったふりをしたり(タヌキだ)、気づいても行動しなかったり(意味がないか)、安定を保つために気づくのを止めようとしたりする。

 戦前のように周囲が大東亜共栄圏であれば、「本当はおかしいのではないか」と気づいていても、そう志向するわけで、今の日本社会、資本主義とかも、実はそうなのであろう。

 大勢が意識するから、客観的事実のような世界が出来上がり、自分もそれに浸るというのが本当ではなかろうか。

 台風で大災害があったのは事実であるが、それをマスコミが詳しく報道しなければ、自分はその事実を意識することはないから、当事者以外には存在しない事実である。

 死とてそうだ。実際には存在しないのかもしれない。

本棚の整理

2011-09-04 22:43:38 | 身の回り
   中国地方を台風がゆっくりと横断したが、広島はあんまり被害に遭っていないようだ(?)。むしろ隣の岡山が酷かったようで(鳥取界隈も)、笠岡市の知り合い曰く、「凄かった。道路に土砂崩れが起きていた」ようだ。瀬戸内海の島(しまなみ海道)とかも、そんなに恐ろしい目に合っていなかったようで(?)、台風は左側(関西・東海)の方が威力が強いのかも。

 日常生活ではあんまりストレスがないので、酒を飲む気も起きないが、実家の本棚を整理したりしていると、いろいろ出てきて、「作家になり印税生活をもくろんでいた時期」を思い出したりする(胸が痛い)。小説とかは、結局ネットとかで公開しているのだが、単なる自己満足に過ぎず、今書くなら、もっとレベルが高いのが書けるのではと、原稿用紙に活字を埋めたすることもある(ワープロは推敲で使うべきかと)。40枚ぐらいでペンを止め、自分では面白くても「果たしてこんなのが…」という、冷めた眼差しになってくるわけだ。

 まあ、所詮、このブログを書くのと同じで、「物書きゲーム」の一種で、書いてみなければわからないから書いてみるまでで、それが読まれるかどうかは、それほど深く考慮していない。物事はやる前からすでに決まっている(そういえば、「やる前から結果は分かる」なる記事を書いた)わけで、最初に相当戦略を練っていないと、小説など書くだけ無駄である。ただ、一方で、「書いてみなければ分からない」というような面も、物書きゲームにはあるわけだ。自分でも、「え? こうなるのか…」と、自分で自分が驚くぐらいでないと、決して他人も驚かないように思われる。

 そもそも人間の理性で考えられることぐらい、別の人間も考えているわけである。頭のいい人ならば、なおさらである。そんな人々を仰天させるには、理性を超えたような、得体の知れないパワーが必要で、ある意味、カスタネダの本とかがそれである。これまで自分が真実だ(当然だ)と思っていたものが、「ひょっとして、全然違うのかもしれない」と感じさせるような、そんな文章が上手い具合に物語となり、編集されていれば、物書きゲームはハイスコアを与えられて良かろう(出版化される価値もある)。

 ただ書き手の押しつけであってはならず、リアルな人間の行動からじわじわ来るようなものでなければならず、やはりこれは技術が問われるのか。

 集めた本を選別していると(封印したり、配置換えしたり)、何か自分の脳ミソをかき回しているような変な気分になり、妙な夢も見るし、小説を書く意欲が湧いたりするし、何か時間が遡ってしまったような気さえする。

 反復することで、意識は揺らぐのか(集合点の移動か?)