ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

日本経済新聞紙に掲載された「トップ決断にノー言えず」を拝読した話の続きです

2013年05月30日 | 日記
 2013年5月26日に発行された日本経済新聞紙朝刊の掲載された「日曜に考える」の中の解説「トップ決断にノー言えず」を拝読した話の続きです。

 この解説「トップ決断にノー言えず」はシャープが5月14日に東京都内で開催した社長交代会見が行われた背景を解説したものです。

 現社長の奥田隆司さん(画像の向かって左側の方)は、シャープでは珍しく短命(1年3カ月)の社長となりました。 



 来月6月25日に新社長に就任予定の高橋興三さんは、画像の向かって右側の方です。

 解説「トップ決断にノー言えず」によれば、シャープは2012年に創業百年を迎えましたが、その百年間に社長を務めた方は6人しかいません。創業者の早川徳次さんが約59年間も社長を務めたことも一因ですが、二代目社長の“中興の祖”である佐伯旭さんも約16年間、社長を務めました、三代目社長(現特別顧問)の辻晴雄さんは約12年間、社長を務めます。辻さんが社長時代の1990年に液晶事業本部が発足します。

 そして、1998年に四代目社長に町田勝彦さんが就任し、2001年に液晶テレビ「AQUOS」を発売し、液晶テレビ・液晶パネル事業に事業資本を集中させ、急成長します。創業者から四代目社長までの4人が約95年間を務めました。しかも、二代目の佐伯さんと三代目の辻さん、四代目の町田さんは縁戚(えんせき)関係にあり、シャープは巨大な同族会社でした。この延々と続く巨大な同族会社であるシャープの社風として「社長などの経営陣にノーと言える風土ではなかった」と、現社員が証言しています。これが見出しになっています。

 1990年に発足した液晶事業本部を育てる研究開発を勢力的に進めた成果を受けて、四代目社長の町田さんは日本の他の電機メーカーに先だって、液晶テレビ事業にヒト・モノ・カネを集中投資し、液晶パネル・液晶テレビ事業を育てます。

 その象徴が三重県亀山市の亀山第一工場と第二工場でした。液晶パネル生産から液晶テレビ組み立てまでの一貫生産ラインを築き、亀山工場は“コンビナート”と呼ばれます。このコンビナートは、最近、非難の対象になっている垂直一貫体制です。生産した液晶テレビが国内市場で売れ続けている間は、高収益を産む態勢でした。

 この絶頂期の2007年に、五代目社長に片山幹雄さんが就任します。2008年に、五代目社長の片山さんと当時会長の町田さんが推進した総額4000億円の巨額を投入する堺工場(大阪府堺市)の大型液晶パネル工場は、ライバルである韓国のサムソン電子とグローバル市場で闘うための事業投資でした。この大型液晶パネル工場への巨額投資のハイリスクを見積もり、その巨額投資に待ったをかけることができる、他の役員や社員はいるはずもなく「ノーと言える雰囲気ではなかった」のです。

 この当時は、社長と会長以外の役員(取締役)や幹部社員には、シャープの主流の液晶事業部関係者が引き上げられ、「液晶事業関係者以外は傍流という雰囲気だった」そうです。

 そして、2008年9月に米国発のリーマンショックが日本を襲った結果、国内市場で液晶テレビが売れなくなります。この結果、堺工場の巨額投資を軽減するために、当時の片山社長はソニーから堺工場に1000億強の投資話を引き出し、投資額圧縮に努めます。しかし、当時のシャープはソニーに大型液晶パネルを約束した数を供給できず、ソニーの怒りを買い、ソニーは約100億円しか投資しなかったといわれています。この時に、シャープは約束した大型液晶パネル数を供給していれば、その後の展開が変わったのではないかといわれています。ソニーにとっても、現在と異なる状況になった可能性があります。

 また文章が長くなったので、明日に続きます。明日で最後です。