角幡唯介の著「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」を読んだ。それは九死に一生どころではない。九十九死に一生を得るような壮絶な冒険で、私は度肝を抜かれた。そんな角幡氏の話を聞く機会を得た。
10月11日(土)夕刻、りんゆうホール(東区北2東2)にて「登山と探検 ~常識の外に踏み出すということ~」と題して角幡唯介(かくはた ゆうすけ)講演会が行われた。
この講演会は、日本山岳会北海道支部の支部創立50周年の記念事業だそうである。
私はこの日、高校野球の準決勝戦を見届けた後、直接りんゆうホールに赴いた。
角幡氏のプロフィールについて案内のチラシには次のように記されていた。

※ 彼は現在38才。大きな冒険はあるいは最後なのかもしれない。
【講師】角幡唯介(かくはた ゆうすけ)
1976年、北海道・芦別市出身。2008年、ネパール雪男捜索隊に参加。02-03年と09-10年にチベット、ヤル・ツアンポー峡谷の核心部・未踏地域を踏査。10年、同探検を描いた『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。11年、カナダ北極圏1600kmを徒歩で踏破。13年、『アグルーカの行方』で講談社ノンフィクション賞を受賞。現在は、太陽の昇らない極夜の北極圏探検をテーマに活動。15-16年冬に、グリーンランド最北の村シオラパルクからカナダ・エルズミア島に向けて、一匹の犬とともに長い徒歩の旅に出ることを計画中。
角幡氏のプロフィールをさらに付け加えると、函館ラサール高校から、早稲田大学政経学部、そして朝日新聞社記者(今はちょっと叩かれているが)とまるで絵に描いたようなエリートコースを歩んでいる。角幡氏が探検の世界に踏み込んだのは、早大探検部に所属したのがキッカケということだ。

※ かれは今のような生活を一応40才まで続けたいと他の所で語っている。
この日の講演は演題からは離れて、角幡氏が来年から取り組む北極アイスランドの極夜の中の1,600キロもの長い距離を単独歩行で挑む計画を立てている(約4ヶ月を要するようだ)。その準備のために今年の1月から40日ほど試験のために歩いた体験を話すものだった。
ちなみに極夜とは、白夜の反対語で日中でも薄明か、太陽が沈んだ状態が続く現象のことを指す。つまり太陽の顔をまったく拝めない状態が続く中を歩き続けるということだ。
さらには、その冒険行に衛星電話やGPSは携行せず、六分儀によって位置を確認しながら進むという。
単独での北極の氷床地帯を往くということは非常に過酷なことらしい。彼の頬はやや回復したとはいえ、顔全体が凍傷の跡で黒ずんで見えた。気温マイナス35~40度の世界は100キロの荷物を載せたソリは、砂の上を引いているようだという。
彼はこの冒険行の同行者(動物)としてエスキモー犬を白熊対策として同行するということだ。その犬とのやりとりに話は終始した。つまり単独行において犬は何よりの頼りになる存在であり、冒険の仲間だということだ。
本番に衛生電話もGPSも使わないということは相当に命の危険をおかした冒険になるようだ。
彼がなぜそこまでして冒険にこだわるのか?
彼は大新聞社の記者という安定した職を捨てて、なぜ冒険の世界を選んだのか?
彼は言う。「生と死を感じたい」と、あるいは「ヒリヒリとした焦燥感の中に身を置きたい」と…。

このあたりの感覚というか、思いは一般人にはなかなか理解しがたい感覚である。しかし、彼の中には悲壮感など一つも感じられない。むしろ淡々と自分の冒険を語った。
ツアンポー峡谷に挑んだときも、その他の彼が体験した数々の冒険も、いつも生と死を狭間を往くようなものだった。そして今回の北極の極夜を往く冒険行はさらに厳しいものになると予想される。
己の人生をどう生きるか、それは人さまざまだとは思うが、角幡氏の場合は過酷なまでに「生きているリアル感」を感じたいということなのかもしれない。
きわめて一般人の私であるが、どこかで角幡氏の生き方に共感を覚えているのも事実である。
私は彼の著書は前述の「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」しか読んでいない。彼の話を聴いたのを契機に彼の著「雪男は向こうからやってきた」と「アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」の2冊を早速図書館に予約した。
そうそう、講演会の最後に、日本山岳会北海道支部の会員でもある彼の恩師の函館ラサール高校の国語教諭の方が、彼の文章がいかに素晴らしいか、それが自分にとってもどれだけ誇らしいことかと語った。そして最後に「くれぐれも気をつけながら、自らの生き方を貫いてほしい」と教え子に語りかける場面が私には感動的だった。
※ 私の文章では角幡氏の魅力を十分に伝えきれていない歯痒さを感ずるが、私の筆力がないということでご容赦願いたい。

10月11日(土)夕刻、りんゆうホール(東区北2東2)にて「登山と探検 ~常識の外に踏み出すということ~」と題して角幡唯介(かくはた ゆうすけ)講演会が行われた。
この講演会は、日本山岳会北海道支部の支部創立50周年の記念事業だそうである。
私はこの日、高校野球の準決勝戦を見届けた後、直接りんゆうホールに赴いた。
角幡氏のプロフィールについて案内のチラシには次のように記されていた。

※ 彼は現在38才。大きな冒険はあるいは最後なのかもしれない。
【講師】角幡唯介(かくはた ゆうすけ)
1976年、北海道・芦別市出身。2008年、ネパール雪男捜索隊に参加。02-03年と09-10年にチベット、ヤル・ツアンポー峡谷の核心部・未踏地域を踏査。10年、同探検を描いた『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。11年、カナダ北極圏1600kmを徒歩で踏破。13年、『アグルーカの行方』で講談社ノンフィクション賞を受賞。現在は、太陽の昇らない極夜の北極圏探検をテーマに活動。15-16年冬に、グリーンランド最北の村シオラパルクからカナダ・エルズミア島に向けて、一匹の犬とともに長い徒歩の旅に出ることを計画中。
角幡氏のプロフィールをさらに付け加えると、函館ラサール高校から、早稲田大学政経学部、そして朝日新聞社記者(今はちょっと叩かれているが)とまるで絵に描いたようなエリートコースを歩んでいる。角幡氏が探検の世界に踏み込んだのは、早大探検部に所属したのがキッカケということだ。

※ かれは今のような生活を一応40才まで続けたいと他の所で語っている。
この日の講演は演題からは離れて、角幡氏が来年から取り組む北極アイスランドの極夜の中の1,600キロもの長い距離を単独歩行で挑む計画を立てている(約4ヶ月を要するようだ)。その準備のために今年の1月から40日ほど試験のために歩いた体験を話すものだった。
ちなみに極夜とは、白夜の反対語で日中でも薄明か、太陽が沈んだ状態が続く現象のことを指す。つまり太陽の顔をまったく拝めない状態が続く中を歩き続けるということだ。
さらには、その冒険行に衛星電話やGPSは携行せず、六分儀によって位置を確認しながら進むという。
単独での北極の氷床地帯を往くということは非常に過酷なことらしい。彼の頬はやや回復したとはいえ、顔全体が凍傷の跡で黒ずんで見えた。気温マイナス35~40度の世界は100キロの荷物を載せたソリは、砂の上を引いているようだという。
彼はこの冒険行の同行者(動物)としてエスキモー犬を白熊対策として同行するということだ。その犬とのやりとりに話は終始した。つまり単独行において犬は何よりの頼りになる存在であり、冒険の仲間だということだ。
本番に衛生電話もGPSも使わないということは相当に命の危険をおかした冒険になるようだ。
彼がなぜそこまでして冒険にこだわるのか?
彼は大新聞社の記者という安定した職を捨てて、なぜ冒険の世界を選んだのか?
彼は言う。「生と死を感じたい」と、あるいは「ヒリヒリとした焦燥感の中に身を置きたい」と…。

このあたりの感覚というか、思いは一般人にはなかなか理解しがたい感覚である。しかし、彼の中には悲壮感など一つも感じられない。むしろ淡々と自分の冒険を語った。
ツアンポー峡谷に挑んだときも、その他の彼が体験した数々の冒険も、いつも生と死を狭間を往くようなものだった。そして今回の北極の極夜を往く冒険行はさらに厳しいものになると予想される。
己の人生をどう生きるか、それは人さまざまだとは思うが、角幡氏の場合は過酷なまでに「生きているリアル感」を感じたいということなのかもしれない。
きわめて一般人の私であるが、どこかで角幡氏の生き方に共感を覚えているのも事実である。
私は彼の著書は前述の「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」しか読んでいない。彼の話を聴いたのを契機に彼の著「雪男は向こうからやってきた」と「アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」の2冊を早速図書館に予約した。
そうそう、講演会の最後に、日本山岳会北海道支部の会員でもある彼の恩師の函館ラサール高校の国語教諭の方が、彼の文章がいかに素晴らしいか、それが自分にとってもどれだけ誇らしいことかと語った。そして最後に「くれぐれも気をつけながら、自らの生き方を貫いてほしい」と教え子に語りかける場面が私には感動的だった。
※ 私の文章では角幡氏の魅力を十分に伝えきれていない歯痒さを感ずるが、私の筆力がないということでご容赦願いたい。